今夜もようこそ銀座のバー白カラス亭へ

朱尾 晃輝(アカオ コウキ)

第1話

「ニューハーフとんでも悲話」


銀座3丁目、銀座中央通りから1本裏に明治時代からのガス灯が残る、『ガス灯通り』がある。この『ガス灯通り』の真ん中に小さな「白カラス亭」という10坪ばかりのバー がある。カウンターだけの小さなバーで10人も入れば一杯になる。僕はそこのオーナーである。小さなバーだが、100種類以上の洋酒と僕の作る料理が美味しいと評判になり、常連客で結構繁盛している。しかし5年前に最愛の妻ようこを亡くし、今はこの小さなバー「白カラス亭」を独りで切り盛りしている。僕の両親はとっくに他界し、兄弟も親戚も勿論、子も無い天涯孤独の生活を淡々と続けている。時々お台場にあるスーパー銭湯「大江戸温泉物語」に行き、客の絶えた「白カラス亭」のカウンターで好きな音楽を独りで聴くのが唯一楽しみな、白髪混じり、中肉中背40代半ば、ちょい悪オヤジ風中年男である。


ところで、このガス灯通りには、由緒正しきお店が沢山並んでいる。新規参入の「白カラス亭」主人の僕は周りの旦那衆に遠慮しつつ控えめにお店を営んでいる。

12月もクリスマスを過ぎ、街の喧騒も一段落して落ち着きを取り戻していた。

夕方6時 、「白カラス亭」オープンと同時に隣の焼き鳥屋のメガネ親父が飛び込んで来た。メガネのレンズが焼き鳥の油でべちょべちょ、本当に見えているのか不安になる。

「ねぇねぇ、白カラス亭さんよ、頼みがあるんだけど。・・・ちょっとウィスキー1本貸してくんないかい?」

「え、ウィスキーですか?」

「そ、そうなんだよ。今入って来た客がどうしても、ウィスキー飲みたいってんでね。何時もだったらサントリーとかニッカとか置いてあるんだけど、見たらウィスキーぜぇ~んぶ切らしちまってんだよ。ちょっと走って、ほら、中央通りの明治屋まで行くより、オタクから貸して貰った方が早いんでさ。」

「ああ、そう言うことですか?どうぞ、大概の銘柄だったら置いてありますから。」

「あ、そこの、それでいい、それ。」

焼き鳥屋のメガネ親父が酒のびっしりと並んだ瓶棚を指し、メガネを汚れた指で拭った。レンズが指紋だらけになった。

「親父さん。それって、それはケンタッキーウィスキー、『I.W.ハーパー』ですけど。」

僕はメガネ親父が指した瓶を取り上げて言った。

「構わないってことよ。ケンタッキーだろうがフライドチキンだろうが、ウィスキーだったらなんでもいいんだよ。」

指紋だらけのメガネを鼻に掛け直しながら、目を細めて言った。

「本当にいいんですか?スコッチじゃなくて。・・・これってアメリカのバーボン。正確に言うとケンタッキー・バーボンですが・・・。」

「いいの、いいの。うちでウィスキー呉れってぇのが間違ってんの。うちは日本酒か、焼酎しか置いてないんだから。じゃ、ちょっと借りるよ、このボンボンっての。・・・・悪いね。」

「ボンボンじゃなく、バーボン。でもさっきはサントリーとニッカのウィスキーは置いてあると言っていたのに・・・・。」

僕は心の中で思ったが黙って焼き鳥屋のメガネ親父にケンタッキー・バーボンを渡した。

焼き鳥屋のオヤジは僕の言うことを半分も聞かないで出ていった。出るときに「白カラス亭」の入り口でつまづいて転びそうになった。「そのメガネじゃあ、足もとは見えないだろうなぁ!」と僕は思った。

「しかし、『悪いねぇ!』って、・・・・何時返して呉れるんだろう? 」

焼き鳥屋のメガネ親父が出て行った直後、入れ違いに、今度はニューハーフ の登美ちゃんが「白カラス亭」の重い木製ドアをちょっと開けて中を覗いた。

「こ~ん、ばんわ。だれも居ないのぉ~。 入っていい?」

「ああ、登美ちゃん。どうぞ、どうぞ。未だ誰もいないよ。 」

「う~ん、じゃちょっと、入る。でもぉ、もう、お店の出勤時間な~んだよね。」

登美ちゃんが金髪のウィグを指で触りながら言った。

「あ、そう。・・・でも一杯位いいじゃない。」

「そおね、じゃあ、一杯だけね。白カラスさんて、上手いんだから。・・・誘い上手!」

「え、何が上手いって。」

僕は独りで聴いていた有線のダイヤルをそのままにして、登美ちゃんの顔を見た。

登美ちゃんの目蓋が腫れぼったいのに気が付いた。

何か様子が変だ。目の下まで腫れて黒ずんでいた。

「登美ちゃん、何を飲む?」

「出勤前だから、軽いのにして、白ワインのソーダー割り・・・。」

「ああ、スプリッツアーね。」

「ピンク色にして呉れる?」

「ああ、いいよ。ちょっとだけ、ピンクにしてあげるよ。」

僕は古い曲が好みで特に昭和に流行ったナット・キング・コールの曲が大好きで、たった今も「ラブレター」を聴いていた。高音なのに渋いさびのある彼の声に、登美ちゃんが、女性顔負けの細く白く長い指でそっと目蓋を押さえた。鮮やかなレッドネイルの上で涙が光った。

「はい、ピンクスプリッツアー。・・・ねえ、登美ちゃん。どうかしたの?」

「・・・・・。」

登美ちゃんはグラスの液体を一口含んで、僕の顔を見た。グラスの縁にボルドー色のルージュの跡が付いた。

登美ちゃんの黒目がちな瞳から大粒の涙がポタッ、ポタッ、とカウンターの上に落ちた。

「あ~あ、マスカラが・・・お化粧が台無しだよ。これで拭きな。」

僕はポケットからハンカチを出した。

登美ちゃんは涙を拭いて、チ~ンっと大きな音で鼻をかんだ。

「ハンカチ返さなくていいから。」

「有難う、洗濯して持ってくるね。」

「一体どうしたの、何かあったの?」

「・・・・・うん。」

「もし、良かったら話してみてよ。聞いてあげることくらいは僕でもできる。それに他のお客もいないから。」

「有難う・・・・・・。」

「で、どうしたの?」

「彼、彼がね、彼が出て行っちゃったの・・・・・・。」

登美ちゃんの瞳から洪水のように涙がどっと溢れて流れた 。

登美ちゃんは僕の渡したハンカチで、また鼻をチーン!とかんで、ヒック、ヒックとしゃくり上げた。

「実はね、実は、昨日出勤途中で、マンションに携帯とお財布忘れてぇ、戻ったのね・・・・。」

登美ちゃんは、一気にピンクスプリッツアーを飲み干して、もう一杯欲しいと言った。

「うん。うん。昨日、登美ちゃんは出勤の時、忘れ物して部屋に一度戻ったんだね。」

「そうなの・・・・。そんなに遠くまで行ってなかったから・・・・。」

「で、どうしたんだい?何かあったの、部屋で・・・・?」

「聞いて呉れる、聞いて呉れるぅ・・・・・うっ、うっ、うっ。」

登美ちゃんは僕のハンカチで、またまた鼻をかんだ。チーン!と大きな音がして、登美ちゃんは、僕の顔を恥ずかしそうに見て首を縮めた。

「あのね、部屋の鍵を開けて、奥のベッドルームに行ったの。そしたら、そしたら、彼が、彼が・・・・・ 」

登美ちゃんは絶句した。大粒の涙が丸い瞳からカウンターの上にまたまた、こぼれ落ちた。ナット・キング・コールの渋くかすれた声が、カウンターで独り泣くニューハーフと僕の間に静かに流れた。

「彼が他の女、いや男・・・ でも連れ込んでいたのかい?」

登美ちゃんは首を振った。

「違うの?じゃあ、他のニューハーフでも居たの・・・?」

登美ちゃんはまた首を振った。

「どうしたって、言うの。僕にちゃんと言ってごらんよ。」

僕はちょっといらいらしながら登美ちゃんを叱った。

「ごめんね、ちゃんと説明するね。」

その後の登美ちゃんの話で、登美ちゃんには悪いと思ったが、僕は笑いとしゃっくりと涙を堪えるのに必死になった。

「ねえ、それでどうしたの?」

僕は先を急かせた。

「白カラスさん、もう一杯 下さる?・・・・違うのがいいわ。」

「出勤前に大丈夫かい、もう時間だろう?」

「平気、平気。大丈夫だってば。トム・コリンズにして・・・。」

僕は、ロングタンブラーグラスにドライジン、レモンジュース、砂糖を入れ、ソーダーを満たした。

「はい、トム・コリンズ。でもこれは登美コリンズだよ。ちょっと手を加えてピンク色を付けたから。・・・で、どうしたのよ、続きを話してよ。」

「うん、あのね・・・。寝室からへんな声が聞こえたの 。それで寝室のドアをそっと開けて中を見て・・・・。」

「中を見て、で、で、何を見たの。やっぱ、不倫?」

僕は興味津々でカウンターから身を乗り出した。

「白カラスさん、そんなに顔近づけたたら、・・・いやぁ~ん、その可愛いお鼻にキスするわよ。」

「あ、あ、あ~それはいいよ。うん、うん、それで・・・。」

「彼がね、彼がHなDVD見ていたの。」

「な~んだ、そんなの普通じゃない。どんな男だってHなDVDくらい見るさ。」

僕はちょっとステップバックしながら言った。

「ううん、違うの。彼ったらズボンを下げて、下げて、それで・・・。」

「え、じゃHなDVD見ながら、妄想に耽って独りメクルメクHをしていたの?」

「あたしもね、あたしも、最初はそう思って、兎に角、頭にカーっと血が昇って 、キッチンに行って、持ち出したの。」

「ま、ま、ま、まさか・・・ほ、包丁!」

僕は絶句したまま、固まってしまった。

「何、そんなに驚いているの、えっ、包丁?まさかぁ、そんなの危ないわよ。大根よ、大根。ぶっとい買ったばかりの大根。それでぇ、その大根もって寝室に飛び込んで・・・。」

「大根かぁ、大根ねえ。そ、それで、どうしたの。」

登美ちゃんはトム・コリンズを勢い良く飲み干して言った。

「飛び込んで、いきなり彼の頭を後ろから、大根で思いっきり殴ったわ。大根が三つに折れて飛んだのよ・・・。 」

「殴ったかぁ。そうか殴ったのか。・・・痛かっただろうなぁ!」

「うん、『おいっ!こらっ!何が悲しくて独りでマスかきしてんだよっ!』って怒鳴ったの。大根で殴りつけてから、・・・でも、でも、でも。」

登美ちゃんはまた泣き出した。またまた大粒の涙が再びカウンターにこぼれて落ちた。カウンターの上は涙の池になった。

「そ、それが、それが、違ったのよぅ。違ったてたのよ、あ~、あ~、あ~・・・・。」

登美ちゃんは大声で泣き出した。店内に誰も居ないのが幸いだった。

「よしよし、よしよし。登美ちゃん泣くのはお止め。何が違っていたの?」

僕はカウンターから出て、登美ちゃんの背中を優しく、そっと撫でながら言った。

「有難う・・・。白カラスさんって、優しいんだね。あのね、あのね、彼ったらね、HなDVDを見てたのは本当なんだけど・・・・、最近寒いじゃない?彼ね、彼ったらね、寒さで太ももから脚に湿疹が一杯出来てたの。それで、DVD見ながら太ももに湿疹の薬を塗っていたの。それを、それを、あたしったら、あたしったら、独りHしてると勘違いして 、大根で殴ったのぉ!大根が三つに折れて飛んだの!」

「そうだったのか、でも、HなDVD見ながら、背中向けて太ももに薬塗ってりゃ、誰だって勘違いするよなぁ。」

僕は妙に登美ちゃんに同情したくなった。

「うん、でもね。彼が怒ったのは、あたしが、大根で殴ったからじゃないの。」

「え、大根で殴ったからじゃないの?別の理由で怒ったの。」

「そう、そうなの。彼ね、大根で殴ったら気絶しちゃって、あたし本当にびっくりしたの。彼死んじゃったかと思って。それで慌てて救急車に来て貰ったのね。ズボン半分まで下げた格好で彼は病院に連れて行かれたの。」

「彼、大丈夫だったの?」

「うん、軽い脳震盪だったわ。大きなコブが出来てたの。でもね、彼がズボン半分下げて、気を失って、そんでニューハーフのあたしが一緒に病院 でしょう。看護婦さんや先生達の間で、あたし達、もう有名になっちゃったの。」

「そうだろうなぁ~。そりゃぁ有名人だわ。」

「で、彼が、彼が、『お前のせいでプライドがずたずたにされたっ!』て、怒って出ていっちゃったの・・・・。」

「大丈夫、大丈夫。彼きっと戻って来るよ。」

僕は登美ちゃんを優しく、優しくなだめて、夜のお仕事に出勤させた。彼女?の背中を軽く押しながら僕は笑い を噛み殺した。こりゃぁ、まだまだ今晩は何か起こりそうな予感で背中の産毛がざわざわと騒いだ。




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