豊洲センター

佐多椋

1. 真藤勝矢

 お疲れ様でした、という声は俺の口の中で掻き混ぜられ、形を失って、ぼんやりとした音になってこぼれ落ちた。それでも誰にも咎められない自分は、それだけ長くこのバイトで生活費を稼いでいるということになる。それは周りの芸人も皆同じなのに、それが日常なのに、ふと殊更にそのことを意識したのは、何か無意識の裡に感じ取っていたものがあったのかもしれない。

 店の外に出て、携帯電話を取り出す。持て余しがちな五.三インチの画面の中心に、通知一覧が表示されていた。ライブの告知が三リツイートされている。恵利からの着信。そしてメッセージアプリに、甲野から一件、新着メッセージ。ネタ合わせの予定を変えたいのだろうとかと俺は思う。よくあることだからだ。……何かしら特別な出来事の気配がした、そういう感覚もあとから考えると存在するのだけど、そのすべてはでっち上げのようでもあった。そんな細かいことはよく覚えていない。空白がある。俺はそれに好き勝手に書き込める。

《話があるんだけど、いつ時間取れる?》

 ライブやオーディションの日程を中心とした事務的な連絡が、カラフルな吹き出しに包まれて連なっている。感情をなくしたかのようなやりとりの末尾で、その問いは温度を残していた。

《いつでもいいよ》

 俺は無表情のままで、返事をする。しかし心の中では、わずかにではあるがざわつくものがあった。

《じゃあ今から、高円寺のドトール来れる?》

 高円寺周辺に、ドトールは二店舗ある。しかし俺はそれで迷ったりはしない。養成所の後輩だった甲野が俺を呼び出した場所が新高円寺のドトールで、あいつはそこを〈高円寺のドトール〉と呼んでいた。高円寺駅の周辺にドトールがないことを知った俺は、かすかな記憶をたよりに新高円寺に向かった。店の奥に、ぼんやりとした表情で甲野が座っていた。東高円寺にもドトールがあることを知ったのは、ずいぶん後のことだ。あのとき俺が間違えて東高円寺に行っていたとしても、すぐに合流できただろう。それでも、そんな些細なすれ違いがきっかけで、甲野は本題を切り出せなくなっていたかもしれない。そういう奴だ。

 ふたりともが、埋め立て地にある理系の大学の出身であることを聞かされたのも、その時の〈高円寺のドトール〉だった。俺は何かの拍子に口にしたことがあったが、甲野はなぜかひた隠しにしていた。不利だと思ってと言っていたが、意味がわからなかった。

「だから、これも縁ですから、――組んでくれませんか」

 俺の、へえ、そうなんだという気のない返答に焦ったのか、甲野は切迫した口調でそう続けた。そのあまりの唐突さに一瞬言葉を失い、続けて笑いがこみ上げてくる。ここで笑ったら駄目だ、という特に意味のない感情に従い、それを押し殺す。あんまり考えたことがなかったけど、この組み合わせはありかもなあ、というやたらに客観的な自分を感じながら、沈黙を恐れて言葉を続ける甲野を見下ろしていた。

 あのときはまだ、甲野は俺に対して敬語で話しかけていた。いつから、敬語を使うのを止めただろう。何かきっかけがあったはずだが思い出せない。普通は、そういうの、ちゃんと覚えているものなのだろうな、と思った。


 秋口の風が、身体をかすめていく。

 バイト先から〈高円寺のドトール〉に向かったことは何度かあるから、自転車で二十分くらいの道筋は調べなくてもわかる。強いて平静でいようとしている自分を滑稽に思いながら、先ほど現れた奇矯な客のことを、どうエピソードトークに落とし込むか考えていた。

 オチへの振り方を試行錯誤していた俺は、ふと、自転車を止めた。曲がり角の目印にしていたラーメン屋が潰れていて、一瞬、道を見失う。現在地を確認し直すために周辺を見回すと、見覚えのあるオブジェが視界に入った。漫画めいた犬の頭が魚の胴体にくっついた、……俺にとっては、不気味な物体が、閉店した理容室の前に放置されている。

 ――あれ、まだあったのか。

 甲野とふたりで、一時期ネタ合わせに使っていた公園に向かっていた途中だった。甲野が不意に立ち止まる。買ったばかりだったスマートフォンを取り出して、そのオブジェを撮影していた。それどうするんだ、と俺が訊くと、面白いからアップしようと思って、と応える。そんなもん何が面白いんだ、と吐き捨てようとした俺は、しかし急にそんなことは無駄に思われてきて、黙る。

 たとえばそんなようなことが、最近多かったような気がする。いや、……そんなことは最初からずっとあって、自分が見ないふりをしていたのかもしれないし、見なくても良かったのかもしれない。


 店内で甲野は、所在無さげにストローを弄んでいた。

 俺が近付くと、顔を上げて今気付いた、といったような雰囲気を出していたが、ひどく不自然だった。おそらく俺が店に入った時から気付いていたのだろう。頼んでいたアイスコーヒーはほとんどなくなっていた。

 お疲れ、と言うと甲野は口の中で何か呟いたが、俺は聞き取ることができなかった。苛立ちを感じたが、バイトを終えた時の自分を思い出し、沈黙する。苛立ちは臭い液体となって飲み込まれ、喉を、胸を、体全体を腐らせる。

「話ってなんだよ」

 俺はその腐った液体を吐き出すように、そう言った。


「話っていうかさ」

「ていうか?」

「つまりその、ごちゃごちゃしていて」

「……何が」

「頭ん中が」

「整理してから呼び出せよ」

「あ、いや、整理したつもりだったんだけどさあ」

「整理しろって」

「……同じことばっかり言って」

「あ?」

「同じことばっかり」

「お前だろそれは」

「……」

「お前だろそれは、お前だろそれは、おい」

 当然まったく面白くもないし、つっかえつっかえでテンポが悪いやりとり。ネタがつまらなくてもテンポだけは良いと言われてきたのに。

「だからもう駄目なんだよ」

「何が」

「……全部」

「全部って」

「何もかも」

「同じ意味だろ」

「そ、そうだけど」

「だから何なんだよ。結局、結局なんなんだって」

「辞めたい」


 よくコンビの関係性は恋人同士のそれに例えられる。解散を経験した芸人に話を聞いても、自分の何が不満なのか問い詰めたり、泣きながら引き止めたりしたけど駄目だった、というような話を聞くことがある。すると今の自分たちはどういう状態なのだろうか。自分の感情を推し量ろうとするが、本心のうえに自意識が分厚くコーティングされていてもう何も読み取れない。

 何を言ったらいいのかもわからない。どこかに正解があるような気がした。

「……どうすんの?」

 どうしようもない返答。

「まだ決めてねーよ、まだ、なんとかなるだろ」

「甘いこと言ってんじゃねえよ」

「じゃあ売れると思ってんのか? 俺たちが? 今さら? その方がよっぽど甘いだろ」

「……わかんないだろ。来年いいとこまで行けば」

「伸びしろねえよ、もう」

「自分で決めるなよ」

「決めたんじゃなくてわかったんだよ、お前よりは頭いいから」

「……」

 沈黙が落ちた。何か言わなくてはいけないという焦りが頭のなかを何周もした。俺は口をむりやり開いた。

「それで、いつまでやるんだよ」

 それで全部終わった。


 いつの間にか自転車に乗っていた。それどころかそれなりに、家に近付いていた。

 身内しか来ない養成所ライブが初舞台だった。ろくに受けが取れないまま漫然と過ごし、当然、卒業後も所属できなかった。その後フリーで活動して、それでもまだしばらくだらだらと過ごしていた。フリーエントリーのライブで知り合ったコンビが事務所を決めたり、そのまま所属した同期が賞レースの二回戦に進んだりするなかで、ようやく力を入れ始めたように思う。いくつかネタ見せを受けるなかで、手応えのある事務所に狙いを絞り、フリー枠で最もランクの低いライブに出られるようになった。半年くらい出続けた時に、明らかに一段上の受けを取れたことがあった。アンケートの結果も、どの所属組より良かった。周りの少し鋭い視線の中で、何度もアンケートを読み返した。その日は、甲野と飲みに行ったような記憶がある。その次のネタ見せの帰り際に、預かりでの所属を持ちかけられた。

 それが四年前のことだ。

 それで、そこで、終わっていたのかもしれない。

 錯覚だと思おうとした。それでも、その間にあった色々なことが存在感を失い、あの時の会場の揺れが、自分のなかですべてになっていく。それが過去であることも同時に、強く主張しながら。

 自分も辞めなくてはいけないような気がした。芸人続けるのなんて簡単じゃん、辞めなきゃいいんだ、そう嘯いた先輩も先月辞めた。考えが自分のなかでかたくなになってくるのを感じる。そうしてはいけないとわかっているのに。

 家に着いた。見慣れた自分の部屋に入り、ようやく少し落ち着く。携帯電話を取り出す。告知のリツイートが二件増えていた。五リツイート。

「五リツイートか」

 呟く。

「五リツイートなら、続けようかなあ」

 誰もいない部屋で。

「俺はバカだからな、甲野より。五リツイートで続けるかな。五人いるから」

 二八歳、職歴はバイトだけ、事務所ライブは最下層よりひとつ上。賞レースは二回戦まで。

 かっこつけて別の名前でやっていた活動も特に何にもならず。

「バカだから続けるか」

 何の特徴もないスピード漫才。大喜利苦手。作家がいうには将来性なし。

「多分売れないけど、多分っていうか、絶対売れないけど」

 考え続けていたら馬鹿馬鹿しくなって笑えてきた。けれど、凄まじいセンスで繰り出したボケで笑う客と、自分の将来が真っ暗すぎて笑う俺と、結局のところ、笑っているのは一緒だ。

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