3. 甲野拓人

 長々と続くツイートの群れを眼で追う心は、冷え切っていた。自己憐憫とアピールのための言葉の連なり。空虚な主語と動詞と形容詞。ぼくは知っていた。東欧のアニメ映画のキャラクターをアイコンにしているこの女……《あき》が、「心の糧」と呼んだ漫才師に対して、何をしていたのかを。

 あいつは豊洲センター(ないしは、くまパジャマ。むしろこちらの方が好みだったようだが)という漫才師ではなく、ぼくの相方である真藤勝矢というひとりの若手芸人に自分の厄介な部分を押し付けていただけだ。漫才なんて一度も見ていなかった。本人は見ていたつもりなのだろう。コンビ名でエゴサーチすると、ライブの感想の一部として長々と何か書いていた。客観的に記しているように装っていたが、実際は厚い、歪んだレンズの向こうで、現実のぼくらとは似ても似つかない誰かが、サンパチの向こうに立っているのを見つめていたのだと思う。まあ、あくまでぼくにとっては、ひどく的外れだった。それに、ぼくらの数少ないファンの間でも声が大きく、時々軋轢を起こしていたこともあったようだ。

 もっとも真藤は、ぼくのように《あき》のことを憎んではいなかっただろう。鬱陶しくは思っていたかもしれないが。要するに《あき》は、真藤だけいればよかったのだ。ぼくはその隣にいるだけの存在、いや、それだけならばまだよかった。ぼくが真藤の邪魔をしている、真藤が他の誰かと組んでいれば売れていた、そういう妄想に取り憑かれていた。

 真藤が、ライブでエピソードトークとしてぼくの話をしたことがあった。魚っぽい胴体に犬の頭がくっついたオブジェをスマートフォンで撮っていたという話だ。大したオチも用意せず、「ね!? おかしなヤツでしょう?」と大きな動きをつけながら怒鳴ることだけで話を締めた真藤の、震えた指先を思い出す。先輩芸人が強めにツッコミを入れてくれたことでなんとかその場は成立したが、おおよそうまくいったとはいえなかった。

 それなのに、《あき》のなかでその場面は、感覚がずれた相方に呆れる真藤が、笑いに紛れて糾弾する姿にしか見えていなかったようだ。ライブが終わって二時間後には、いつものように連続ツイートを投稿していた。『ちゃんとしてる人がいて。ちゃんとしてない人がいて。でも結局、同じ一組としてひとくくりにされる。しょうがないことなの?しょうがないことなの?しょうがないことなの?』

 うるせえよ。


 芸人を辞めてどうするか、まだ考えていなかった。親からは地元に帰れと言われていたが、帰ったところで仕事が決まるわけでもない。二週間くらい、コンビニのバイトに通っては帰り、家でぼんやりと自分たちの解散についたコメントを読み返していた。《あき》のものを除いて。

 でも、誰からの誘いもない土曜日の夜、結局ぼくは、かさぶたに触れてしまう時のように、読んでも何もいいことがないとわかっていて《あき》のコメントを見てしまった。どうしようもなくずれている、と読み返しながら改めて思った。何もわかっていない。そのままスクロールすると、フォロワーと愚にもつかない会話をしているのが目に入った。会話は延々と終わらない。ふと、これまで《あき》が残したレポートのようなものの記憶が断片的に蘇った。大体の内容は思い出せるが、細かい言い回しが判然としない。そこに一番、苛立ったというのに。

 何をしているんだろうと思いながら、ぼくは《あき》のIDと思いついた単語で検索を繰り返した。すると、検索結果として、ツイートのログを記録するサービスが表示された。《あき》はそこに記録を残していたらしい。ぼくは、画面の右下に表示されていた検索窓に思いつくままに単語を打ち込んで、読み返した。その度に心の奥底で、何かが引き攣るような感覚が繰り返される。論破のための言葉はいくらでも思いつく。それを投げつける自分の姿を夢想する。だがそれはどこか手ごたえがなく、当たったはずの言葉は空を切る。やがて、むなしく言葉を投げつける自分の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。

 やがて、そのツイートに行き着いた。三ヶ月前の、ライブの感想に付け加えられた愚痴。

「もう一回ちゃんと考えてみたらいいのに。誰のためにお笑いやってるのか。売れるためでもモテるためでもいいんだけど、ちゃんと客のこと見えてるのかな? ネタ見せとかオーディションのことばっか考えながらネタやってるなら辞めたらいいのに。」

 読み流しかけたが、何か引っかかりを感じて再び目を止める。数秒考えたところで、鈍い歯痛のような不快な感覚が身体の中心を走った。文章を幾度も読み返す。

 誰のためにお笑いをやっているのか。売れるためでもモテるためでもいい。客のことを見ているのか。ネタ見せやオーディションのことばかり考えながらネタをしているようなら、辞めたほうが、いい。

 それは、ぼくがお笑いを辞めることにする過程で考えたことと、まったく同じだった。


 たまに、自分のことがわからなくなる。

 中学生のころ、当時流行っていたゲーム制作ツールを使って、ロールプレイングゲームを作っていたことがあった。一ヶ月以上かけてキリのいいところまで完成させたぼくは、親友にデータを保存したメモリーカードを渡した。翌日、感想を聞きたくてわくわくしながら登校したぼくを待ち受けていたのは、投げつけられたメモリーカードだった。

「お前、俺のアイディアパクっただろ」

「え?」

 最初は何を言っているのかわからなかった。昂奮した彼の言葉は明瞭でない部分も多く、時折ぼくに掴みかかるようなこともあって、話の内容を掴むまでにかなり時間がかかった。ただそれを理解するごとに、身体の芯が冷えきっていくのを感じた。認めたくなかった。確かにぼくは、彼が少し前にぼくに話したアイディアを、使っていいか訊くこともなく使っていた。問題は、ぼく自身にその自覚がまったくないことだった。知らない間に、他人のアイディアを自分のものとして使っている。普通ならかかるはずの歯止めがかからない、自分がそういうタイプの人間であることをこの時に、ぼくは知った。

 それきり、ゲームを作るのはやめてしまった。

 その後、高校を卒業後、真藤に誘われるまま芸人になるまでの間に、ぼくは何かを創作したりといったことをしていなかった。すると、なぜ自分が創作するのをやめてしまったのかを、綺麗に忘れてしまう。次にそれを思い出したのは、養成所に入ってからだった。

 当時からコンビのイニシアティブをとっていたのは真藤のほうだったが、ぼくもネタを作らなくてはいけないような雰囲気があった。ネタ帳を広げて形だけ考えてみるものの、当然何も思いつかない。それでも脳裏に浮かんだフレーズを残らず書き留めていくと、天啓が走ったようにひとつのストーリーが組み上がる。気持ちの高まりを感じながらノートに文字を書き連ねた。

「なんだ俺いけるじゃねーか」

 知らず、そう口にしていた、そのときにはもう予感はあった。記憶の奥底から小さな呼び声がする。しかしぼくはその声を捕らえることができず、こびりついた予感を振り切るようにしてネタ帳を閉じた。

「これ、あれじゃん。まんま」

 だから、ネタ帳を見せた真藤が眉をひそめ、有名な先輩芸人の名前をあげてそう云ったときには、すべてが収まるべきところに収まったような気すらしていた。自分の愚かさに先回りされたような気持ちだった。それきり、ぼくはネタを作るのをやめた。

 結局ぼくは何もオリジナルなものを作ることができなかった。辞める時の心の動きさえ他人の言葉、しかもずっと蔑んでいた相手のコピーにすぎなかった。

 なんだか、笑えてきた。衝動に従って表情を動かし、笑顔を作る。しかしそうしていることすらも、どこかの誰かの行動を真似しているようで、自分を信じることができない。涙が出る、この涙は本当にぼくのものだろうか。頭のなかはぐちゃぐちゃで、引っ掻き回されているようで、ただ行動としては何もすることができなかった。爆弾に道を塞がれたボンバーマンのようだと思った。


 指が震えていた。

 真藤に電話して、とにかく謝ってまたお笑いをやろうと言うつもりだった。結局眠ることができず朝になっていて、丸一日以上寝ていない状態で考えていることが、客観的に見てどのように映るのか、ちゃんと考えられずにいた。ただ拒絶されるのだけが怖かった。

 どうしても通話のためのアイコンを押すことができず、スマートフォンを放り投げる。それで少し冷静になる。仮に再結成できたとして、もう事務所には戻れないだろう。そうなると、また一から事務所を探さなくてはいけない。そんなことができるのか? いや、そんなことを考えてしまう時点で、本当に自分はまたお笑いがやりたいのか? 《あき》の言葉と自分の思考が同じだったことに抵抗したいだけじゃないのか。それに、ここでまたお笑いをやるということは、また別のすでにある物語にべったりと沿うということとまったく同じじゃないか。すでにあるものでぼくの視界は埋め尽くされている。ぼくは本当は何がしたいのか。三十近くにもなって、中学生の夏休みのような命題から逃れられなくなっていく。

 どうしたってベタだった。豊洲センターの漫才のように。一方でくまパジャマとしてやってきたような、いわゆるシュールなネタは、結局真藤のもので、ぼくの身には余るものだったのだろう。だったら、ぼくはぼくで、ぼくのベタをやっていくしかない。そう思ったときには、またひとつの、誰もが知る物語が浮かんできていた。夢破れた若者が、地元へと帰る。

 ぼくは再びスマートフォンを持ち、電話アプリを起動した。ただ電話する相手は真藤ではない。着信履歴から実家の電話番号を探り、タップする。端末を右耳に寄せる。機械的な音の連続。両親のどちらかが電話に出たら、もしくは留守番電話を録音することになったら、ぼくは恥ずかしくなるくらいにベタなことを言わなくてはいけない。借り物の言葉で、けれどもぼくの声で。

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