4. 真藤勝矢
ネタ中に客席にいる誰かに気付く、みたいな話をよく聞くが、俺はそうなったことがなかった。気付くとしてもコーナーやエンディングになってからだ。ネタに集中してないからそんなことになるのではないかと思っていた。記憶にしまわれた台本を次々と取り出しながらネタを進めるとき、客はたとえ数人であってもぼんやりとした塊でしかなく、その一角が笑い声をあげたり、また押し黙ったりしている。そういう感覚だった。
だがそのライブでは違った。舞台が明転し、マイクの前に辿りついて、視線をあげた瞬間に、はっきりとわかった。そいつは俺から隠れるように客席の奥に座っていたが、大声をあげてアピールする迷惑な客と同じくらい、鮮明に存在を感じた。
お笑いを続けようと思い、事務所に伝えて、残ることを認められた、そこまでは良かった。とりあえずピンでやるのかと訊かれて、そのことをまったく考えていなかったことに思い至る。呆れたチーフマネージャーの表情を見て、慌てて頷いた。ろくなことにならないだろうことには、薄々気付いていた。
まずもって、ネタの作り方がわからない。何年もお笑いをやってきたとはいえ、コンビで行うためのネタしか書いてこなかった。極端な話、一言目を決めることすらできない。ならばと、コンビのために作ったネタをピンのものに置き換えようとしてもうまくいかない。いや、その表現は正確ではない。内心ではわかっていた。恥ずかしいのだ。自分が面白いと思うものを人前で披露するという行為にまとわりつく根本的な厚かましさ、押し付けがましさ、それらを俺は相方と強制的に分かち合うことで薄めていたのだと、その時になってようやくわかった。
それでも時間は過ぎる。ネタ見せ、ライブ、オーディション。あらゆる場所で、俺は取り返しのつかないくらいにスベり続けた。いつしか、笑いを取るために考えることが、すべて誰かの模倣になろうとしていた。それは《元くまパジャマ》としてのーーあくまでも――自分がいちばん嫌っていたはずのことだ。その一方で《元豊洲センター》としての自分の得意技でもあったが、しかし、それはもうやめようと決めたはずではなかったか。俺は、同じことを繰り返そうとしていた。一度、自分を再起動しなくてはならなかった。だが、電源を切ったらそのまま二度と立ち上がらなくなってしまうような気がして、ためらっていた。だが、いつまでもそうしてはいられないのは、ネタ見せの時に無言で俺を見るマネージャーの、日に日に厳しくなっていく視線が物語っていた。
また、誰かと組んでもいいと思った。しばらくその気になれなかったのは、なんとなく――だと自分に言い聞かせていたが、本当は違っていた。組み直して、豊洲センターより結果が出なかったら、賞レースの一回戦で落ちたら。客はどう思うだろう。自分は、相方は。年齢を、芸歴を重ねて犠牲にしたものが積み重なっていく。その重み。
結局そのような恐れに浸っていられたのは、まだ余裕があったからなのだろう。焦り始めれば早かった。同じような状況にあるツッコミをそれとなく探しはじめ、声をかける。最終的にたどり着いたのは、コンビの頃に一緒になることの多かった、同期の糸崎だった。
糸崎は、前の相方の甲野とはまったくタイプの違うツッコミだった。実際はもっと複雑な要素があるが、簡単にいえば、甲野は巧く、糸崎は下手だ。ただ、下手だから駄目だというわけではない。例えば、ボケに虚をつく意外性があった場合、ツッコミの役目はそれを客に届けることだ。この場合、巧ければ巧いほどボケはクリアになる。しかし、そこまでの飛距離がない場合はどうか。弱いボケをクリアに伝えたところで、客の反応は弱く終わる。だからといって救いがないわけでもない。弱いボケをツッコミによって増幅させることで、強いボケと同じか、それ以上の笑いが起こることが期待できるからだ。逆に、強いボケに強いツッコミを当てても、お互いがぶつかり合って曖昧なウケで終わることも多い。糸崎は一般的なツッコミに比べても、間やテンポといった面では弱い。平場でもズレたことを言って場の雰囲気を壊すことも少なくなく、あまり絡まないようにしている芸人もいたくらいだ。だがそれ以上に、彼の持つワードセンス、それに道化としての強さが俺には魅力だった。糸崎に任せれば、なんとかひと笑いは取ってくれた。誰にでもできることではない。ゼロの状態から言葉を重ねれば重ねるほど、人の心というのは離れていくものだ。引き寄せる力を持っている者は少ない。糸崎はそのうちのひとりだった。
ただ、糸崎に声をかけることには躊躇があった。話は単純で――俺は自分の書く、俺が言うボケの強度を信じていた。だからこそ、それをクリアに伝えてくれる甲野と組めていた。だが、ピンでやっていて、その自信は打ち砕かれる。俺がわかっていなかっただけで、甲野はボケを増幅する役割を担ってもいたのだろう。……ならば、弱いボケしか書けない自分が、それでも漫才を続けるなら、ツッコミに委ねるしかない。話がある、という内容のメールを打つのには時間がかかったが、そこから先はとんとん拍子だった。糸崎の発する言葉は飾ったものではなかったが、恐ろしいくらいに話の核心を衝いてくる。俺が組みたがっていたはずなのに、気付けば俺が説得されるような形になっていた。
「だから、こういうことじゃん。それ言うけど。僕と組んでよ」
「え?」
「間違ってないでしょ」
「いや、間違ってないけど、いや、え、あ、は、」
「……かったるいな」
初めてネタ合わせした時、俺はずっと戸惑っていた。これまで経験してきたネタ合わせとはまったく種類が異なるものだったからだ。つまり、俺が台本を持っていって、合わせながら修正していく、といったようなものと。もっとも、糸崎に台本を渡すところまでは同じだった。違ったのはその先だ。
はじめは間違えたのだと思った。ツッコミの語尾が微妙に異なっていただけだったからだ。しかし次のツッコミでは、ほぼ完全に表現を変えている。飛ばしたようには見えない。故意に台詞を変えていた。
ネタを止めて、訊くと、その方が良いと思ったから、と平然と答える。
「それならそれで良いけど、なら事前に言ってくれば良いだろ」
「なんで? 良くなるんだから、別にいいじゃん」
その非常識な言葉に、俺がまっすぐ反論できなかったのは、糸崎が加えた改変によって、ネタが明らかに良くなっていたからだ。俺にはない語彙と発想を、糸崎は持っていた。
「……なら、お前がネタ書くか」
「それは違う、違くて、僕はフレーズだけだから。真藤はネタが書ける。構成とかも含めて。真藤が書いて、僕が直す」
「なら、俺から台本を送るから、そこから直して持ってくるか」
「いや、なんか、頭じゃ考えられないから」
怒鳴りつけようとも思ったが、ネタが良くしてくれる相方であることがわかった以上、事態をややこしくしたくないという気持ちもあった。再開してすぐにわかったが、本筋は変えてこないとはいえ、想定しない言葉を聞くと一瞬たじろいでしまう。感情を台本に乗せ、ただちに状況を受け入れながらネタを進める。そして、時にツッコミに合わせてボケを修正していくことがネタ合わせ時の俺には求められた。
数ヶ月後には、俺の台本を糸崎が勝手に変えることが少なくなっていった。訊くと、直すところがもうないから、と答える。
「真藤の頭の中には、もう僕の言葉が入ってるんだと思う。僕が言って、気持ち悪くない言葉が最初から書かれてる」
そんなもんか、と思いながら頷いていると、糸崎が続けた。
「たぶん、良くなってるよ、僕ら」
俺がその言葉に、おざなりな相槌を打つことしかできなかったのは、真実味を感じることができなかったからだ。組んで半年近くが経とうとしていたが、五段階に分かれている事務所ライブでは最下層とそのひとつ上を行き来している状態だった。もちろん性急に判断する気もなかったが、組んだ時のイメージに、現実が届いていない感覚は確実にあった。
しかし、ちょうどその頃から、感覚が変わり始める。
漫才でお互いが話す言葉が自然なものになったことから、やりとりが違和感のないものになっていく。そのリアリティが、発想の飛躍を担保する。それまでは笑いが薄いことも多かったような種類のボケに、良い反応が返ってくることが多くなり始めた。出番終わりの袖で、自分が持ち帰ったものを確かめる。久しく感じていなかった、手応えというものだった。
やがて、アンケートに名前が挙がるようになっていたらしく、他事務所のライブや、それまでエントリー料を払って出演していたライブに、ゲストで呼ばれることも増えていった。コンビを取り巻く環境が変わるのと呼応するように、季節が熱を帯び始める。賞レースが始まろうとしていた。
ろくでもない放送作家が審査する賞レースの予選で、芸人としての進退を決めるのは愚かだと言う人がたまにいる。確かにそれは、理屈としては正しいのかもしれない。しかし、はるか昔に過ぎ去ってしまったブームの芯の部分でぎらぎらと輝いていたあの大会に吸い寄せられるように、お笑いを始めてしまった身としては、どうしても存在価値を判断されているような感覚から逃れられない。
一回戦、集合時間の三十分前に劇場にたどりつくと、糸崎はもうそこにいた。言葉少なに挨拶を交わし、互いに半分ずつ出しあってエントリー料の二千円を払う。着替え、ネタ合わせ、知り合いの芸人との軽口。じりじりと過ぎていく時間とともに、粘りつくような緊張が身体に触れる。周りからも、いいところまで行くんじゃないかと言われていた。それなのに、ここで落ちたりしたら。
結果から言えば、これまでの人生で一番の笑いの量だった。
客席にいた後輩にあとから聞いた話では、前がアマチュアと思しきコンビで、声が小さくほとんど聞き取れるようなものではなかったらしい。そのあとに出てきた糸崎の第一声の声量で、安心した、と彼は言っていた。それは他の客も同じだったらしく、すべてのボケが、そこまで信頼できないものも含めてハマり続けた。台詞に合わないテンションになってしまいそうになり、必死で押さえつけたくらいだった。
二週間後、自信を持って臨むことができた二回戦も問題なく突破することができた。三回戦からは会場のキャパシティが大きくなる。これまで経験したことのない規模に、不安が過る。だからといって俺たちにできることは限られていた。場数を踏み、調整すること。ライブを主催している知り合いの芸人に頼んで出演させてもらった自主ライブ、その出番中だった、甲野に気付いたのは。
かつての俺だったら、そこで動揺して、テンポを崩したりしてしまったのかもしれない。だが、今回は誰にも悟られることなく意識をネタに戻すことができたと思う。問題なくネタを終え、次のライブまでに、中盤の展開に修正を施す必要を感じながら袖に戻る。企画の時も、エンディングの時も、甲野は客席について、時折笑っていた。
ライブが終わり、外に出ると、甲野が待っていた。俺たちを待つ女性客の後ろで、曖昧な表情で立っている。
前のコンビの頃に付いていたファンは、ほぼいなくなっている。芸風が変わり、魅力がなくなったからだそうだ。同じ人間が書いているのだから、通じる要素がないとは思えないのだが、外から見ればそうでもないらしい。もちろん《あき》もその一人で、今は二年後輩のコンビを追いかけているらしい。たまに彼らとライブが一緒になることがあるが、出待ちをしている《あき》が俺に目を向けることもない。注目していないのでわからないが、ネタ中に笑い声も聞こえないので、そういうことなのだろう。
ほとんど入れ替わったファンのなかで甲野の姿を見て、俺は一瞬、相方がいる、と感じた。そのことがひどく恥ずかしく感じられた。まだ切り替えきれていない自分がいる。
前にいた女性客との会話が終わり、甲野が俺の前に立つ。その横を、糸崎が見ることもなく通り過ぎていく。
「がんばってください。応援しています」
大仰な口調で甲野が言った。薄い、今にも消えてしまいそうな微笑。俺も微笑もうとしたが、うまくいかなかった。奇妙な表情になっていたと思う。甲野が開いた手をこちらに向ける。俺はその手を握り返した。
「お前がな。馬鹿」
返しは、これで正解だっただろうか。リアクションが来るまでのわずかな時間が、俺にはひどく長く感じられた。
豊洲センター 佐多椋 @firstheaven
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます