エピローグ
エピローグ
空は青く晴れ渡っていた。
堤防に座って海を前にしながら、私はバッグの中から桜色の封筒を取り出した。
封筒の中に入っているのは一枚の写真。旅行先で、幸せそうに微笑む背の高い男の人と、その隣ですました顔をして立っている和奏。
半年前に付き合い始めたという、十歳年上の和奏の彼氏を見たのは初めてだった。
和奏からは何も私に話してくれないが、家に遊びに来たという彼のことを、母は「とても優しくて、誠実そうな人」と言っていた。
十歳も年上の彼ならば、きっと和奏のわがままも、余裕で包み込んでくれるに違いない。
和奏のふてくされた顔を思い出し、ふっと笑って写真を封筒へ戻そうとした時、裏に何かが書かれていることに気がついた。
ペンで殴り書きのように書かれたその文字は、見覚えのある和奏の文字。
――お姉ちゃん、結婚おめでとう。
胸がじんと熱くなった。
「琴音」
名前を呼ばれて振り返る。
日曜日の午後。早番で仕事が終わった蒼太がそこに立っている。
「ごめん。待った?」
堤防から降りようとした私に、蒼太は手を差し伸べて言った。
「ううん」
蒼太の手を借りてそこから降り、そのままふたり手をつないで歩く。
私の髪と、カーディガンを羽織ったワンピースを揺らすのは、春のやわらかい風だった。
懐かしい高校へと続く坂道を、ゆっくりとゆっくりとのぼった。
私がこの町に戻り、蒼太と暮らし始めてから三度目の春。
「つらくない?」
歩きながら、私の顔をのぞきこむようにして聞く蒼太に答える。
「大丈夫。今日はすごく気分がいいの」
私がそう言って笑ったら、蒼太も私の隣で笑った。
高校生の頃、この坂道を自転車を押してのぼった。
文句も言わず、毎日毎日。
目の前にある美しくて狭い世界しか知らなかったあの頃。
少し大人になって、見たくないものも見えてきて、この世界は美しいものばかりじゃないってことを私たちは知った。
愛し合っていたはずのふたりの心が、離れていくことだってあるってことも。
いま、手をつなぎ合っている私たちだってわからない。
雨が降り、嵐が来て、海が荒れる時もあるように、このままおだやかな毎日が続くとは限らない。
だけどそれでも……やっぱり、私たちはここにいる。
ここでこの手をつなぎ合う。
「急に学校でお花見しようなんて、紗香のやつ、なんなんだろ」
蒼太と一緒に母校に来てと紗香に誘われたのは、昨日のことだった。
「でも紗香に誘われなくても、来るつもりだったし」
私はそう言って蒼太を見る。「そうだな」と笑って蒼太がうなずく。
毎年この季節になると、私たちはこうやって学校へ出かけていた。
懐かしい校門を通り、校庭へ出る。春休みの昼下がり、部活は休みなのか人影はなかった。
私は深く息を吸い込んで、ここを駆け抜けていた蒼太の姿を思い浮かべる。
青い空、埃っぽい風、遠くに見える海。
ここの景色はやっぱり今年も変わっていない。
「いないな、誰も」
ちょうど満開を迎えた、校庭の隅にある桜の木。紗香の姿はなかったけれど、蒼太に手を引かれて、私たちはその木の下に立ってみる。
ここは私がはじめて、蒼太に「好き」と言われた場所。蒼太に「好き」と言った場所。
今年もこの木の下から、私と蒼太は桜の花を見上げる。
「あの時さ……」
蒼太がちょっと照れくさそうに笑ってつぶやく。きっと蒼太もあの日のことを思い出している。
「すっごい緊張した」
私も笑って蒼太に言う。
「あの頃はかわいかったよね、蒼太。声、震えてて」
「琴音だって震えてただろ。顔、真っ赤にしちゃってさ」
「それは蒼太でしょう?」
顔を見合わせて笑い合う。
あの日のことは忘れていない。きっとこの先も、ずっと覚えてる。
ふわりと私の肩に桜の花びらが落ちてきた。
そっと顔を上げた私の唇に、蒼太がキスをした。
花びらのようにやさしく、触れ合うだけのキス。
「来年も……一緒に来たいな」
ここに。蒼太と。来年も、再来年も、十年後も。
私の前で蒼太が微笑む。そして私の肩に落ちた、桜の花びらを手に取りながらつぶやく。
「来年は三人でな」
広げた蒼太の手のひらから、花びらがはらりと落ちる。そしてその手がそっと、ワンピースの上から私のお腹に触れる。
ほんの少し膨らみ始めた私のここには、新しい命が宿っている。
「おーい、琴音ー! 蒼太ー!」
どこからか私たちを呼ぶ声が聞こえてきた。この声は……紗香の声だ。
「ここだよー! ここー!」
顔を向けると、四階にある吹奏楽部の部室の窓から紗香が手を振っていた。
そしてその周りで、紗香と同じように手を振っているのは、同じ部だった懐かしい仲間や、蒼太の友達。
「琴音、蒼太! 結婚、おめでとー!」
まるで高校生の頃のように、ありったけのはしゃぎ声をあげて、嬉しそうに手を振っている紗香。
「もう……紗香ってば……」
苦笑いしながら、泣きそうになる。隣を見ると、蒼太が照れくさそうに笑っていた。
「こっちにおいでー! みんなでお祝いするよー!」
学校に来るのが辛くて、友達にも会えなかった日々を思い出す。ひとりぼっちで堤防に座り、海の彼方をにらむように見ていた。
あの頃、こんなふうにまた、ここでみんなに会えるなんて思ってもみなかった。
月日は流れる。降り続いていた雨もいつかは上がり、ひとりで泣いていた夜もいつかは明ける。
「行こうか」
私に笑いかけた蒼太が、手を広げる。
「うん」
私も笑顔を見せて、そっとその手をつなぐ。
そんな私と蒼太の上から、桜の花びらが舞い落ちた。
ゆっくりと歩き出した私たちを、まるで祝福してくれているかのように――。
海のかなた、雨のおわり 水瀬さら @narumiyu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます