9色目 初めての色、初めての誘い
俺は、夏花から離れると、テーブルの上に散乱した、黒と白の絵の具が出たパレットを左手に持ち、右手に筆を持った。
近くにあったまだ何も書かれていない白いキャンバスを、夏花に見えないようにくるりと回転させ、自分も夏花を正面にする姿勢をとった。
夏花は、短くて浅い呼吸のまま、キャンバスを握りしめ、こちらを威嚇する。
「そんな顔、あまり描きたくないな。夏花は、笑顔が似合うから」
そう言って笑ってみるが、うまく笑えず引きつった笑顔になった。
そんな俺を見て、夏花は何を思ったのか、手にしていたキャンバスを放り投げ、こちらを向くと、ニッと笑った。作られたその笑顔は、やっぱりいつもの夏花じゃなくて、俺は薄ら笑いを浮かべると、慣れない手つきで筆を握った。
白と黒を混ぜると、灰色になった。パレットには、濃い灰色から薄い灰色まで出来た、これはこれで好きだと、俺は思う。
正面を向き直ると、夏花の作った笑顔があった。俺はそれをキャンバスに描く。
「……よし、出来た!」
そう言って、夏花の方にキャンバスを向ける。夏花はしばらくキャンバスに見入り、数秒後、ふっと吹き出した。
「な、何だよ」
「下手過ぎますよ……それは……へ、下手過ぎます」
「酷いなぁ、これでも頑張った方なんだけどなぁ」
俺は首筋を掻いた。
夏花は、いつにもなく長く笑っていて、そんな夏花を見ていると、こちらも妙にニヤけた。
「ありがとうございます、健一さん」
「ん? 何が?」
「……なんだか、少しだけ、元気をもらえました。私、色が見えないからって、絵を描くの、いや、人に見せるの、怖かったんです。でも、今ならこの絵を見て、私は笑える気がします、きっと、笑えます」
「なら……良かった」
少しだけ、夏花を知れた気がした。
夏花は絵を描くのが好きで、好きだからこそ、色を使えない悔しさがあって。自分の中で悩んで、苦しんで、それはまるで、昔、絵が下手だって罵られたことに腹を立てた俺と同じようで。何も変わらない。
「全色盲……」
思い出したのだ、全色盲だ。色の識別が出来なくなることを、そう教授は言ったのだ。
「それはさ、外見だけで物事を決めてしまう俺みたいな奴らよりさ、きっと、人と違った、もっと良い見方を出来る特別なことだと思うよ。だってさ、近頃話題になってる青いカレーってのが、夏花にはきっと食べられるでしょ? 俺なんて、色を見ただけで食欲なくなったりするし、それは外見に囚われてて、本当の中身を知らないってことだと思う」
あぁ、変なこと言ってしまった。
俺は半分後悔して、夏花の様子を恐る恐る伺った。案の定、夏花は嬉しそうに頬を赤らめていて、何を考えているかは分からなかったが、気を悪くしているようではなかった。
「青い……カレーって、美味しいのかな」
「うーん、食べたことないけど、見た目がなぁ」
「私も、青いカレーは想像すると嫌かな」
想像すると?
全色盲ってのは色の識別は出来なくても、色は分かるのか? いや、その言い方じゃおかしい。もしかして……夏花は。
「夏花……あのさ、夏花は昔……」
そこで間を置いた。置いてしまった、と言った方が良いかもしれない。
「何?」
「あ、いや……なんでもない。俺、そろそろ帰ろうかな、時間も遅いし」
「そう……だね、うん。分かった……」
あれ? 俺、何か忘れてる気が……
「ああ!」
「ど、どどどどうかしま……」
「港町にあるパークだよ!」
「え、え?」
「港町にあるパークに、一緒に行こう!」
「……み、港町にある……パークに、健一さんと……行く?」
あ、やべ。
勢い余って夏花の手を握っていたことに、遅かれ早かれ気づく。素早く手を引くと、後手に組んだ。
「いや、夏花が嫌なら別にいいんだけど……その、パークには俺だけじゃなくて、友達もいるし、決して二人きりとか、そんなんじゃ、ないから。うん」
「い……」
「い?」
「い、行きたいです!」
夏花は、顔中を真っ赤にしてそう言った。
「わ、私、外に出たこと……」
不意に、夏花が肩を落とし、俯いた。
「どうしたの?」
「……私、外に出たこと……ここから……」
夏花の声が震えていた。
そっと、彼女の肩に手を置き、頬に手を添え顔を上げさせる。どうやら泣いてはいなかったようだ。俺はほっと胸を撫で下ろした。
「港町のパーク、すごいデカイんだってさ。来週の土曜だから、予定空けといてね」
「……は、はい!」
「んじゃ、俺は」
「あ、あの!」
俺は、呼び止められたことに少しだけ鼓動が高鳴った。夏花の細い腕が、俺の腕を引っ張り、ぎゅっと胸に抱きしめた。
「え、ええええ、な、夏花!?」
「私……私、靴が、無くて……」
「靴?」
「はい、靴です」
ふと夏花の足元を見る。
もこもこしたスリッパのようなものが見えた。可愛いが、さすがにこれでは外には出れない。
「そっか。靴かぁ、捨てちゃったとか?」
見た感じ夏花は箱入り娘感半端ない。もしかすると、外出がほぼ無いために、靴の必要性が無く、捨ててしまったのか?
「……そんな、感じです」
「そっか、ならさ、一緒に……」
あぁ、これは完全にそれだ。
「えーっと、一緒に……」
言ってしまうのか俺。ついに言ってしまうのか俺?
「一緒に……買いに行かない?」
人生初のデートへの誘いだった。
灰色のキャンバス 三角 帝 @deshabari
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