8色目 灰色のキャンバス

「……お前は……」


 スーツ姿の男だった。銀髪に、同じく銀縁の眼鏡をかけ、キリッとした整った顔立ちは、出来る男の代名詞のようだった。

 こんな男が、こんな時間に、こんな楽器店に……

 俺は、この男が昨夜の男であることを確信した。

 店の扉を壁に、男を睨みつける。


「おやおや、どうしたんだい?」


 高身長な男は、俺を簡単に見下ろして、鼻で笑った。その嘲笑うような口もとに、昨夜見た、あの光景を思い出す。夏花の啜り泣く声、猫の無残な姿……。

 もし、あんなことが日常的に行われていて、その度に夏花が、一人この狭い店で、苦しみに耐えていたのなら……俺は、この男を……


「今どきの子は、警戒心剥き出しなんだね~、ここまで警戒されるような外見してないと思ってたんだけどなぁ」


「……夏花に……何か用か?」


「夏花……あぁ、もしかして君、昨日の子?」


 やっぱり、この男だ。


「昨日は随分と派手にやっちゃって~、もともと、僕は猫アレルギーなんだよ」


「アレルギーだからって……あの猫に危害を加えてどうするんだよ……」


「ま、ここで立ち話もなんだからさ、中に入らない? ここじゃ寒くて死んじゃうよ」


 男は、俺の肩を掴み、扉の前から退かそうとする。俺は、男の手を振り払うと、扉に背をつけ、大声をあげた。


「夏花! 今すぐ店から出るんだ! 裏口でも窓でも何でもいい! 早く逃げろ!」


「おやおや、近所迷惑だよ君、ま、残念ながら……夏花は逃げたりなんかしないよ」


「は?」


 男は、ほらっとでも言うように、顎で背後の扉を指す、俺が振り返るよりも早く、扉がゆっくりと開かれ、中から夏花が顔を出した。


「……夏……花、どうして……」


 夏花は俯いたきり、唇をきつく噛み締める。そんな様子に、俺は全身の力が抜け、男が店の中に侵入していく後ろ姿を、ただ呆然と見つめることしか出来ずにいた。


「あーぁ、外は相変わらず冷えるねぇ、夏花、珈琲淹れてくれるかい?」


 男は、店内に入るなり、上着を脱ぐと、まるで自分の家であるかのように、ソファに座り、くつろぎ始めた。

 ネクタイを緩め、はぁ、と怠そうにため息を吐くと、横目に俺を見て、座るよう顎で指示する。

 男の行動が、いちいち俺の気に障り、黙って珈琲を淹れる水洗いの音にさえも、腹が立った。


 立ったままでは、何も始まらない、と男と向き合うようにして、ソファに座ると、ちょうど夏花が珈琲を持って戻ってきた。


「ありがと、夏花」


 男は、差し出されたカップごと夏花を引き寄せ、隣に座らせると、距離をとろうとする夏花のスカートの裾を踏み、ニヤリと笑った。


「何処に行く気だい? 夏花」


「……猫の……餌をあげなきゃ……」


「……あの猫、まだ生きてたのか、しぶとい猫だな」


 最低だ……。

 猫が生きてるという情報は、初耳だが、なんだこの男。さっきは猫アレルギーがどうとか言っておいて、殺そうとまでしてたのかよ。アレルギーどころの話じゃねぇだろ。人ん家のペットを。


「で、夏花……あんな猫の餌は後で良い。僕に、このお友達を紹介してほしいんだ。昨日の説明では、もう二度と来ないってことだったけど、ほら、また来てるぞ?」


 二度と……来ない。

 何で、そんなこと……確かに夏花は、今日、俺が来た時に来てくれたんですね、と笑ってくれたはず。


「なぁ、夏花? どうなんだい?」


 男の手が、夏花の震える手を握る。

 俺は、その手に、底知れぬ憎悪を覚えながら、同じように、夏花の言葉を待った。


「……彼は、その……お友達……じゃなくて、お、お客さんで……だから、私……」


「何? お客さん?」


「そうです、僕は、この楽器店に楽器を修理してもらおうと、昨日この店を訪ねたんです。でも、昨日は僕の用事で、修理してもらうことが出来なくて、今日、またお訪ねしたまでです」


 自分でも驚くほど、スラスラと出た嘘に、感動し、何故か、それが本当のことのように思え、笑えた。


「でも、君は今日、楽器の修理を頼みに来たくせに、肝心の楽器は持ってきてないようだねぇ」


「え、あ……あれ? なんだろ、なんで無いんだ? あ! タクシーの中に置きっぱなしだったかも〜……しれない」


 くそっ……なんで持ってきてねぇんだよ俺! こんな時に限って、俺はぁあ!


「まぁいいよ、君が本当の客だろうと、客じゃなかろうと……ただね、夏花にはあまり近づかないで欲しいんだ」


 何様のつもりだよ!


「あ、もうこんな時間か。明日も早朝からスケジュールが混んでてね、夜にはまた来るよ。君も……あ、名前は?」


「……そちらから、お名乗りください」


「はは、君、社会に出たら吊るされるよ? 僕は、結城 魁斗。機会があったら……いや、もうないことを願うけど、またお会いしようか」


「こちらこそ、もう二度とお会いすることはないでしょうが、その時はどうぞよろしくお願いします、社会に出て吊るされない人間関係の築き方でも、教えてくださるとありがたいです。豊島 健一です」


「豊島……あぁ、どこかで見た顔と思ったら、君が、豊島くんか」


「はい?」


「五歳でクラシックコンクール全国大会個人ジュニア、トランペット部門入賞、高校二年では、トリエの音楽コンクールで全国一位を受賞、その他もろもろも大活躍……豊島 健一くん……だろ?」


「お詳しいことですね」


「もちろんだよ、僕の会社ね、そういう音楽関係なんだけど、君はなかなか有名だったよ〜、まぁ、高校卒業後は、コンクールもろくに出てこなくなったみたいだけど……はは、ご両親はさぞ悲しんでおられることだろうね?」


「黙れ……」


「はは、じゃ、僕はこれで失礼するよ」


 男はそう言うと、またもや不適な笑みを浮かべ、店から出て行った。

 古時計の音は、男が出て行くと尚一層強く、重く、大きく存在感を放つ。


「……すごいん……ですね」


「え?」


「あ、いや……その……トランペット、やってらしたんですね……」


「うん、まぁ……好きってわけじゃないけど」


「私もです」


「え?」


「私……絵描き、やってるんです」


「絵描き?」


 どうして彼女が、このタイミングでこの話題をふってくるのかは、定かではないが。彼女なりに空気を和まそうとしてくれているのか、と思うと申し訳なく感じた。


「私、絵を描くのは、あまり好きじゃないんです」


「え、でも、絵描きを?」


「はい、この窓から見える風景を、たまに描いてます」


「……その絵、見せてもらえる、かな?」


「嫌です」


「え……」


「私の絵、下手いから」


 絵を描くのが嫌いで、絵が下手い絵描きって……もう絵描きじゃねぇだろ!


「下手いって、どういうこと?」


「色……」


 あぁ、そうか。

 俺はそこで思い出す。

 夏花には、絵描きにとって大切な、色が無い。

 それはきっと、絵が好きでも、嫌いにさせ、絵が上手くても、下手にしてしまうのだ。


「僕さ、前にも言ったよね。灰色が、好きなんだ。灰色が、一番好きなんだ」


 夏花は、その言葉に、少しだけ悲しそうな笑顔を浮かべると、奥の部屋へと消えて行った。

 しばらく、俺がその場で待機していると、夏花がF4サイズほどの、キャンバスを持って戻ってきた。

 それを持つ手が、少しだけ震えているのを見て、俺は一瞬焦る。


 本当に下手かった場合、どう反応すればいいのか……と。


「わ、笑わないでくださいね……絶対に」


「笑わない……ぜ、絶対」


 夏花は、ふぅと呼吸を一つ整えてから、思い切ったように、キャンバスを握りしめ、バッと風を切るようにして表を向けた。


 全て、黒と白と灰で統一された、男の横顔だった。その横顔に、見覚えがあり、はっとする。


「お、俺!?」


 そう言って、自分を指差すが、夏花は何故かそれを否定し、ぶんぶんと頭を横に振った。


「いやいや、これ、どう見ても俺でしょ! にしても、なんだよ、すっげぇ上手いじゃんか!」


「い、嫌じゃ……ないの?」


「え? なんで?」


「だ、だって、私……隠れて描いてたんだよ? 健一さんの、横顔……」


「あ、そ、そういうことになるか」


 なんだよそれ! すっげぇ恥ずかしいじゃん!


「いや、別に……俺は、てか、逆に嬉しいっていうか、その……」


「嬉しい?」


「あー、いや、何でもない!」


「そう、ですか……あ、あの、な、なら! この絵! もらってください!」


「……え?」


「あ、いや、こんな絵、何の価値もないし、邪魔だろうし、ただのゴミだけど……その、健一さんに、もらって、欲しくて……ごめんなさい、勝手で……」


 俺は、そう言った夏花の手から、丁寧にキャンバスをもらうと、胸の前でぎゅっと抱きしめて見せた。


「大事にするよ」


 夏花は、そんな俺の様子に、耳の先まで真っ赤に染めると、あああを小さく連呼し、俺に背を向けた。


「夏花?」


「え、あ、いえ、なんでもございません……ただ、私の絵、もらってくれたの、きっと健一さんが初めてなんです……」


「え、他にも描いてるの?」


「はい、ずっと室内にいると、暇で仕方ないんです」


「……他の絵も、見せてもらっていいかな? 俺、夏花の絵、好きだな……灰色のキャンバス……すごく素敵だと思うよ」


「そ、そんな……ことないですよ。本当は、もっと綺麗な色を使いたい」


「そう? 俺は、綺麗な色も、綺麗に見えないから、こういったシンプルで落ち着いた色……特に灰色なんか、良いと思ってる」


 夏花は、俺を奥の部屋へ来るよう手招きし、部屋に入るなり、棚の中をゴソゴソと漁り始めた。

 取り出されたのは、大量のキャンバスで、どれも、日常的な風景ばかりだった。

 窓から見える風景や、マグカップ、天井、そして、あの灰色の猫。その全てが、夏花が過ごした日々を物語っていた。


「私、灰色が好きなわけじゃないんです……でも、私にとって、この色は、一番、色なんです……ちゃんとした、色なんです」


 俺は、ふと夏花が背中に隠しているキャンバスに気付く。


「それは?」


「いえ、これは、ただのラクガキで」


「見せてよ」


「嫌です! これは絶対にダメです!」


「えー、なんでー?」


「ダメなものはダメなんです!」


 俺はニヤリと笑うと、夏花の隠すキャンバス目掛けて、素早く手を伸ばす。だが、夏花も負けじと身をよじり、それを回避すると、バタバタと部屋の奥へ走っていき、俺と距離を取った。

 俺は、それでも夏花を追いかけ、背後に回っては回避され、手を伸ばせば回避されを続け、諦めかけた時だった。


「キャッ!」


「夏花!?」


 夏花が、棚に躓き転倒した。

 俺は、慌てて身をかがめ、彼女の体を抱き起こす。

 その時、ふと目に入ったキャンバスに、俺は言葉を失った。


 赤やら紫やら緑やらの、乱雑な色たちが一人の男性を描いていた。だが、そのキャンバスは、爪を立てたような傷跡が多くあり、中には黒で塗りつぶされたような箇所もあったため、その男性が一体誰なのか、検討も付かなかった。


「見ないで!」


 夏花はそのキャンバスを俺からひったくると、肩で荒い呼吸を繰り返した。


「夏花……それは」


「分からないの…………綺麗な色も、私が使うと、みんな汚くなっちゃう! 私は、私は! ……一生、灰色しか使えない……最も明るい色と、最も暗い色の中間。中途半端だって……その色は、ズルい色なんだって……きっと、私も、中途半端なんだよ……」


 初めて見る夏花の涙は、まるで枯れていて。

 灰色のキャンバスが物語った彼女の日々は、狭くて辛い、孤独を描いていたことに気付く。

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