7色目 冬の寒さとその他の悪寒

 千裕の言葉に背中を押されたのか、最初からそのつもりだったのか……俺は、駅前でタクシーを拾い、またあの店の前に突っ立っていた。

 時刻は既に、十九時を回っていた。店が閉まっている様子はないが、緊張で足が震えた。

 昨日の彼女の、荒げた声が、今でも耳の奥に残っている。あの瞬間、俺は彼女の隠している秘密を通して、彼女との距離を思い知った。彼女のことをもっと知りたいと願えば願うほど、全く彼女を理解していない自分が見えて、イライラした。

 何を隠してるのか……そんなこと分からないけど、それでも、隠されるのは性に合わない。


「こ、こんばんわ~」


 扉を開け、店内へ入る。中では、コトコトと珈琲を淹れる音がし、その香りが漂っていた。無意識にショーケースを見た、昨日、猫が転がっていた場所には、猫の姿は無く。妙にしんっとして見えた。


「……来て……くれたんですね」


 その声に、ホッとしたのも束の間、俺は慌てて自分の服装を見下ろした。

 しまった……! また、灰色のズボン履いてきてしまった!


「ふふ、良いですよ、慣れましたから」


「それは、露出狂に慣れた……ってこと?」


「そ、そんなことございませんよ! 健一さんに慣れたんです」


「あ、そっか……ありがと」


「灰色、お好きなんですか?」


「え? あー……まぁ……」


「好きです」


「え?」


「私も、灰色好きです」


「あ、あー……灰色が……ね」


 何、期待してんだよ俺!

 にしても、全く様子の変わらない夏花が気がかりだ。昨日の猫は……あの猫はどうなった? あの男は? 今は気配がないが、一体、あの男は何だったんだ? 何故、猫に暴力を振るった?


「あの……さ、夏花、聞きたいことが、あるんだけど……」


「珈琲、淹れたんです、どうです?」


「え……あ、じゃぁ、いただこうかな」


 完璧にスルーされた!

 夏花は、奥の部屋に消え、しばらくすると、クリーム色の大柄なカップを持って戻ってきた。「どうぞ」と言って渡された、カップ表面の温かさに、ふぅと息を吐き、案内された小テーブルに腰掛ける。夏花も、俺の正面に座ると、珈琲を一口、上品にすすり、小窓から外の景色を眺め始めた。


 これは、聞かない方がいいのか? だが……昨日の猫の件といい、男のあの態度からして、あまり好感の持てる風では無かった。夏花に、もし、害のある人物であり、昨夜、夏花が俺を止めた原因であるのなら、彼女のためにも……いや、俺のためにも、直ちに排除したい。


「夏花!」


「は、はい!」


「き、昨日の話だけど!」


「……」


「昨日、ここに来た男は……一体、誰なんだ?」


 これまで、一度たりとも聞こえなかった、古時計の秒針が、カチカチと巨大な音を鳴らした。初めて、この店に年季のこもった古時計があることに気づき、俺は静寂の恐ろしさに、息を呑んだ。額を流れる汗と、目の前で俯いた夏花の表情に、身体中が強張った。


「……健一さんには、関係の無いことですから……お気になさらず」


「いや、でも、猫……」


「猫は……あの猫は……わ、私が……」


「夏花……?」


 震える彼女の声に、俺は無意識に、椅子から立ち上がっていた。立ち上がったからといって、何をするでも、何をできるでもなく、ただただ、肩を震わせる彼女を、少し離れた距離で、憐れむことしか出来ずにいた。


「夏花……関係なくなんて……ないんだ、昨日、俺は無責任なことをした、謝るよ」


「……なんで、健一さんが謝るんですか」


「だって、君は昨日、俺を止めた、帰ろうとした俺に、助けを求めた……そうだろ?」


「……」


「だから、俺は君を守らなくちゃならなかった、なのに、あの時……あの男が店に入ってきて、猫があんなにされて……俺は、何も出来なかった、まだ店内に男がいることを知っていながら、君を置いて、帰ってしまった……あの後、何があったかは分からない、でも、もし君が……」


 秒針の音が止まった


 プルルルルーープルルルルーー


 突然、ポケットから、そんなコールが聞こえた。

 電源を切るのを忘れていた携帯が鳴り、俺は慌ててポケットからそれを取り出す。


「……千裕?」


 千裕からの着信だった。俺は一瞬、夏花の様子を伺う、夏花はうな垂れたまま、何を反応するでもなく、珈琲のはいったカップをいじくっていた。

 俺は、そんな夏花に何も言わず、無言で店を出た。


「どうした?」


『よー! 今、どうしてる?』


「えーっと……今は、その……」


『取り込み中? それなら、別に良いんだけどさぁ』


「取り込み中っちゃ取り込み中、何かあった?」


『え? 毎月この日は、俺ら飲みに行く約束だったろ? お前、やっぱ彼女のことで頭いっぱいって感じか?』


「いや、ち、ちげぇよ! そんなんじゃ……つか、悪りぃ……そういや、そういう約束してたよな」


『まぁいいってもんよ、薫もいるから、二人でどっか飲んでくる、んじゃな』


 通話が切れ、しばらくそのまま冬の近くなった気温に、あらゆる火照りを取ってもらう。

 七瀬と千裕は、幼馴染で、仲良しで、何でも話し合えるような関係だ。そんな二人を見ていると、なんだか、無意識に憧れってものを抱いてしまう……だからなのかもしれない。

 ふと窓から中の様子を横目に見る。夏花は相変わらず俯いたきり、顔を上げない、よく見ると、カップをいじっていた手も止まっている。

 そんな夏花を見ていると、何故か悲しくなった。


「……俺は、夏花のこと……」


 七瀬と千裕を見ていると、カップルってあんなもんだって、勝手に思ってしまう。それは、俺の中の恋人という概念になってしまって、夏花が抱える問題を、俺自身が共有出来なければならない、そう思っているのだろう。

 俺は、勝手だ。

 夏花に、この話を振るのはやめよう、俺といる時間だけでも、彼女には笑っていてもらいたい。


「あれ? お客さん?」


 俺は、不意に背後からかけられたその声に、ある種の悪寒を感じた。

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