その人の名は

 最初に出逢ったのは、小学生の時。

 確かお友達とケンカしたか何かが原因で、何にもない場所にうずくまって泣いていたわたしを、突然現れたあの人は優しく慰めてくれた。

『あずさちゃんは、そのお友達ともう一回仲良くしたいんだよね?』

 わたしの背中を撫でながら、そう尋ねる。それは多分、女の子の声だ。

 涙混じりにうん、ってうなずいたら、あの人は小さく笑ったようだった。

『なら、仲直りできるよね?』

『でも、どうやって?』

 顔に付けていた膝を上げて見れば、あの人はふんわりと微笑んでいた。視界にぼんやりと靄がかかったみたいになってて、顔つきはちゃんとわからなかったはずなのに、何故かどんな表情をしてるかだけはちゃんとわかって――それがわたしをホッと安心させるものだったことも、よく覚えている。

 柔らかい声で、あの人は言った。

『簡単よ。あずさちゃんの方から勇気を出して、ごめんねって言えばいいの。お友達も同じ気持ちのはずだから、きっと許してくれる』

『本当?』

『本当。だから、勇気を出して。あずさちゃんの方から、一歩進んでみて――……』

 そこで、目が覚めた。

 いつも見た夢のことなんて覚えていないのに、何故かその朝は内容を全部事細かに覚えていて。

 そう、翌日そのアドバイス通りちゃんとわたしから謝ったら、ケンカしたお友達も許してくれたの。こっちこそ、ごめんねって。

 それが、とても嬉しかったから。

 こうやって勇気を出せたことも、ひとえにあの人のおかげだったから。

 また夢に出てきたら、真っ先にお礼を言うつもりだった、のに。

 それ以来あの人は、ぱったりとわたしの夢に現れなくなってしまった。


    ◆◆◆


 その約十年後、高校生になっていたわたしは突然入院することになった。

 ちょっと前から調子がよくなくて、一向に改善する気配がなかったから、親に付き添われて病院に行った。そしたら、検査入院することになって……。

 そこからは、本当に早かった。検査が終わったからと家族全員が呼ばれて、お医者さんの口から聞き慣れない病名を聞いて。めったにない難病らしいと聞いたけれど、お父さんとお母さんは、その時何故かひどく衝撃を受けたみたいな顔をした。

 お父さんは、わたしを見てつらそうに眉根を寄せた。お母さんは、わたしを抱き締めて泣いた。

 わたしは、何が何だかわからなくて、ただ呆然としていた。

 そして……その翌日から、わたしの孤独な戦いは始まった。


「大丈夫、早期発見でしたから。梓沙あずささんが諦めなければ、すぐに治せますよ」

 初日にお医者さんがそう言って励ましてくれたけれど、わたしは早速挫けそうになっていた。

 毎日決まった時間に治療と称して行われるそれは、耐えられないほどの痛みと苦しみをわたしに与え。

 また決まった時間に飲む薬の効果は、副作用という形となって容赦なくわたしを襲う。

 何より、それまで当たり前に行っていたはずの学校に行けないことがつらかった。勉強や授業が決して楽しみというわけじゃなかったけれど、それさえもひどく懐かしいと思ってしまうほど。

 時折面会を許される友人や担任の先生に会って、近況を聞くと、当たり前みたいにそういうことをしているみんながひどく羨ましかった。

 ――わたしだって、本来ならそうしている高校生のうちの一人なのに。

 それなのに、自分だけがどうしてここに閉じ込められているのだろうか?

 わけのわからない病気になって、望まない苦痛に苛まれて。それなのに、目に見える成果は何一つ現れなくて。

 そうまでして、わたしは何故生き続けなければならないの?

 いくら自問自答を重ねたって、明確な答えがわかるはずもなくて。

 ただ毎日、どうすることもできないまま、繰り返される治療を甘んじて受け続けた。


 再び夢を見たのは、そんな時だった。

『――さ、梓沙』

 何にもない場所で一人きり、あの時みたいに体育座りの状態でうずくまっていたら、不意に名前を呼ばれた。振り向かなくても、声だけであの人だとわかる。

 耐えるようにぎゅっと目を閉じていたら、ぽふりと頭に繊細な細い手が乗った。いつの間にか、近くに来ていたようだ。

『梓沙……』

 わたしの名を呼ぶあの人の声は、気弱に震えていた。まるでわたしの苦しみを理解し、共有してくれているみたいに。

『梓沙……辛いね。苦しい、ね……』

 そのままふわりと優しく抱き締められる。

 瞬間、これまで我慢してきたのが、何だか急に馬鹿らしくなって。ずっと堪えていた涙が、急に溢れだして……。

 あの人の華奢な身体にしがみついて、わたしはただ大声で泣いた。

『わ、わたし……わたしっ。もうこれ以上、何のために生きてるのか、わからなくてっ!』

『うん』

『毎日の治療も、副作用も、苦しいけど……それ以上に、みんなみたいにっ、普通に生活できないのが、何より辛くてっ』

『うん』

『こんなことしないと、みんなみたいに、普通に生きられないのかって思ったら……いっそ死んじゃった方が、マシなんじゃないかとも思ったの。その方が、わたしも、家族も、楽になれるんじゃないかって』

『……うん』

『……こんな、生活に……何の意味が、あるっていうの……』

 だんだん身体の力が抜けていって、しがみついていた手がするりと力なく落ちる。

 そんなわたしを抱きすくめたまま、これまで話を聞いてくれていたあの人は、そっと口を開いた。

『梓沙は、恵まれているわ。お医者さんも言っていたじゃない。早期発見だから、諦めなければちゃんと治る病気だって』

『……でも』

『大丈夫。今のあなたには、たくさんの人がついてる。家族も、お友達も……お医者さんだって、みんな梓沙を助けるために一生懸命なのよ。梓沙が頑張らなきゃ……みんな、悲しむわ』

 あの人の言葉に耳を傾けながら目を閉じると、大切な人たちと過ごした日々が次々思い出される。

 家族や友人たちと、これまで何事もなく笑いあっていた、そんな当たり前で愛しい日々……。

『……またいつか、戻れるのかな』

 ごくありふれた、それでいてとっても楽しい、あの日常に。

『わたしが、諦めなければ』

『えぇ、きっと』

 諦めなければ、そんな日々もきっと遠くない。

『信じて』

 意味なんてないと思う日々も、いつかは思い出に変えられる日が来るはずだから。

『ね?』

 身体を離して向かい合うと、やっぱりあの人は柔らかく笑っていた。

『……うん』

 何でかな。この人の言うことなら、何でも信じられる気がする。

 安心して、その言葉にすがってもいいんだって思わされる。

『……ありがとう』

 小さく礼を言えば、やっぱり同じ笑顔が返ってきた。


 翌日からもまた、同じような治療が行われた。

 これまでは意味もわからずなんとなく受けていた治療だったけれど、あの夢を見てからは、治すためにちゃんと向き合おうという強い意思を持って臨むことができた。

 そうだ。みんな、完治に向けて頑張ってくれている。だからわたしも、それに報いなきゃ。

 そう、明るく気を持ち始めてからは、これまで見えなかった治療の効果が不思議と見えてくるようになった。

「だいぶ良くなってきましたね。そろそろ、お薬減らしましょうか」

 そんな、お医者さんの言葉も。

「顔色良くなってきたんじゃない?」

 連日お見舞いに来てくれる、家族の言葉も。

「元気そうで良かった」

「早く完治して、教室に戻ってきてね」

 面会の頻度が増えてきた、学校の友人たちがくれる言葉も。

 その一つ一つが、完治に近づいているという、確たる証拠で……それがまた、わたしにとって励みになるものだった。

『信じて』

 時折挫けそうになると、そのたびにあの人の言葉と笑顔を思い出しては、もう少し、もう少しと自分を鼓舞する。

 信じてみよう。頑張ってみよう。

 今頑張ればきっとまた、愛しい日常がこの手に戻ってくるはずだから。


    ◆◆◆


 今日はいよいよ、運命が決まる手術の日。

 成功すれば、今までわたしを苛み続けた病気は完治する。ただ……この手術は、とても難しい技術を要するとのことだった。

 吸引型の麻酔を受けると、たちまち意識が閉ざされていくのがわかる。手を握ってくれるお母さんと、後ろから見守ってくれているお父さんの姿を最後に、わたしの意識は現実世界としばしのお別れをした。

 視界がもやもやとして、ふんわりと空を飛んでいるみたいな心地が身体を包む。閉じていた瞼を上げれば、何もない場所に横たわるわたしの傍らに、あの人が寄り添うようにして座っていた。

『いよいよね』

 一月ぶりぐらいに会ったあの人は、どこか緊張の面持ちでわたしを見ていた――ようだった。

 やっぱり、その顔つきはおぼろげでよくわからなかったけれど。

『成功、するかな……』

 難しい手術と聞いて、わたしは正直萎縮していた。失敗したらどうしようとか、このままもう二度と現実世界には戻れないんじゃないかとか……そんなたくさんの不安に苛まれて、気持ち的にもういっぱいいっぱいで。

 だけど、完治を信じて待ってくれている両親や友人たち、手を尽くすと誓ってくれたお医者さんたちの気持ちを考えたら、そんな想いを吐露することもできないし……。

 思わず涙目になるわたしを、あの人は傍でそっと見守ってくれていた。優しい手つきで髪を撫でながら、落ち着けるように言ってくれる。

『大丈夫……気を強く持っていれば、きっと』

 成功するか否かは、梓沙の気持ち次第なんだよ。

『わたし、次第……』

『言ったでしょう? 梓沙さえ諦めなければ、この病気は必ず治るって』

『……うん』

『だから、きっと大丈夫』

 あの人がそう言ったのとちょうど同じ時、突然わたしの全身に強烈な痛みが走った。声を出すこともできず、横たわったまま思わずのけぞる。

『――……っ!!』

 何かに反応するように、ビクン、ビクンと跳ねる身体。あの人はそんなわたしを見て一瞬ハッとしたような表情をしたけれど、すぐにだらりと垂れさがっていたわたしの手を両手で包み込むように握ると、鼓舞するようにギュッと力を込めた。

『さぁ、正念場よ。お医者さんが今まさに、頑張ってくださっているんだわ。……大丈夫。もう少し。もう少しで、この苦痛も和らぐから……あまりに辛くて気が遠くなるかもしれないけど、踏ん張って』

 きっと、今がまさに手術の真っ最中なのだ。それも、とても難しい工程。

 あまりに痛くて、苦しくて、息ができない。これまで受けていた治療とは比べ物にならないくらい、苦痛を伴う。『あ』と口を開けたまま、酸素を求めるように胸を上下させながら耐えることしか、今のわたしにはできそうにない。

 だけど、それでも――……。

『梓沙、大丈夫だから。大丈夫、だから……』

 まるで一緒に苦痛に耐えているみたいに、あの人が唇をかみしめながらギュッと手を握ってくれるから。何度も、名前を呼んでくれるから。

 意識がどこかへ引っ張られそうになるのを、どうにか押しとどめて。唯一確かなあの人の手を、力を込めて握り返しながら。わたしは、わたしの中の嵐が去っていくのを、ただただ待ち続ける。その先にある、楽園の存在を信じて。


 そして――いったい、どのくらいの時間が経ったのだろう。

 フッ、と不意に身体が軽くなるのを感じた。全身をがんじがらめに縛りつけていた鎖が、急に全て消えてしまったみたいに。

『頑張ったね、梓沙――……もう、大丈夫』

 最後に、あの人の心から安堵したような声が聞こえて。そっと目を開いたら、一瞬だけその顔が見えた。これまでみたいに表情だけが何となくわかるのではなくて、その顔つきから何から、はっきりと視界に現れる。

 柔和な顔つきに柔らかな笑みを湛えた、多分わたしと同じくらいの年ごろの女の子。

 それは、どこかで見たような、ひどく懐かしい――……。


「――梓沙、梓沙!」

 目が覚めたら、どこかホッとしたような表情のお母さんが傍らにいた。ずっとあの人のものだと思って握っていた手が、いつの間にかお母さんのそれになっている。

 ――いや、もしかして初めからそうだったのかな?

 まだどこか夢心地のまま、ぼんやりと辺りを見回す。その様子がお父さんを探しているように見えたのか、「お父さんは仕事よ」とお母さんが苦笑しながら言った。

「手術前にちょっと来てくれたんだけど、どうしても抜けられない仕事だからって……名残惜しそうに行ってしまったわ」

「そう……」

「帰りにまた来てくれると思うから、その時には元気な顔で迎えてあげてね」

「うん」

 まだあまり力が入らないけれど、精一杯笑みを作ってみせる。握られた手は、あの人のしなやかなそれよりも幾分カサついていたけれど、温かくて優しくて、そのことに心からホッとした。

「花瓶の水、替えてくるわね」

 お母さんが出て行くと、一時的に病室は一人きりの空間になる。シンとした空気の中、わたしはそっと目を閉じて、あの人のことを思い出した。

『梓沙――……』

 いつだって、当たり前みたいにわたしの名前を呼んでくれて。

 いつの間にか傍にいたかと思えば、何も言わなくてもわたしの苦しみや悲しみを共有し、励まそうとしてくれて。

 柔らかく笑って、慈しむようにわたしの身体に触れてくれて。

 お別れする前――最後に、あの人の顔を見た時。これまでずっと靄がかかったみたいでよく見えなかったその顔つきを、一瞬だけはっきりと、詳細に見ることができて。

 その顔立ちが、誰かに似ているような気がしたのだけれど――……。

 何かを思い出そうとした、まさにその時。

 ガチャリ、と音がしたかと思うと、お母さんが白い花瓶いっぱいに生けられた紫色の花を持って入ってきた。太陽の光が差し込む窓の方にコトリと置き、ちょっと変わった形の花びらをそっと撫でる。

「トルコギキョウ、というのよ」

 ぼうっとその様子を見ていたわたしに説明するみたいに、お母さんがそっと口を開いた。

有沙ありさが好きな花でね。あの頃もよく、こうやって病室に持って行ってあげていたわ」

 有沙、という名前にふと引っ掛かりを感じ、わたしは眉をひそめた。そんなわたしに気付く様子もなく、懐かしそうな瞳と声色でお母さんは続ける。

「あの子はいつだって、弱音なんて吐かなくて。それどころか、お父さんとお母さんは大丈夫なの、なんて……いっつも、こっちの心配ばっかりして。一番大変だったのは、あの子の方なのに」

 そこでふと、何年も前に言われた言葉を思い出した。あの時も確か、お母さんはこんな風に、懐かしそうな、だけどどこか哀しそうな、そんな目をしていたような気がする。

『実はね、梓沙。あなたには――……』

 気づけば、無意識に口が動いていた。

「ねぇ、お母さん」

 せっかくの思い出話を遮るようで申し訳ないと思ったけれど、お母さんは別段気にした様子もなく、優しい表情のままで「なぁに?」と振り向く。その様相は――あまりにも、よく

 柔和な笑みを湛えたその人に真剣な目を向けながら、わたしは言った。

「お願いがあるの」


    ◆◆◆


「術後の経過も順調だし、もうすぐ退院できるわよ。良かったわね、梓沙さん」

「はい。日常に戻れるのが、楽しみです」

 飾らない笑みで応えれば、看護師さんはにっこりと笑ってわたしの頭を一度撫でた。

「じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 看護師さんが出て行くと同時に消灯がなされ、これまで明るかったはずの病室は急に暗くなる。窓から差し込む月明かりが、わたしとその周りを儚げに照らした。

 枕の裏に隠していた、一枚の写真を取り出す。先日、お母さんに頼んで持ってきてもらったものだ。

 そこには、わたしが前まで着ていたのとは少し異なる中学の制服を身に纏った、一人の少女の姿。年の頃は、私と同じくらいか……大人びた柔和な笑みは、もっと年上のようにも見える。

 彼女の姿かたちは、若かりし頃のお母さんによく似ていて……。

『もう、大丈夫』

 手術の日、最後にそう言って笑ったあの人と――わたしがその時はっきりと見た顔立ちと、あまりにもそっくりだった。

 裏返せば、今から十五年ほど前の日付が記されていて……その下には、鉛筆でこう走り書きされていた。

『有沙、中学校卒業時』

 思わず、小さく溜息を吐く。同時に、昔のお母さんの言葉を思い出した。

『あなたには、昔お姉ちゃんがいたのよ』

 確か小さい頃はそれ以上の話を聞かなかったから、これまでずっと『姉がいたらしい』という断片的な情報しか知らなかった。

 けれど、その後聞いた話によると――……。

 十五年前。わたしの姉・有沙は、高校に入学する少し前に、今のわたしと全く同じ病に倒れた。わたしの病名を聞いた時、お父さんとお母さんがひどく狼狽したのは、それが原因だったのだ。

 彼女は入院後、一度も弱音を吐くことはなく……それどころか周りの心配を過剰なまでに焼きながら、いつだって柔和な笑みを湛えていたという。

 当時の病院が今のような進歩した技術を持っていなかった上に、発見もだいぶ病状が進んでからのことだったので、治療の甲斐なく彼女はこの世を去ってしまったのだけれど――……。


「あなたは生まれる前に、有沙と一回会っているのよ」

 姉の写真を渡してくれたとき、お母さんはそう言った。

「どういうこと?」

 首を傾げて尋ねてみれば、お母さんはおもむろに優しい手つきでそっと自分のお腹の辺りを撫でた。そこはかつて、わたしが――そして姉が、いたのであろう場所だ。

「お母さんがあなたを妊娠しているとき、一回だけ有沙のお見舞いに行ったことがあるの。有沙はとっても嬉しそうに笑ってね。『男の子? それとも女の子?』って。その時には性別もわかっていたから、『女の子よ』って言ったら……『そしたら、一緒に遊べるかもね』って」

 『梓沙』と愛おしそうにわたしの名を呼んでくれた、彼女の声を思い出す。それはもしかしたら、わたしの想像上のものにすぎないのかもしれないけれど――……。

「細い手を一生懸命伸ばして……あなたが入っていたお腹をこうやって撫でながら、『楽しみだなぁ……早く生まれてこないかなぁ、わたしの妹』って……そう言って、笑ってた。あなたが生まれる少し前に、有沙はいなくなっちゃったけど」

 そう寂しそうに笑っていたお母さん。彼女にとっても、そしてお父さんにとっても、わたしはどう頑張ったってきっと、姉の代わりになることなどできない。姉を失った悲しみを、埋めることはできない。

 それでも、ここまで慈しみ育ててくれたことは本当だから。

 わたしという――『梓沙』という人間を、ちゃんと見てくれていたことだけは、ちゃんとわかるから。

 わたしにできることは、こうして生き延びることができた分、姉の分まで精一杯人生を謳歌することなんだと思う。


 ――ねぇ。妹の名前は、わたしの名前から一文字取ってね。

 姉は最期に、お父さんとお母さんに向けてそう告げたのだという。

 何事もなければ、普通の姉妹と同じように、一緒に時を過ごしていたはずだった……そんな、十五歳違いの姉。

 わたしは、その存在をほとんど知らなかったけれど……彼女の方は、ちゃんとわたしを認識してくれていた。妹として、新しい家族の一員として、迎えようとしてくれていた。

 わたしに、『沙』という名前の一文字を遺してくれた。

 わたしが辛い時、苦しい時、そっと寄り添い鼓舞してくれた。

 同じ病気になったわたしを、応援し励ましてくれた。

 彼女は、きっと元来の世話好きだった。自分のことを棚に上げてまで、他人の幸せを願えるような……そんな、優しい人だった。

 有沙は、わたしにとって間違いなく、自慢の姉だ。現実世界では、ついぞ一度も会うことはなかったけれど……今は心から、そう思う。

「ありがとう、有沙お姉ちゃん……」

 写真を抱きしめ、ポツリと小さく呟けば、脳裏に浮かんだ姉がこちらを振り向き、柔らかく笑った気がした。

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【短篇集】花の菓子折り @shion1327

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