朧の夜、エントランス前。

 気紛れに、ふらりと外へ出た。

 もう夜もとっぷりと更けた時刻だとか、明日も仕事があるとか、そういうのは全く関係なくて。ただ、単純にそうしたかった。


 エントランスを出て、ある程度セキュリティのしっかりとした重いドアをそっと開ける。

 二階より上の住人にはさすがに聞こえないだろうが、一階の――特に入口に近いところに位置する部屋の住人は気付くかもしれない。

 そんなことを、思った。


 いらぬ心配のような気もしたけれど、何となく気がかりに思う。

 こんなにも人目が気になる、やはり今宵のわたしはちょっとおかしい。


 きぃ、と小さな金属音がして、背後でドアがゆっくりと閉まった。


 ひやりとした夜風が、わたしの身体を包む。

 薄手のパジャマにカーディガンを羽織っただけの格好なので、春先とはいえいささか寒い。


 しばらくドアに凭れて、月を眺めた。

 黄色い光を放つそれは、輪郭がぼんやりと滲み、霞んでいる。


 朧月夜というやつだろうか。それとも単に、わたしの視力が悪いだけか。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。


 おもむろに、半ば無意識に、カーディガンのポケットを探る。

 わたしの頭の中は、朧月夜のようにじわりと滲み、霞んでいた。

 記憶は曖昧。自分でも、何を考えているかよくわからないのだ。


 取り出したそれを――カッターナイフを、何気なく手で弄んだ。


 もしも死ぬのなら、孤独だけは避けたいと。

 いつしか、そんなことを想うようになっていた。


 鍵のかかった、一人暮らしの部屋の中で、ひっそりと息絶えるのは絶対に嫌だった。

 誰でもいい。息絶えたわたしを、見つけてほしい。

 一刻も早く、亡骸を掻き抱いてほしい。


 その心に、わたしの残した何かを刻み付けたい。


 結局は……助けてほしい、だけなのかもしれない。


 さした意味もなければ、目的もない。そうなるに至る原因だって、もちろんない。

 そんな底なし沼から、わたしを救い上げてほしかった。


 誰でもいい。

 わたしを、助けてほしい。救ってほしい。


 その腕でふわりと、優しく抱きしめて。

 その声で「大丈夫だよ」と優しく囁いて。

 不安にさいなまれるわたしを、安心させてほしい。


 わたしを、愛してほしい。


 カッターナイフを、親指でぐっと押し出す。

 カチリ、と無機質な音がして、鋭い刃が顔を出した。


 ――この身体の、何処を、断ち切ってしまえば。

 わたしは楽に、なれるのでしょう。


 未だ何の傷もない、白く頼りない腕に、銀の刃を這わせる。

 震える身体を、唇を強く噛み締めることで戒めた。

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