5:旅立ち酒、カーマインブラッド

 アランが気だるそうに起床したのは正午を回った頃。切華はというと日の出までには起きており、身支度も終わっている様子であった。長い夜の後には少しくすみがかかっている朝日の光が部屋へ刺した。埃が飛ぶさまをだらだらとアランは眺めていたが、ずっとそうもしていられないので、ゆっくりと気だるい身体を起こす。


「切華なぁ、君はどれだけタフなんだい……? 体中の精力が吸い尽くされた気分だったよ。」

「こ……細かいことは気にするな! ほら、どこかで飯でも奢ってあげるから。」

「いや、いいよ。その……心地よかったのはお互い様だしな。」

「……ふふっ、そうか。」

 

 アランは切華が満足そうに目を細めているのを横目にそのままベッドから離れ、着替えを済ませ、ムスク・ミントがベースの香水をさりげない程度につけた。東洋に伝わる魅力的でスパイシーな香りは、倭人が全体の半分を占める欠け月の団員にこそ流行らなかったが、元々香水文化が栄えていた欧州出身のアランにとっては好みの贅沢品であった。彼が身支度を終えると、切華はその魅力的な香りに気づき、アランの胸元へ顔をうずめた。


「この香り……アランが居ない間、よく君を思い出すためにキルトにつけていたっけ。私が好きな香りだ。」

「そうか、団員にはあまり評価は高くなかったが、切華が好きならば倭国へ戻ったとしても、気兼ねなくつけていられるよ。……さて、君も準備するといい。日が暮れるまでには馬車に乗って森の停留所まで向かわなければならないから。」


 二人は最後にエヴリンに挨拶をしに行こうと、昨日彼女が休息していた部屋へと向かった。だが、扉を開け、室内を確認すると、彼女の姿は見当たらなかった。

「妙だな、彼女は街道を歩ける程の体力はもう残っていない。誰かが同行しているのだろうか。」

 切華がふとベッドの隣のタンスから、紙片がはみ出しているのを見つける。引き出すと、丁寧な字で短文が書かれていた。


『アランと切華さん


 あなた方は親切だから、私のもとへ挨拶へ来るのでしょう。でも、読むころには私は羽化し、このボロボロの繭から飛び立っています。

 アラン、よろしければハヴィへ私の伝言を届けていただけますか? 私はついに成し遂げた、と。貴方から授かった苗を育み、月光に輝き、微笑むことができたのだと。最期に一つだけ、この望みを叶えていただけたら幸いです。

 さて、これで本当にお別れです。私が幸せであるように、あなた方にも溢れんばかりの幸せに満ち満ちてゆくよう、私は祈っております。

 切華さん、貴女のことをもっと知りたかった。でも私はもう行かなければならないのです。何もすることが出来ず申し訳ありません。せめて、貴女とアランの行く先が明るいことを願いたく存じます。


 月光が、誠実なあなた方を導きますように。 エヴリン』


 横で紙面を眺めていたアランが静かに両拳を握りしめていた。

「誠実だと……? 俺たちは皆から浮かばれるような立派な人間では、ない……。」

 アランの無念そうな表情から、切華はエヴリンに何が起きたのかを察した。恐らく彼女はもうこの世にはいないのだろう、羽化はその比喩なのだと。

 切華はその場で正座をし、エヴリンが眠っていたベッドに向かって合掌した。

「欠け月の九善くぜん・切華は、エヴリンの魂を弔います。月光に満ちる夜、彼女を零無れいむが導いてくださいますよう、お祈り申し上げます。」

 アランも目を閉じ、彼女に倣った。欠け月が亡くなった者へ捧げる儀であった。祈りにあった零無というのは、欠け月の初代頭領であった女性の二つ名である。今では彼女は組織の象徴的存在であり、彼女が月に代わり人を導くのだと教えられていた。


「ありがとう、切華。彼女もきっと喜んでいるよ。」

「礼は彼女に言ってやれ。私はただ手向けてやっただけだ。」

「あぁ……そうだ、予定を少し変えよう。彼女と、旅の為に、少し寄りたい場所がある。」


 彼らは再度合掌し、薬品の残り香がするエヴリンの部屋を後にした。



* * *


 彼らが訪れたのはケイアスの馬車停留所付近にある、大衆向けのパブであった。そこは旅人や観光客が国を出入りするときに訪れることが多く、有名であった。アランらは店に入ると、10席程あるカウンターの最奥へ座ると、一人の男性スタッフが彼らに気づき、笑顔で注文を取りに来た。


「ようこそ、アラン。お連れがいらっしゃるのは珍しい。……今日は何にしますか?」

「久しぶりだな、ハイン。旅立ち酒を3つ頼む。」

「ケイアスを離れるのですね、無事を祈ります。……カーマインブラッドを3杯、承りました。」


 ハインはシェーカーに赤いリキュール、ブルーベリーのような果汁とジンジャーを少量入れ、シェークした。手際良い作業でカクテルは出来上がった。


「お待たせしました。では、また戻ってきたら面白い事件のネタ、聞かせてくださいね。」

「ありがとう。また今度な。」


 ハインは一礼し、カウンターから離れた。アランたちは、提供されたカーマインブラッドと呼ばれる果実酒のグラスを手に取り、まずは香りと色を楽しんだ。


「1杯は君の、そしてもう1杯はエヴリンのだ。……彼女もこの酒には色々な思い出があると聞いたのでな、彼女の最期に捧げたくなったのさ。」

「ずいぶんと甘味が飽和しそうな一杯だな。けれど、私たちとエヴリンの旅立ちの朝には丁度良いかもしれないな。……アラン、さっさと乾杯しよう。時間はそれほどないのだろう? エヴリンが最期に示してくれた道を無駄足にしないためにもな。」

「あぁ、そうだな。……旅の成功とエヴリンの幸せを、この1杯に。」


 二人は静かに杯を掲げ合い、果実酒を飲み干した。甘味は強いがジンジャーの刺激が程よくアクセントとなり、しつこさを感じさせていない見事な1杯だ。


「うん、やはりここの酒は良い。旅立ちにはうってつけだ。……エヴリンも、喜んでくれていたらいいが。」

「きっと喜んでいるよ。人の良心と慈悲を欲していた彼女なら特にね。」


 彼らはエヴリンに対して最大限の敬意を表した。それらの行いは、上等なケイアスの人間ではあまり見られない、人に対しての暖かい思いやりを感じさせた。人の弱さや痛みを知っている者は、富や名声が無くても強く生きていられる。彼らとエヴリンは、決して軟弱な人間ではない。いつだってこの世を無意識に動かしているのは、そういう者たちが放つ微かな輝きである。だが、心が豊かであろうと、現状では解決しようがない事態が発生することは多々ある。彼らが行動を起こそうとしている理由も、その隔たりを僅かな手がかりで克服するためである。


 王妃消失事件は、いずれ大きな災厄となるとアランは確信している。上層が隠蔽するのであれば、この事件を解決できるのはアランらの様な政治等に縛られない連中である。それを彼が知っていたからこそ、積極的になっているのだ。


「さて、出発の時間だ。」

「承知した。先を急ごう。」


 残ったエヴリンの酒は、二人で半分ずつ飲み、お代を手早くすませ、足早にパブを後にしたのであった。

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飽和するレギム Nave @Maccarow

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