第1-2話

 旅立ちを決めて、俺はアイトラ大陸の地図を広げた。200年ほど前から使っている古びた地図だ。この200年で俺が支配していた土地——エオスの土地は大きく変わってしまったので、この地図と現実とは大きくかけ離れているのだろう。実際、今では森林に包まれているアイトラ大陸の南部は、地図の中ではかつての広い広い草原と畑が続く大地の姿を残していた。だがそれでも、旅の大体の指針を立てるのには役立つはずだ。

 まず、現在地と目的地。俺が今いる場所は、地図ではアイトラ大陸の南半分の丁度中心近く——エオスの国の首都、ヘオスポロスの位置だろうか。そして目的地は地図の北東部、丁度左上の辺りにある土地——セレネの国の首都、エンデュミオンだ。もう200年と彼女の土地を見ていないが、あの石造りの都はまだ健在なのだろうか。

 地図の上でヘオスポロスとエンデュミオンを結べば、その旅の距離は実に遠大だ。かかる時間は一ヶ月か、それとも二ヶ月か。距離的な遠さはもちろんのこと、200年の間に変わってしまった土地の状態は一切分からない。それに伴って危険も多いだろう。

 しかし、俺はもう旅立った。後戻りをする気は少しもない。旅立たずにはいられなかったのだ。自分の身に何が起こったのか、知らずにはいられなかった。他でもない自分のことなのだから。自分に出来ることが何なのか、知らずにはいられなかった。もう無力のままに不老不死の時を過ごすことには嫌気がさしていた。そしてもし叶うのなら——ヘリオスを止めずにはいられなかった。

 当面の目的はエンデュミオンへ行き、セレネに会うことだ。神様として俺たち三柱の中では最も聡い頭脳を持っていた彼女なら、俺の問いに答えてくれるかもしれない。



 地図を鞄の中にしまい、俺は目の前に広がる景色を見る。どこを見ても木、木、木の文字通り森林だ。エオスの土地を出るまではこんな景色がひたすら続くのだろうか。考えただけで、ちょっと億劫になる。いやまあ、エンデュミオンに行くためには仕方ないことなんだけれども。

 森林の危険性は移動がし辛いだけではない。何よりも彼ら——森の民、獣人族がいる。昨日のように彼らを追い払うことだけなら、今の俺なら容易いはずだ。しかし彼ら獣人族は追い払えば終わりという訳ではない。獣人族は3人で駄目なら10人、それでも駄目なら50人——そんな風にして追ってくる。彼らに獲物ではなく外敵として目をつけられたのなら、徹底的に狙われることになるだろう。


「グルゥ……。なァ、本当にンな人間いんのかよォ」


「ホーゥ……分からないナァ。しかし君たちの一族が言い出したことだ。強ち間違いでもないんじゃないか?」


 不意に声がした。咄嗟にしゃがみ、それから自分の周りに背の高い草が密集していることを確認する。これならば、物音を立てなければこちらの気配に気付かれる可能性は低い。俺が身につけているのはこの森に生息する植物を材料にして作った服で、独特の強い匂いがある。この匂いが、服を身につけている俺を森の香りと同化させてくれる。顔などどうしても露出するところには同じ植物から作った香料を塗っていた。いずれも、森で獣人族から隠れて暮らす人間としての知恵だ。

 獣人族からはこちらの姿を隠せただろう。しかし同様に、こちらから獣人族の姿を見つけることも難しい状態にある。背の高い草や、広々と伸びる木の枝が視覚を覆っている。鼓動が早くなっていった。額には汗が浮き始めた。

 息を殺して思考を巡らせる。ここで魔力を用いてでも神様の力を使い、獣人族の位置を確認するべきか。しかし何が起こるか分からない旅だ、魔力を無駄に消費するわけにはいかない。ならば、多少の危険を冒してでもヒトとしての力だけで切り抜けるのか。長考している時間はなかった。

 意を決し、長くゆっくり息を吐く。まだ鼓動がやかましく鳴っているのを感じながら、耳の神経を研ぎ澄ませた。


「わっかンねぇよ? うちの一族の大人が言うことだぜェ。あいつら、いっつも酒飲んで騒いで、狩り行ってんの」


「ふぅむ。いずれにしても、ここまで大事になるような報告を軽はずみに行う訳でも無いだろう。精査に越したことは無い」


「けっ、そうですかい。ガルゥ……ったく、大人ってのはどこの一族も心配性だねェ」


 聞こえた。左の方だ。さっとそちらの方へ視線を向ける。いた、二人いる。一人は大人の男ほどの背丈だ。といっても昨日の獣人族よりも頭一つ分ほど大きく、その腕は巨木のように太かった。重々しく、ゆっくりと体を動かしている。そしてその顔は梟のものだった。もう一人はまだ子どものようだ——梟の獣人族の腰ほどの位置に頭がある。上半身まで隠す服を着ていることから女性なのだろう。顔は狼のものだ。

 さて、どうするか。このまま姿を隠して彼らが通り過ぎるのを待つか。それとも、もう少し彼らの様子を伺うか。安全を考えるのなら、彼らから距離をとるのが正しいだろう。しかし、一方で気になることがいくつかあった。一つは、梟と狼の獣人族が組になって行動していることだ。普通は種族ごとに分かれて活動している獣人族が、別種族同士で行動していることは珍しい。青年同士ならば狩りの状況によってはあり得るが、大人と子どもという場面は滅多にないはずだ。そしてもう一つ気になるのが、彼らの会話の内容だ——「そんな人間いるのか」という言葉、狼の獣人族からの報告が発端だということ、さらに彼らの人間を探している様子。昨日、狼の獣人族の前で神様の力を使ったことを思い出す。獣人族からしたら、逆巻く火炎や天候を操れる魔法使いが何の前触れも無しに現れたのなら、大きな脅威と見なすのは仕方ないのかもしれない。この200年の出来事を考えれば、彼らが人間の動きを警戒するのは当然だ。この森——エオスの国の名前も無い広い広い森を抜けるためにも、獣人族の動きを見極める必要があるのかもしれない。

 梟と狼の獣人族が辺りの様子を観察しつつも、少しずつ離れていく。追えるのなら追って、様子を見るべきだろうか。そんな考えが頭を過ぎり、思わず片脚に力が入る。靴が土を踏みしめ、間に挟まっていた木の枝を折った。細やかで小高い音が響く。反射的に息が止まり、人間の身でありながら獣人族を追跡しようと僅かでも考えたことを悔いた。

 目と耳に神経が傾く。先ほどよりも感覚が澄んでいた。獣人族たちに反応がない。小枝を踏んでどれだけ経っただろうか——時間の感覚がなかった。狼の獣人族の小さな背中が遠く離れていくように見える。

 梟の首が回り、その嘴の先端が前方から後方に反転した。梟の真っ黒い両眼がこちらを向く——草に身を隠しているはずだが、彼に見つめられている気さえした。


「ホーゥ……。なんだろうネェ、一体」


 梟の獣人族が呟く。俺の耳はその音さえ明確に拾っていた。視界は彼の姿を捉えて離せなかった。俺の顔ほどもある掌で、梟の獣人族は顔の毛を撫でた。


「あー? ンだよ、なんかあったかよ」


 狼の獣人族の子どもも足を止め、梟の獣人族の顔を仰ぎ見る。


「音がしたんだ……ホーゥ。一体、なんだろうネェ」


「おいよォ、ガルゥ。もしかしてさっきの枝でも折れる音かよ。リスかなんかだろォさ、もっとあっちの方探そうぜ」


 狼の獣人族は歩きかける。しかし梟の獣人族は動かなかった。それから、その丸太ほどもある脚をゆっくりと動かし、こちらへ一歩踏み出してくる。今までとは歩き方が明らかに違った。生い茂る草を踏み、地表に露出している木の根を踏み、それらを全て潰し砕いていた。嫌な音が耳に刺さる。梟の獣人族は明らかにこちらを威嚇していた。

 だめか、神様の力の使い時か——。

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元神様は神様の力を取り戻せるのか? @Huyodo

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