第1-1話

 もしかしたら、神様の力を取り戻せたのかもしれない——。さっきまで確かに存在していた火炎は消え、代わりに辺りの木々の焦げた臭いが鼻腔を刺激している。いつの間にか魔法で呼び寄せた雲は霧散していたが、雨が降ったことを証明するように辺り一帯の地面はぬかるんでいた。

 ふと、獣人族たちに足の腱を引き裂かれたことを思い出す。俺は不老不死の肉体を持っているため、どのような傷も癒すことができた。しかし回復のためには栄養と自然治癒の時間が必要になるはずだった。だから身体が傷つけば治るまでは痛みを感じるし、動かすことなど到底できなくなる。この200年の間はずっとそうだった。しかし今俺は、足の腱に痛みを感じていなかった。足袋をそっとめくり、アキレス腱を見る——裂傷など、どこにもなかった。俺の足は、しっかりと皮膚に覆われた状態で脚部と繋がっていた。この治癒力もまた200年前に失ったはずの神様の力の一つだ。

 胸が高鳴った。神様の力が戻っているのだろうか。そうなのだとしたら、一体どの程度なのだろう。確かめる価値はあるはずだ。

 自分の体を思い描く。指の先、肩の形、地面と接する足。そして踏みしめられている大地を想像する。今から行うのは、飛翔の魔法だ。寝転ぶようなつもりで、体を後ろへ倒す。足が大地から離れ、後頭部は落下していく——だが、地面に打ち付けられることはなかった。よし、200年ぶりだが感覚は忘れていない。体が空気の上で横になっている。俺の身体は、宙に浮かんでいた。

 あとの動きは簡単だ。寝返りをうつようなつもりで一回転し、空気の上でうつ伏せになる。そして背筋を使って上半身をあげる要領で、頭の先を天に持っていく。すると、それに伴って引っ張りあげられるように全身が空に昇っていく。

 どこまで昇っていこうか。今なら思うだけで、空中を自在に動けた。そうだ、雲の上あたりまで行こう。全身で空を切りながら、服を靡かせて星に向かっていく。高く、高く、ずっと高く。そして、白い雲を突き抜け、空の世界にたどり着いた。

 久しぶりに間近で見る夜空は澄み渡っていた。星の輝きが手に取れると思うほど近く、月は掌で覆いきれないほど大きかった。冷たい夜風が頬を撫でている。神様の力を持っていたころは何とも思わなかった景色が、今はどこまでも心地よいものだった。

 しかし、神様としての力がすべて戻ったわけでは無さそうだった。月に照らされる雲の風景が、わずかに霞む。そして段々と目の前の景色への感動が別の感情に塗りつぶされていく。景色などどうでもいいし、夜風など寒いだけ、という酷く覚めた思いが首をもたげてきた。この感覚は、魔力が残り少ないために生じているのだろう。魔法とは意志の力だ——何かをしたいと強く望むことが魔法を起こす力であり、その尋常ならざる意志の力が魔力とも言える。その意志の力が弱まっていると、人は無気力、無感動に苛まれる。

 人間の暮らしの中では、誰かを救うために魔法の力を限界まで使い果たすこともある。しかしそれでも戦いが終わらなければ、同志を救うという意識や、目の前で同志が死んでいくという残酷な光景への悲しみすら、人は感じなくなってしまう。魔法の力とは残酷なものでもあるのだ。

 視界が霞がさらに濃くなり、星の瞬きが判別できなくなってくる。夜風の冷たさすら分からなくなってきた。魔法を酷使しすぎると五感さえも鈍ってくる。もうそろそろ、魔力の限界だろうか。そろそろ地上に降りよう。どうせなら俺の住処の近くへ。魔力の限界は近づいているが、まだ俺の住処の近くへ向かうくらいには力を保てるはずだ。



 俺の住処は少し前——といっても100年以上前——もの好きな人間たちが建ててくれた、小さな小さな、ささやかな小屋だ。今では木の蔦が巻きつき、苔が生した緑色の小屋となっている。しかし俺はこの家が大好きだ。森のはずれ、湖の横にぽつんと建っているところも、寂しささえ忘れれば愛おしく思える。

 俺はそんな小屋の玄関前にそっと降り立った。そして降り立った瞬間、どっと疲れを感じてその場にしゃがみ込んでしまった。体はまだ十分に動く——しかし動かそうという意志が抜け落ちてしまったようで、体が鉛のように重かった。

 やはり、神様の力は戻っているが、それは極めて一部だけのようだ。かつての俺なら、空を永久に飛んでいられた。しかし今は、ほんの数分にも満たない時間を飛ぶだけで立てないほどに疲労してしまう。普通の人間にしてみれば飛翔の魔法を扱えるだけで一人前なのかもしれないが、神様の力としては話にもならないだろう。

 とりあえず休息をとろう。そう思い、小屋の中に入る。そして入った瞬間、ランプに明かりを灯すのも億劫だと感じ、すぐにベッドへ倒れこんでしまった。食事は摂る気になれなかった——というよりも、森で獣人族に襲われて今日と明日の食料は失ってしまった。

 ベッドに倒れて数秒としないうちに、疲労感と空腹が全身の力を削ぎ落として、俺の意識を眠りに落としていった。



 どれくらい経ったのだろうか。まどろみの中にあった俺の意識は、急にはっきりしていた。しかしそれは意識だけの状態だった。体の感覚はなかった——それどころか、俺は意識だけでその空間に存在していた。そして俺が存在するこの空間は、俺の住み慣れた小屋の中ではなかった。眠りに落ちる前、200年ぶりに魔法を使った時の、あの懐かしい感覚が蘇ってくる。そうだ、この感覚を、この空間を、俺はよく知っている。

 うつつの世界よりも、俺が深く根ざし、存在していた世界——ここは、概念の世界だ。現の世界の根源とも言える、源の世界。神や精霊、魔法の深淵までを覗いた者が現世うつしよの理と対峙する世界。そして眠りの中で夢という形で誰しもが訪れることのできる世界。

 なぜ、今この世界にいるのだろう。俺が神様の力を僅かでも取り戻したことと関係があるのだろうか。いくら魔力を取り戻したとは言え、俺の魔法の力は深淵を覗けるほど強くはない——とすれば、やはり神様の力が俺の内に戻り、俺にこの世界を見せているのか。

 遠くの空が輝く。目蓋を閉じても輝きが瞳に焼け付くような、そんな強い光だった。それが二つほど、降り注いできた。あの光は、どこへ落ちていくのだろうか——。

 不意に聞き覚えのある高笑いが聞こえる。男の声だ。聞き間違えるはずもない、この声は混乱と恐慌を支配する神の声だ。そしてもう一つ——言葉を大気に融かして広げ、耳だけでなく呼吸だけでも皮膚感覚だけでも感じられるように伝えているような——静かだが聴き漏らすことのできない声が聞こえてくる。この声は女性のものだ。そう、男の声と同じように聞き違えるなどあり得ない、俺のよく知る声だった。鎮静と閑寂を支配する神である、彼女の声だ。



 目が、覚めた。おかしな夢を見た。

 久しぶりに概念の世界に入った夢だ。しかし今の夢は実際に概念の世界に入った結果だったのだろうか。それとも俺の想像がそのような夢を見させただけなのだろうか。今の俺にはその判別さえつかなかった。

 一体どちらだったのだろう。まあ、どちらにせよ概念の世界の光景は一見して意味深で意味不明だ。神様の力をほとんど失った今の俺には、その意味を理解することは到底できない。

 しかし、気になる内容ではあった。俺が概念の世界で見た——というよりも感じたのは3つのことだ。空から降る強い光、ヘリオスのものだろうと思った高笑い。そしてもう一つ、200年以来聞いていない彼女——200年前までの俺や、ヘリオスと同じくこのアイトラ大陸を支配している女神の声。空から降る強い光が何なのかは分からない。しかしその他の2つの声は、俺に神様の力が戻りつつあることと結び付けて考えずにはいられなかった。

 俺が200年前に失い、昨日取り戻しつつあることに気付いたこの神様の力は、ヘリオスに奪われてしまったもののはずだ。つまり、本来なら今もヘリオスの下にあるはずの力なのだ。それが何故か、俺に戻っている。概念の世界のヘリオスの声は笑っていた——あの笑いが意味することは一体何なのだろう。

 疑問は尽きない。だが少なくとも確かなことは、今の俺はそれらの答えを知る手段を何も持っていないということだ。

 ヘリオスに敗れて以来、俺は多くのものから隠れて暮らすことを決めた。何者からも見つからないようするために、何者も直視しないようにするために、人との関わりを捨てて暮らし続けた。長い年月をかけて世界から目を逸らし続けた俺は、今の世界の現状さえ何も知らない。そんな俺が、新たに抱えた謎の答えを知る手段など、あるはずも無かった。

 そう、この小屋の中に一人で暮らし続けている限りは——。

 ベッドから起き上がり、小屋の中を見渡す。一部屋しかない狭い小屋だ。室内には何もない。この100年あまり何かを必要としたことなど一度もなかった。この小屋を建てた人間たちの姿が思い浮かんだ。俺は、彼らが俺にこの家を贈ってくれた思いに応えられているのだろうか。ヘリオスに敗れ、神としての力を失い、ヒトとして生きる意味を見出せなかった俺に、ヒトとして生きれば良いと言ってくれた彼らは、今の俺を見て何と言うのだろうか。

 ふと彼らの言葉を思い出す。


「ヒトとして生きるのなんて簡単なことだ。自分のやりたいことをすればいい。それだけ出来れば、後はどうにもなるんだ」


 俺の、やりたいこと。一つの思いが浮かんでくる。200年前から変わらずに抱き続けた思いだ。そう、今世界の混乱と恐慌を支配しているヘリオスを止めるという思いだ。今まではヒトには不可能な願いだと思って忘れようと思っていた願いだった。しかし、神様の力を取り戻し始めた今なら——もしも神様の力を完全に取り戻せたのなら、叶うのかもしれない。

 神様の力を完全に取り戻せるのだろうか。その答えは、今の俺に知ることは出来ないが——彼女に会うことができたのなら、知ることができるのかもしれない。

 ヘリオスの高笑いと共に聞こえてきたもう一つの声が蘇ってくる。鎮静と閑寂の神——200年前まで俺とヘリオスと共にこのアイトラ大陸を見守っていた神——セレネの声だ。

 概念の世界で見た光景を思い出す。あの夢が幻では無いのなら、彼女もまた俺に神様の力が戻ったことに関係しているのだろう。

 いくら神様の力を取り戻しつつあるとは言え、今の俺は単なるヒトだ。そんな俺が一人の協力者もなく遠く離れた彼女の土地までたどり着くことができるのだろうか。可能性は限りなく低いだろう。しかし、不可能ではないのかもしれない——。

 再び小屋の中を見渡す。この小屋を建てた人間たちの姿を思い出し、彼らの笑顔を思い出す。そして、彼らと過ごした日々と、交わした言葉を思い出す。

 俺は荷物をまとめるべく鞄を手に取った。最低限必要なものは非常用の保存食と地図だろうか。胸中では、この小屋に必ず戻ってくると約束をしながら。

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