第3話
細い腕が私の肩から離れると、急に夜の空気が冷たく感じた。祖父母も両親もいない家の、なんと広いことか。おまけに納戸にはわけのわからないものが、いる。祖母の置いた、わけのわからないもの。
私にはただの、ひからびたお爺さんに見えたのだが、あれは一体なんなのか。
わけのわからない恐怖感が、夢よりも鮮明に私を襲い、私はその場に蹲って、激しくしゃくり上げた。私の中の私は全く悲しくも怖くもなかったのだが、ただただ涙が溢れ出るに任せた。
わんわんと大声を上げて泣いていると、「どうしたの」と言いながら祖母が来た。
祖母の顔を見た途端、今までよりもわけのわからない涙が溢れ出た。
「お母さんがいない」
私がそう言うと、祖母は優しく抱きしめてくれた。子供をあやすなど、絶対にしない祖母が、そのときは大島の袖が私の涙で濡れることも気にせず、静かに私を抱きしめてくれた。
「今日は一緒に寝ようね」
恐怖で涙が溢れて止まらなかったが、私は頷いた。
玄関まで来たときに、ちょうど両親が戻ってきて、泣いている私を見て驚いていた。
「夜泣きするような子ではなかったのに」と、母はがっかりしたように私を見た。母にとっては手の掛からない子供であった私だが、その夜の出来事は、特に母を落胆させたようだった。
「台所の隅で泣いていたよ」祖母が言った。
母は怯えたように私を見、それから祖母に言った。
「お手数をおかけして申し訳ありませんでした」
そうして私の肩を抱き、奥の部屋へと私を連れて行った。
寝たきりになった祖母が面倒を見てもらっている、叔母の家で、見舞いに来ただけのはずの私はそんなことを思い出し、祖母の枕元で、その夜の事を話して聞かせた。けして言ってはならないと、大叔母の幽霊は私に言ったのだけれども、納戸のあれは、大人になってからは一度も見てはいない。
大叔母も、それから一度も見ていない。あれは子供の頃によく見る幻だったのか、それとも怖い夢の続きだったのか。
私はその答えを、祖母に訊ねたかった。
大叔母が語ったことは殆ど忘れていたのだが、この家で何気なく過ごしているうちに、細かいところまで思い出したのだった。だってこの家は、その当時私達が住んでいた家なのだから。
あのあとすぐ、私達家族は、この家を追い出された。
どういうわけだか、子供の私にはさっぱりわからなかったのだが、祖父と父が決定的な仲違いをしたらしかった。所謂絶縁というやつだ。それで、両親と私と弟は、この家を出たのだった。
家を追い出されたことで、経済的にはかなり困ったことになったけれども、姑の虐めがなくなったことで、母の心は少し落ち着き、その後、私はひとり取り残される夢をみることはなくなった。
精神的にはかなり良くなったといえる。
けれども、その反面、父は当てにしていた祖父の遺産を手に入れることができなくなり、祖父が死んだとき、父の代わりに父の姉、つまり私の叔母が、この家と土地、そして祖父の財産であるかなりの金額を、そっくりそのまま相続した。
おまけに祖父は軍人恩給をもらっていたので、祖母が生きている限りは軍人の遺族としてずっと、何もしなくてもかなりの金額が自動的に振り込まれてくるらしい。
叔母も夫に先立たれ、独立してしまった子供達の元で暮らすより、祖母の面倒を見た方が気が楽だと言って、ここでこうして祖母と二人で暮らしている。
そうして何故か、絶縁した弟の娘であるはずの私だけ、突然こうして家に招いて、ごちそうをしてくれた。私の両親には内緒にしろと言う。裏があると思った方が良いのだろう。大叔母の話が本当のことであると仮定して。
そんなこともあったので、私は事の真相が知りたかった。叔母が妙に私にだけ親切なのは、もしかして私が納戸のあれを見たことを知っているからなのではないかと。
祖母の枕元でその話を始めると、しわくちゃになって昔の美貌の欠片もわからなくなった両の眼を、祖母は大きく見開いた。
それから口をパクパクさせて、涎を垂らし、助けを求めるかのように右手を挙げて、とはいってもほんの数センチくらいで、力なく手首をぱた、と一度、動かした。
私はそれを見ながらも、話をやめることはできず、最後まで続けた。途中で祖母は動かなくなった。それを見ても、とにかく気の済むところまではなんとしても話を続けたかったので、淡々と、あの日語った大叔母の言葉だけを、正確に追って祖母に聞かせた。
語り終えて私は、随分と気が晴れた。
長年黙っていたことを、恨み半分に思っていた人物に、反論も反抗もできない相手に一方的に叩きつけるのは、なんだか気持ちが良かった。総ての原因はあんたなのだと、言ってやるのが爽快だった。
「それで、納戸にいるのはなんなの?」
最終的な問いかけに、祖母の答えはなかった。
叔母が救急車を呼んで、祖母は総合病院に入院することになった。医者の言うことには、九十歳を超えて、祖母の体は骸骨のようにやせ細ってはいたが、元来丈夫な体質らしく、内臓は完全に健康で、ちゃんとした栄養と清潔な環境さえあれば、まだまだ当分は大丈夫とのことだ。
叔母の今までの介護が完璧だったと、寝たきり老人にしては状態がよい、と、医者に褒められたらしい。叔母は大層嬉しそうに、病院の待合室で、私に言った。
「まだまだ生きていてもらわないと、ねえ」
私はそんな叔母に向き直った。
「ねえ、叔母ちゃん」
「うん?」
「お祖父ちゃんの妹のこと、覚えている?」
「ああ、月世さん、ねえ。あの人は綺麗な人だったねえ」
叔母はそこまで言って微笑んだ。この人は、祖母の容姿をそのまま受け継いでいるようで、笑顔の色っぽさが、若い頃の祖母にそっくりだ。
「みづきちゃん、なんで?」
叔母は妙に嬉しそうに見えた。
「え?」
「なんで月世さんのこと、知っているの?」
「なんで、って」
私は叔母が、祖母の部屋の外で、つまりあの、玄関側の階段のところで、私の話を全部聞いていたのに気づいていた。だから本当は、あの話は祖母にではなく、叔母に話していた部分もある。
「まあいいわ。月世さんのこと、知っているのなら、きっと話が早い」
叔母はそう言って、更に嬉しそうに微笑んだ。私にも、その容色は、少しは遺伝しているのだろうか。鏡の前で微笑んでみても、自分には、ちっともそんな風な色気はないと思うのに。
それを察したように、叔母が続ける。
「あんたは月世さんに似ているよ。だからきっと上手くいくのじゃないかって、わたしは思っている。母さんにはまだまだ、長生きしてもらわなくっちゃあならないし、協力してくれるよねえ?」
叔母の言っていることは、多分、納戸のあれのことなのだろう。あれの面倒を、一緒に見て欲しいと、そういうことなのだ。私は曖昧に笑っておいた。
「ああ、やっと気が楽になった。母さんの面倒を見るのも、毎日きがきじゃなくって。だってそうだろう? あれは、見ることができる人にじゃないと、どうにもできないものだって言うし。この先も、楽に生きていけるというのなら、あたしはあれの言うことはなんでもきくつもりだよ。あんただって、苦労したのだから、これからはあれと、あの家で生きていけばいいのだよ。お供えさえ忘れなきゃ、あとは何もしなくってもいいのだからさあ」
叔母は、ほう、とため息をついて、待合室の長椅子にもたれかかった。
「お供えって、何を?」
私の質問に、叔母は唇の両端を上げただけだった。
了
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