第2話

 おりこうさんに、なったわね。

 あたしの声が聞こえるの。

 怖がらなくてもいいの。別にとって食いやしないから。ちょっとあたしの話を聞いてもらいたいだけだから。

 さあ、ここに来て。冷蔵庫の前に、ね。

 うん、そこに座ってもいいよ。長くなるだろうから、立っているのも辛いのかも。

 ねえ、あんた、この間、お便所に行く途中で、あれを見たでしょう。そう、納戸の奥。

 あたしね、やっぱりね、って思ったよ。

 だって、あたしと血が繋がっているのだから、絶対見えるようになるって、ずっと。

 けどそれ、中々、自分じゃわからない。だって、いつも見えているでしょう。

 あんたがチイ兄ちゃんに連れてってもらっている歯医者で、いつもあそこで待っている人達が、本当にそこにいるのかって、信じられなかったでしょう。納戸の奥、見てから。

 あそこにいる人達、全員触って回ったよね。それで、触れなかった人、いた?

 そう。

 たまにはね、触れる時もあるから。触れても、信用できないの。覚えておきなね。

 でもね、あんたがそうしたとき、ああ、この子は間違いなく、うちの子だなって思った。あたしと同じだって。

 だからあの人にも嫌われているの、あんた。

 まあ、あの人は、自分以外は全員、嫌いなのだけれど。

 そうだよね。わかっていると思っていた。

 でも子供だから、大人に頼らないと生きていけないよね。それがわかってて、ああやって言うの。嫁いびりだって、同じだよ。

 お嫁さん、とうとうここに来ちゃったって。

 だからいずれあんたも、そりゃ今は子供だけど、すぐに自分一人でなんでもできるようにならないと、生きていかれなくなっちゃうよ。あの人から、離れないと。

 あの人、今じゃここみたいな都会に住んでいるけど、あんたにも、実家がどこだか教えてないくらい、自分ちが田舎なの、嫌がっているの。大きな農家なのにね。田舎者ほど田舎を嫌う。

 山がね、ずうっと続いている、ここから、ずうっと東の方へ行ったとこ。そこがあの人の生まれたとこ。山と田んぼ以外、なんにもない。

 あんたも想像がつかないでしょう。山と田んぼしかないなんて。あんただって街中の生まれだからね。あたしだってそう。

 けどね、ある日ね、あの人、お祭りで来ていた屋台の人に、別嬪だって、器量よしだって、褒められたの。

 それまでも村一番の美人だって言われていたけれど、狭い村の中だけのことだし、そこまでは自惚れていなかった。でも、色んな村を、それこそこのあたりみたいな都会にだって行っている人に褒められたっていうのが、調子づかせたみたい。とにかく自分の容姿にだけは、自信がついた。

 だから、その翌日に、この街に来た。

 都会に出てきて思い知ったのは、やっぱり自分なんかより綺麗な人は沢山いるってこと。

 田舎じゃあ都会の流行なんて知らないし、自分が垢抜けないことに気づいた。それでちょっぴり意気消沈しちゃったのだけれど、そのまま帰る、なんてわけにはいかない。村の人達への意地もある。

 頼る親戚なんてないし、知っている人もいない。途方に暮れてぶらぶら歩いていたら、たまたま駅前にあったカフェで、女給さんを募集している張り紙をみつけた。そこに飛び込んで行って、「雇って下さい」って。

 勢いよく下げた頭を恐る恐る上げた途端、あの人の美貌に、そこの店主が一目惚れ。

 そこでまた、自惚れたわけ。

 その場で採用した雇い主の方があの人を、ちやほやしちゃって。どっちが給金払っているのかわかりゃしない。

 それで評判が立っちゃった。あそこの女給さんは、駅前じゃ一番の美人だって。店主が太鼓判を押しているって。

 それから何年か経って、チイ兄ちゃん、たまたま入ったその店の、あの人のこと、すっかり気に入っちゃってねえ。こっちもこっちで一目惚れだから、店主と色々もめてしまってね。でもカフェの店主は女房持ちだった。

 あの人も、ちょうどいいのが見つかったって思った。カフェの店主とじゃ、惚れられたからって、地にも落ちない扱いだからって、よくて愛人。囲われ者でしかない。チイ兄ちゃんなら奥さんになれる。だから、すぐにチイ兄ちゃんと結婚することにした。

 チイ兄ちゃんも気が短いから、式を挙げるまで、早かったなあ。

 住むところを探すのが、思ったより大変だったけど。

 あたしは、実は、期待していた。あの人に。

 ダイ兄ちゃんの嫁ときたら、ごうつくばりで、あたしがいつまでも嫁に行かないって言って、虐めるの。酒屋で働いた給金も全部取り上げられていたし。

 けどまだあたし、そのとき十四だった。そりゃあんたは十五でダイ兄ちゃんの嫁に来たのだろうけれど、小姑っていうだけで、そんな扱いを受ける理由なんて全然ない。

 母ちゃんの目、盗んで、ちくちくちくちく、厭味たっぷりに虐めるの。

 お昼のお弁当のおにぎりに、縫い針が入っていたこともあった。それ以来、いらないって、絶対作らせなかったけど。

 だからチイ兄ちゃんのお嫁さんは、優しい人だといいなって、思っていた。ダイ兄ちゃんの嫁と違って、美人だって聞いた時から、期待、していた。

 この家が見つかる前に、一度うちに挨拶に来たの、あの人。そのときは、綺麗な人だなって、素直に思った。

 仕草のひとつひとつに、とても色気があって、あたしなんかでもぼうっと見惚れちゃうくらい。襟足の白いのがまた、とても眩しかった。

 憧れのお姉さんが、あたしにもできるのだって、正直、嬉しかった。

 けどその夜、チイ兄ちゃんと、父ちゃん達が、もめているとこ、偶然聞いちゃったの。あの人が、チイ兄ちゃんより年上だっていうのが、父ちゃん達は気に入らなかったみたい。

 でもあたしは、綺麗で優しいお姉さんが欲しかったから、絶対チイ兄ちゃんにはあの人と結婚してもらいたかった。だからこの家を探すのも、あたしも一緒になって手伝って、チイ兄ちゃんとあの人は、なんとか結婚できることになった。

 式は、そう。あそこで挙げた。あの有名な神社。あたしもあそこで結婚式、したかったな。

 あの人は、そりゃもう、三国一の花嫁って、きっとああいうのだろうって、絵に描いたように綺麗なお嫁さんだった。写真だってあるよ。今度、あの人に見せてもらいな。

 それでね、あたしもね、この家を探すのを手伝ったし、チイ兄ちゃんに、ダイ兄ちゃんのお嫁さんの虐めの話をしたらね、一緒に住もうってことになった。

 この家ってさ、坪庭を挟んでいるから、二階が繋がっていないでしょう。だから、奥の方はあたしが使っていいって。

 もう、あたし、嬉しくってね。

 綺麗なお姉さんと一緒に住めるのだって。

 一応、酒屋の給金は、お家賃ってことで少しチイ兄ちゃんに渡すことにしたのだけれど、チイ兄ちゃんは、それも貯金していてくれた。あたしがお嫁に行くときに持って行きなさい、って。チイ兄ちゃん、お金に関してはしっかりしているから。貯金も沢山あるのだけれど、相場で大金を当ててね。この家も、大家さんから買い取った。

 それでもう、誰にも遠慮しなくてもいいからって。でもやっぱり悪いから、お家賃は少し取って下さいって、あたし、お願いした。

 そのくらいの頃まではね、あの人も、何も言わないでにこにこしていてね。いい人だと思っていた。

 まあ、チイ兄ちゃんが、大事に大事にしていたからね。何をするにもあの人が一番で、初物を手に入れたからって、一番先に食べさせるのは、いつもあの人。縁起物をもらったからって、一番先に見せるのは、まずあの人。

 双眼鏡を買った時だったかなあ。夜に月を見るとすごく綺麗だって、表に出てあの人だけを呼んでいた。

 ベタ惚れだったから、仕方ないとは思う。あたしなんて、ただの妹だし。

 けどちょっと寂しかったなあ。

 だから、今のお嫁さんもそう思うのじゃあないかなあ。

 あっちゃんも、何をするにも一番初めはあの人だものねえ。お母さん、お母さんって。

 自分に子供がいるような歳になっても、自分のお母さんが一番だなんて、そりゃあ、お嫁さんだって面白くないわ。同情しちゃうなあ。

 そうやって周りがちやほやするから、あの人、ますますつけ上がった。

 暫く不景気が続いていて、世の中は悪い方へ悪い方へ転がっていったけど、うちにはチイ兄ちゃんのお金があるから、そこまで苦しくはなかったの。

 せっちゃんが生まれて、あっちゃんが生まれた。その頃くらいからかなあ。戦争が始まって、それでチイ兄ちゃんにも赤紙が来た。

 チイ兄ちゃんは、あの人と子供達のことを心配していた。置いていくのが辛いって。

 あの人、美人だからね。他の男にとられるとか、思ったのじゃないかなあ。

 あの人、子供がいたって全然変わっていなかった。それどころか益々綺麗になっていくばっかりだった。

 チイ兄ちゃんが、あの人が欲しいって言ったもの全部買ってあげていたから、それはもう高級な着物やら、外国の化粧品やら、とにかくあの人の部屋はそんなもので埋まっていた。

 あんたも知っているでしょう。あの人の衣装部屋。

 ああ、知らないか。だってこの家とは別に借りている部屋だもの。衣装だけね、この家にはもう置いておくところがなくて。

 コンクリートで出来たアパート。

 そこ一杯に、箪笥やら葛籠やらがあって、足の踏み場もないくらい。こっちにはしおらしげに鏡台がひとつと、普段着の大島がいくつかしかないけど。

 そういえば、写真もあっちにあったかなあ。あの人ね、自分の顔に皺が増えていくのが許せないみたい。だから最近の写真とか、滅多に撮らないけど、撮ったら撮ったで、みいんなあっちの部屋に押しやっておく。

 鏡台で毎日自分の顔を、白粉で塗りたくっているのは、少しでも皺を隠すため。

 そりゃあ生きていれば皺のひとつもできるけれど、あたしなんか、ずうっと十九のまんま。

 そう、十九歳。

 チイ兄ちゃんが戦争に行っちゃうちょっと前だったけど、あたしに言い寄ってきた男がいた。真面目そうな話し口だったのだけど、暗い男でさあ、酒屋の常連だった。

 仕事帰りに小さな瓶を持って来て、それにいっぱいだけ、たまに買いに来ていた。世間話なんて滅多にしなかったのだけれど、あの店の酒蔵のお酒が一番好きだって言っていた。

 けどそんなのも、本当にたまにで、週に一度、買いに来るか来ないかで、そんなに沢山飲まない人みたいだった。それでも五合くらいは買う。五合なんて、瓶に入れている間なんて本当にすぐで、世間話をしている暇もない。

 大抵は酒屋の奥さんが天気の話とかして、それで終わり。あたしはその間に瓶をお酒でいっぱいにして、お代金もらって、おつりがいるときは渡して、それで終わり。

 いつも帽子を目深に被っていたから、顔もよく見えなかった。

 奥さんに話す言葉が、はっきりとしていて丁寧で、真面目な人なんだろうなあとは思ったけど、そんな風だから、顔なんて覚えられなかった。勿論、名前だって知らなかった。

 お休みの日に、街中をぶらぶらしていたら、いきなり声をかけられて、誰かと思って振り返ったら、その男だった。

 そんなところで話しかけられるなんて思ってもみなかったから、びっくりした。酒屋に来る客だなんて最初は気づかなくって、道でも訊かれるのだろうかと思ったら、「こんにちは、今日はお休みですか」って。

 あたしは「はあ」みたいないい加減な返事をした。それから暫く世間話をしたのだけれど、別れ際にいきなり「いつも綺麗な人だなあと思っていました」って言って、男は足早に去っていった。

 そのとき漸く酒屋の客だって思い出した。あたしのこと、綺麗だって、そんなこと言ってくれたのは、初めての人だったけれど。

 次にそいつが酒屋に来たとき、たまたま奥さんがいなくって、あたしひとりがそいつに対応した。

 だから「この間はあたしのことなんかを綺麗だって言われましたけど、あたしの下の兄さんのお嫁さんなんか、もっとずっと綺麗ですよ」って言った。けど男は、「私はあなたのお兄さんのお嫁さんを知らないけれど、あなたの方がずっと綺麗だと思います」って言った。惚れた欲目ってやつよ。相手のことがよく見えてない。

「あたしなんか、この街じゃ、何処にでもよくいる、普通の娘です。その証拠に、十九になっても嫁のもらい手もありません。だからこの酒屋でいまだに働いています。酒屋の旦那さんや奥さんは優しいし、うちの兄さんもお嫁さんも優しいし、兄さんの子供達も、綺麗なお嫁さんに似てとっても可愛らしいし、あたしはお嫁に行けなくても、充分、今のままで幸せです。いつまで経ってもお嫁さんにはなれないけれど、今のまま、幸せなままであたしは構いません」

「そんな寂しい事は言わないで下さい。私なら、あなたを、今よりもっと幸せにする自信があります」

 真面目な人だったから、あたしが冗談を言ったって、全然わかっていなかった。その上何か勘違いしたみたいで、あたしがあの人に虐められているって思いこんだ。おまけに、その酒屋にこき使われているとまで。だから自分に自信がなくって、十九になっても結婚も出来ず、ただ黙って働くしかないのだと。酒屋に、チイ兄ちゃんのお嫁さんに、無理矢理働かされているのだって。

 あたしは適当にあしらって、よくある客との世間話程度にすませたつもりで、その時は笑って誤魔化して男を帰らせたのだけれど、次に来たときからはもう、いきなり奥さんに、あたしと結婚するのだとか言い出しちゃった。

 奥さんは面食らって、あたし達が黙ってつきあっていたのかと言い出した。そんなわけはないって言ったのだけれど、あいつがあんまりにも真面目で真剣に話をするものだから、酒屋中にその話が広まって、いつ結婚するのかと、旦那さんにも奥の女中さん達にも訊かれ、酒蔵の杜氏さん達にも知れ渡っちゃって、あたしが毎日酒屋に顔を出す度に、まだかまだかとせっつかれるようになった。

 あいつは意気揚々と、毎日酒屋に来るようになって、あたしは段々居づらくなっていった。

 そのことを相談しようとした矢先、チイ兄ちゃんに赤紙が来たから、もうあたしのことなんか相談したって構ってもらえるような場合じゃない。親戚中に挨拶に回ったり、身の回りの物を揃えたり、準備に追われて大変だった。

 チイ兄ちゃんが行かなくちゃならない日までは間がなくて、そんなことでてんやわんやになっちゃって、あたしも手伝わなくちゃいけなくて、それで暫く酒屋を休むことにした。

 事情はちゃんと奥さんには話した。そうしたら、あいつの一方的な思いこみだってわかってくれて、それにチイ兄ちゃんの準備もあるし、丁度いいからってお休みもくれて、それだけは正直ほっとした。酒屋の奥さんはあたしのことをわかってくれた。

 チイ兄ちゃんを送り出したあと、あたし達はあの人と、子供達ふたりの四人で静かに暮らしていけると思っていた。せっちゃんもあっちゃんも、まだ小さかったから目が離せなくって、チイ兄ちゃんがいなくなってからは、あの人ひとりじゃちょっと大変かなと思った。あたしが手伝おうって思っていた。

 けど、あの人、まずは自分が綺麗になってからじゃないと子供達の世話を始めなかった。

 まあ綺麗になったところで、子供の世話なんてしていることはなかったのだけど。

 子供としては、きっと綺麗なお母さんを見るのは嬉しいのでしょうけれど、チイ兄ちゃんがいなくなってから初めて気づいたあたしには、まるで信じられなかった。

 お乳を欲しがって泣いている赤ちゃんを放っておいて、まず自分が綺麗にならなきゃ一日が始まらない人だったなんて。

 せっちゃんは、もう、小さい手で一生懸命箸を使って食べられる歳になっていたけれど、あっちゃんはまだお乳を飲んでいた。そのあっちゃんが、横でわんわん泣いていても、まったく知らん顔で鏡台に向かっているの。

 あたし、あんまりにもあっちゃんが泣くから、そのうちひきつけを起こすのじゃないかと心配になって、そうっとチイ兄ちゃん達の部屋を覗いた。そうしたら、あの人が、あっちゃんをほったらかして白粉を塗りたくっていたものだから、あたしは思わず障子を開けて「姉さん、あっちゃん泣いているよ」って言った。

「赤ん坊は泣くものよ」

 それだけ返事して、化粧の手を、あの人は休めない。鏡台に向かったまま、あたしの方を振り向きもしなかった。

 あたしは泣きやまないあっちゃんを見かねて抱き上げ、台所に走った。せっちゃんが、せっせとご飯を口に運んでいる隣にあった座布団に、あっちゃんを寝かすと急いで砂糖をお湯に溶かした。それを小さな匙で掬ってあっちゃんの口に持って行ってやると、待ちかねたように小さな舌を動かし始めた。

 茶碗の中身が空になって、あっちゃんがようやく落ち着いた頃、あの人は静かにやって来てあたしの隣に座った。

「ご飯、まだ?」

 せっちゃんの横であの人は、せっちゃんと同じように小さな子供みたいに、あたしに言った。

 酒屋の仕事は朝早かったし、お昼は奥のお女中さん達と一緒に食べていたから、うちの朝とお昼がどうなっているのかなんて、あたしはそのときまで知らなかった。確かに夜はあたしが作っていたけれど、それも一応は、ほら、居候の手前、何もしないってわけにはいかないからで。

 休みの日は大体遅くまで、あたしは寝ていたけれど、お昼頃って言ったらチイ兄ちゃんが帰ってきてご飯を食べていたから、一緒に何か作ったりした。ああ、そう、今も、ね。

 チイ兄ちゃんもあっちゃんも、ダイ兄ちゃんの仕事を手伝っているから、お昼に帰ってこられる所で働いているものね。あんたも何度か見に行ったでしょう。あそこ。

 だから、あんまり変だとも思わなかったのだけれど。よその家のご飯の事なんて、大抵は知らないものだし。

 だけど本当にびっくりした。あの人、自分が綺麗になったら、もうなんにもしない人だよ。掃除だってしないって、酒屋を何日も続けて休んで、初めて知った。

 全部、チイ兄ちゃんがやっていた。仕事の合間に家に帰って来て。

 本当にびっくりした。

 チイ兄ちゃんは相場で当ててお金があったから、もし家のことをあの人がしたくなかったのなら、お女中さんを雇うことだって出来たはずなのに、なんで雇わなかったのだろうって思った。自分でやらなくてもいいようにできたはずなのに。

 あとでわかったことだけど、それはダイ兄ちゃんのお嫁さんに気兼ねしたのだって。

 ダイ兄ちゃんのお嫁さんはごうつくばりで不器量だった。ただ家のことだけはとてもまめにきちんとしている人だったから、全部自分ひとりでやっていた。母ちゃんは、中気で寝たきりになった父ちゃんの世話で精一杯だったし。

 唯一、家事が出来る事だけが、あの人に対抗できる、自慢できるところだったから、あの人にお女中さんまでつけて、神棚に奉るみたいに、何から何までしてあげていたのじゃあ、長男の嫁の面目が丸つぶれじゃない。それに、ダイ兄ちゃんにも失礼だって、チイ兄ちゃんは思った。

 だから、お女中さんなんか雇ったら、すぐにダイ兄ちゃんにも知れちゃって、あのごうつくばりのお嫁さんが、またあたしを虐めるのじゃないかって、心配だったって。

 チイ兄ちゃん、あたしのこと、少しは考えてくれていたのだって嬉しかったけれど、そんなの、死んでから知ったって面白くもなんともなかったわ。

 それから。

 あたしは、せっちゃんとあっちゃんの世話もあって、酒屋に戻りにくくなった。二人とも連れて行って働くわけにもいかなかったけど、チイ兄ちゃんの置いていってくれたお金も結構あったから、あたしの少ない稼ぎなんか、もうどうでもよくなって、家のこと、なんにもしないあの人とでも、いてもいいかなって、思い始めていた。

 だってあの人、自分が綺麗になったら、ちょろっと朝ご飯をつまんで、そのまんま何処かにふらふらっと出かけていっちゃって、夜になっても全然帰ってこない。このご時世に、何処で遅くまで遊んでいるのだかしらないけれど、優雅なご身分よねえ。

 せっちゃんとあっちゃんは大人しくって、殆ど何にも病気とかしなくて、手の掛からない子達だったから、このままならずっと家にいてもいいかって、本気で思い始めていた。

 可愛い二人の面倒をみられるのなら、このままあの人がいない方が、この家で子供達とずっと三人だけでいられるのなら、むしろその方がいい。酒屋で働いて、あの変な男の顔を見なくちゃいけないくらいなら、うちにいた方がずうっといい。そう思っていた。

 そうしたら、ある日酒屋の奥さんが、ひょっこりうちにやって来た。もうあの人は朝ご飯をつまんで出かけて行っちゃった後だったから、奥さんをうちに上げた。せっちゃんは小さかったけれど、ちゃんと奥さんに挨拶をした。奥さんは自分に子供ができなかったからって言って、凄く羨ましそうにあたしを見た。

 あたしは現状を説明して、この子達の父親は戦争に行ったこと、母親は何処で何をしているのかわからないこと、そんなことを喋った。

 奥さんは、あの男のことでもあたしを理解してくれていたから、家のことを話してもちゃんとわかってくれて、それじゃあ仕方がない、もう暫く休みなさいって言ってくれた。

 お金に困ったら相談に来てもいいとまで言ってくれたけれど、それはないからって、あたしは笑った。

 翌日の晩、珍しくあの人は早くに帰ってきた。見知らぬ男の人と一緒だったけれど。

 「その人誰?」って訊いたら、「昨夜、家の周りをうろついているおかしな男がいた。怖いから送ってもらっただけ」そう言って、男の人だけを帰した。あの人からは、少しお酒の匂いがした。

 毎晩チイ兄ちゃん以外の男と遊んでいるのだと、その時わかった。可愛い子供達を放っておいて、自分は男と遊び歩いている。ほんとうに、どうしようもない女。

 あの人のあたしの評価は、一気に地に落ちて、それから二度と、戻ることはなかった。綺麗で優しいお姉さんには。

 次の日の夜は、また、いつものようにあの人は帰ってこなかった。もう子供達はとっくの昔に眠ってしまって、あたしもそろそろ寝ようかと、二階に上がろうと、そう思っていたら、玄関の戸を叩く音がした。

 あの人が帰ってきたのだと思って、誰なのか確認もせず、あたしは戸を開けた。

 あの男だった。酒屋のお客。

 男はあたしの腕を掴んだ。

「やめてください。何をするのですか」

 あたしは大声を出そうとしたのだけれど、すぐさま男の大きな手で口を押さえられ、そのまま外に引きずり出された。

 うちの辺りは今でも同じだけれど、こんなに家がひしめき合って建っているのに、大抵のうちが奥の方の部屋で眠っている所為で、玄関先や道路端で大声を出しても、そうそう物音は聞こえてこない。その上男の大きな手が、しっかりと私の口を塞いでいる。

 男の手は、焦っているのか、私の口だけでなく鼻までも塞ぐほどで、あたしは息苦しさに耐えかねて、手足をばたつかせた。

 あたしが苦しがっているのに気づいた男は手をはなし、大声を出さなければ乱暴はしないと言った。あたしは噎せながら大きく頷いた。

 男は裏の神社の林にあたしを連れて行った。子供達が気がかりなので、早く帰してくれと言うと、「もう一人、女がいるじゃあないか」と、怖い顔をして言った。

「あの人は夜遊びをしていて帰ってこない。あたしがいなければあの家には子供達だけになる」

「あれだけの器量よしなら男が放っておかないだろう。そりゃあ夜遊びも激しくなろうというものだ」

「あの人を知っているの?」

「私がたまに行く酒場で、色んな男に声をかけられていた。どんな男にも愛想良く、ついて行った。まるで商売女としか見えなかった。後家さんじゃあそうでもしなければ食っていけないのだろう」

「兄さんは戦争に行っただけ。あの人は後家さんじゃない」

「お前が酒屋で働かないから、あの女が男と寝て、食い扶持を稼いでいるのだろう」

「違う! あたしが子供達の面倒をみなければ、あの人はほったらかしなの。だから酒屋へ行けなかった」

「そうだ。お前がちっとも酒屋にいないから、私は仕方なく酒屋の奥さんの後をつけた。案の定、奥さんはお前の家へ行った。私がそうっと覗いたら、お前は子供の世話をしていた。結婚していないと言ったのは嘘だったな。二人も子供がいて。父親は戦争に行ったのか」

「話を聞いて!」

 あたしの手を強引に引いていく男の腕に、あたしは噛みついた。男は痛がってあたしをぶった。それでもあたしの手を、はなすことはなかった。

「そのうちに私の所へも赤紙は来る。お前がもうすでに他の男のものだと思うと、はらわたが煮えくりかえるが、初めてでもないのなら、こうしてもしまっても、私は罪には問われまい。悪いのはお前だ。姦通罪だ。赤紙が来るその前に、思いを果たす。私は正しいのだ」

 男は勝手な理屈を言って、あたしを押し倒し、のし掛かってきた。あたしはめちゃくちゃに手足を動かして、とにかく男から逃れようとした。けれど、いつの間にか男の大きな手はあたしの首にかかっていた。

 苦しくなって、気が遠くなって、それからどうなったのか、よく覚えていない。気がつくと、あたしはここに戻っていた。この家の台所にね。

 この冷蔵庫の下、昔は井戸があったのだって。すごく綺麗な湧き水が、この裏の神社の手水場に出ていたそうだから、同じ井戸だと思うのよ。だって、この井戸に住んでいたの、白い綺麗な蛇だった。

 あたしはその蛇から、色々聞いた。そのときはもう戦争も終わっていて、せっちゃんもお嫁に行った後だった。

 男はあたしを乱暴して殺した後、事の重大さに我に返った。そうして近くの派出所に自首した。

 男は旧家の長男で、男の親は信じられないくらいの金額の慰謝料を持って、あの人に、謝りに来たのだって。あたしの親に謝りに行ったのならまだわかるけど、なんでよりによってあの人なの? 一緒に住んでいただけなのに。

 裁判やら何やらが終わって、男が刑務所に入ってから謝罪に来たらしいけど、その時にはもうダイ兄ちゃんも戦争に行っていたし、父ちゃんはあたしが殺されたって聞いてすぐ死んじゃったし、大人の男は誰もうちにはいなくって、それでもあの人だけはあたしを可愛がっていたからって、盛大に一芝居打ったのよ。お金欲しさに。

 あれだけの綺麗な人が、可愛い妹が殺されましたってさめざめと泣けば、そりゃあ同情を集めるのもわかるわ。あたしだって可哀相だなあって思うもの。

 それであの人は、チイ兄ちゃんのお金と、男からの慰謝料で一財産できちゃった。母ちゃんも、もう父ちゃんの面倒を見ないでいいからって、小さいせっちゃんとあっちゃんの面倒を見るために、この家で一緒に住んだ。

 あの人の本性、母ちゃんは、一緒に暮らしてわかっちゃった。だけど子供達が不憫だからって、死ぬまで大人しく、あの人に顎で使われていた。

 井戸の白蛇はあたしが働いていた酒屋の井戸にも行って、酒屋の奥さんの様子も見てきてくれた。奥さんはあたしの話をわかってくれただけあって、あの人の本性を見抜いていた。だから、母ちゃんはあの人に殺されたようなものだって言っていたって。

 あたしは酒屋の奥さんの話を聞いたときに、この世に生きている人がひとりでも自分のことを理解してくれているのって、どれだけありがたいことなのだろうかと思った。それだけでもう成仏してもいいかなあと思ったのだけど。

 そうもいかなくなった。

 納戸のあれ、思い出したからね。

 あたし、生きている時も、一度、見ていた。夜、あたしが台所で片付け物をしていたら、二階からひとりで小さいせっちゃんが降りてきて、おしっこに行きたがったの。危ないからひとりじゃ行かせられないし、あたしもついていった。

 庭に出る前に、今日みたいに綺麗な満月だってわかったけど、明るかったから、納戸の戸も開いているのがわかった。あたしはどうして納戸の戸が開いているのか不思議に思った。普段は滅多に使わない方の戸、だったから。

 まず閉めてからせっちゃんをお便所に連れて行こうと思ったのだけど、その時、見えた。黒い、あれ。

 じっと隅の方で座っていた。

 あたしになんか目もくれず、ずっと、納戸の壁を睨んでいた。何がなんだかわかんなかったけど、あれ、あの人がここに置いたのだけはわかった。だって顔がそっくりだったのだもの、あの人に。

 あの人、とにかく自分のためだけに、自分だけが有利に生きられるように、あれに魂を売ったのね。苦労せず、お金にも食べ物にも着物にも住むところにも、なんにも困らずに生き続けられますようにって。そう願いを込めた。

 もうずっと、四十年もここに置いているの。

 白蛇は最初、納戸からあいつを追い出そうとしたそうなのだけれども、あの人に気づかれて、井戸に蓋をされて、何か力のある石を置かれたのだって。その上戦争が終わって暫くしたら、冷蔵庫まで置かれちゃったって言っていた。電化製品の下にいると、頭がおかしくなっちゃって、何も考えられなくなるのだって。

 それでもう、どうにもできなくなったのだけれど、あいにくと地下水脈は、裏の神社にも、あの酒屋にも続いていたから、それを通って、なんとかあたしを守ろうとしたみたい。

 あたしが納戸のあれを見たことを、白蛇は知っていたから。

 だからね、あんたも、納戸のあれを見たこと、あの人に言っちゃあ駄目だよ。殺されちゃうよ。

 あの人ね、あたしが納戸のあれを見たことに、気づいたの。あたしが気味悪いと思って、こっち側の戸、絶対に触ろうともしなくなったことで。

 それであたしのこと、殺そうと思ったのだって。そういうあの人の願いを、納戸のあれはすぐに叶えてくれるの。とても強いものだから、なんでも叶えてくれるのだって。

 今のお嫁さんも、何も言わないけれど、もしかしたら見たのかも知れない。ごめんね、あんたのお母さんだけれど、あたしはあんたのお母さんのことは守ってあげられない。あの人は、もっと別のところの人だから。

 あたし達にも白蛇にも、しちゃいけないことがある。特にあたしは、できないことがたくさんある。

 だけどあたしはあんたを、あたしと同じような目に遭わせて、怖い思いや悲しい思いを沢山経験させて、殺させるわけにはいかない。だから、きっとあたしの話をちゃんと聞いてくれるだろうあんたのことだけは、必ず守ってあげるから。

 いいね。絶対に、納戸のあれのことは、あの人に言っちゃ駄目だよ。

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