月夜

島村ゆに

第1話

 夜中に目が覚めることはよくあった。必ず、母に置いてきぼりにされる夢の所為だ。

 小さな橙色の電球の光の中で、たった今見たばかりの、母が弟だけを連れてタクシーに乗り込み、私は走り去る車を追いかけて、息を切らせて、痛くなった脇腹を押さえて、そうして遂に、追いつくことができなくなった、その夢を思い返す。涙が両の目から流れ落ちたが、泣き声は出なかった。

 怖くなって起き上がり、母が眠っているはずの右隣へ目をやると、そこにはちゃんと母が眠っていて、私はほっと胸をなで下ろし、また眠りにつく。そんな夜が何度もあった。

 その日も同じ夢で目が覚めた。流れた涙を拭ってから、静かに起き上がってみる。

 私の左隣には弟が眠っていた。長い睫毛がくるりと上に向かって巻いている。丸い、子供らしい寝顔。

 それを確認してから、右側へ目をやった。

 そこに、母の姿はなかった。

 いつも母が使っている布団の花柄のカバーが、橙色の電球の光の所為か、青白く見えた。私は飛び起きて、隣の部屋で寝ている父を起こそうと襖を開けた。父の姿もそこにはなかった。

 父の部屋には小さな電球はついていなかったので真っ暗なはずだったが、その日はちょうど満月で、カーテンを開けたままの父の寝室の窓からは、まるで昼間のように明るい月の光が差し込んでいた。

 私の影が父の布団に、墨のように落ちていた。

 私は、どうしたらいいのかわからなくなった。

 暫くそこに立ちつくしていると、玄関の方から私の名前を呼ぶ声がした。

 私が子供の頃住んでいた家は、俗に言う鰻の寝床と呼ばれる形式で、玄関から寝室まではかなりの距離があった。玄関先で名前を呼んでも、奥の部屋の、ましてや二階にまで声が聞こえるわけなどないと、大人になった今でなら理解できるのだが、その時はまだ、わからなかった。ただ、玄関の方で私の名前を呼ばれたのだと、そう思った。

 玄関側の二階には祖父母の部屋がある。そうか、祖母が呼んでいるのかもしれない。女の声だった。

 両親の姿がないとなれば、子供の私が頼れるものは、この家にただ、祖父母だけになる。祖母に訴えればどうにかしてくれるのかもしれない。怖い夢をみた、と言って子供らしく泣けば慰めてくれるかもしれない。

 慰めてはくれないにしても、ともかくこの恐怖をどうにかしなければ、このあと眠れるものかどうかもわからない。

 祖母はけして、子供が喜ぶようなことをしてはくれないが、私は祖母の使っている化粧品の匂いが好きだった。わざわざ化粧品の空き瓶をもらって、それを大切にしまいこみ、時々、その蓋を開けて匂いを楽しんだ。だがその空き瓶は、母に見つかるとすぐに捨てられた。

 祖母に会って、その匂いに触れられれば、恐怖心が抜け去って、落ち着いて眠ることができるかもしれない。

 私は父の寝室から飛び出した。

 古い二階建ての日本家屋だった我が家には、奥と玄関近くの二カ所に階段があった。奥の階段は私たち親子の寝室に繋がり、玄関近くの階段は祖父母の寝室に繋がっていた。同じ二階なのにそのままお互いの部屋へ行くことはできない。何故なら、吹き抜けのようになった坪庭が、お互いの部屋を仕切っているからだ。

 夜になれば一階には誰もいなくなるので、階段を下りるのでさえも、子供の私には怖かった。

 だが、少しは楽しみもあった。坪庭で鳴く虫の声を、私は気に入っていた。

 坪庭の縁の下には、鈴虫がいた。毎年必ず鳴き始めるので、その頃には夜中になっても一階にいるのが怖くはなかった。

 それを思い出し、思い切って階段を下りようと思った。階段にある小さな切り取り窓から月明かりが落ちて、電灯をつけなくても階段を降りられた。冷たい木の感触が、裸足の足の裏にあった。

 ギシギシと鳴る階段を降りきったところで、また、名前を呼ばれた。暗い廊下の先を見ると、途中にある坪庭の白い敷石が、月明かりに浮かび上がっていた。誰かそのあたりで、私を呼んでいる気がする。

 鈴虫が、私を呼んでいるのかもしれない。

 私は階段と同じ、ギシギシと鳴る古い廊下を、玄関の方へ向かった。その間、四畳半の畳の部屋と、二畳の板の間の、開けっ放しの障子から部屋の中を覗いてみたが、中は真っ暗で誰もいなかった。古い柱時計がコチコチと鳴っていた。

 二つの部屋の間にある坪庭は、しんと静まりかえっていた。蟋蟀も、鈴虫も、鳴いてはいなかった。

 板の間の角を曲がると、祖父母の部屋に続く階段がある。その横が玄関。

 そこまで行けば誰かがいるだろうかと思ったが、玄関も真っ暗で、ここにも誰もいなかった。だが確かに、玄関で私を呼ぶ声がしたと思う。

 もしかして、二階にいる祖母の声が、玄関の土間に反響して、玄関から呼んでいるように聞こえたのかもしれない。そうだ、とにかく、祖母の、あの、化粧品の匂いを嗅がないと、私は今夜、眠ることができない。

 止めていた足を動かして、祖父母の部屋へと続く階段を上った。この階段は、ギシギシという音がしなかった。奥の階段と同じ、古びた黒い、木でできた階段なのに。

 上がりきったところで正面の障子を、私は思いっきり開いた。そこに眠っているはずの祖父母の姿を期待した。しかし祖父母も、両親同様、そこにはいなかった。いつも並んでいる布団が二組、使われてもいない様子で綺麗に並んでいるだけだった。

 坪庭側の窓から、月明かりが室内を、白く浮かび上がらせていた。


「みづきちゃん」

 何度目かの私を呼ぶ声に、ようやく体が動いた。私は祖父母の部屋を後にした。

 玄関先で呼ばれているような気がしたが、私を呼んでいた人は、台所にいた。一階の一番奥にある、土間の台所。

 私は廊下に腰掛けて、台所用に置いてあるサンダルに足を突っ込んだ。そうして冷蔵庫の前まで行った。

 するり、と、白い腕が、私の肩にかかった。

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