厄日

新樫 樹

 厄日

 冷たい水滴がほほに落ち、気が付くとそこは見たことのない場所だった。

 体中が痛い。

 何がどうなったんだっけ…。たしか近所のコンビニで弁当を買って帰る途中だったはずだ。1人ぐらしの、せまいながらもいごこちのいい部屋で、特製ジャンボステーキ弁当をさかなに本格生ビールを飲む予定だったはずだ。

 特に痛む後ろ頭をさすろうとしてぎょっとする。

 身体中をロープでぐるぐる巻きにされているのが目に入ったからだ。

「やっと気づいたか」

 すると少し離れた場所から声がした。

 同時にこちらに向かって歩いてくる。

「さて、教えてもらおうか」

 声はひとつだが、歩いてくる靴音は数人のものだった。

 いかにもガラの悪そうな声、いかにも恐ろしいことがありそうな廃墟。

 どこもかしこも危険な予感しかしない。

 一体なにが起きているのかわからないが、頭の中には昨夜みたサスペンスドラマが浮かんでいた。そういえばあの誘拐された男はどうなったんだっけ…。

「おい、おまえが例のブツのありかを知っているのはわかってるんだ。素直に言えばそれでよし、そうでなけりゃ言いたくなるようにしてやるが、どっちがいい?」

 やっぱり台詞まであのドラマみたいだ。

 人間っていうのはパニックを起こすと、どうでもいいようなことばかり考えてしまうことを知る。

 とにかく、人間違いだってこと言わなくては。

「あの、人間違いじゃないですか? オレ、ふつうに会社員だし…」

「あ? へぇ。人間違いねぇ。言いたくしてやるしかねぇみたいだな」

 ボキッと骨を鳴らす音がして、靴音がさらに近づいてくる。

 冗談じゃない。 人間違いで殺されてたまるかっ!

 そうは思っても、いったいどうすりゃいいのか見当もつかない。

 でも何かしてもしなくても、ひどい目に合いそうなのは確かだ。

 変な汗がひっきりなしに流れてきて、頭がぐらぐらする。

 ああ、せめて特製ジャンボステーキ弁当を食べたかった…じゃない。そうじゃない。まだ何もしてない人生なのに、こんなとこで死ねるかよ!

 そのとき。

 不思議なことが起こった。

 頭の中で何かがブチっと切れたような気がして、すっと言葉が出た。

「…別に教えてもいいんだけどさ、教えたら殺されるじゃん。そんなのフェアーじゃねぇよなぁ」

「なんだと?」

 ああ、わかった。これ、昨日のサスペンスの主人公のセリフだ。

 高校時代の演劇部魂が、こんなとこで顔を出すとは。我ながらトホホだが、もうこうなったらヤケだ。やるしかない。

「人縛っておいて、情報よこせってどういうこと?」

「こいつ…」

「待て。…わかった。おい、こいつのロープを解け」

 向かってこようとした男を、どうやらボスらしい男が止めると指示を出す。

 乱暴に、けれどもあっさりとロープは外された。

 こすれて痛む手をさすり、さっきなでようとした後ろ頭をさする。

「さ、これでいいだろう」

 言ったのはボスの方だ。

 とにかく、逃げなくては。ええと、昨夜のサスペンスは…

「悪いけどオレは何も知らない」

「ほぅ。私が聞いている報告とは違ってるようだが」

「じゃあ、あんたの部下が間違ったんだろ」

「ブツはどこにある? お前が持ち出したことはわかってる」

「だから、知らないって。オレみたいな下っ端に、大事なもん預けるわけないじゃん」

 いいながら、ちらりと横を見る。

 持ってたコンビニの袋が近くにある。

 転がっていた缶をそっと引き寄せたところで、ボスはどうやら袋の存在に気付いたらしかった。

「おい、その袋を持ってこい」

 思った通りボスが言い、男がビニール袋を持ち去ると、すぐに中をさぐる音がした。

「…ボス、弁当とスナック菓子があるだけですぜ」

「だから言ったろ、オレは知らないって」

「どうやら痛い目をみないとわからないらしいな」

「そっちは、オレがどれだけ言ってもわからないらしいけど?」

「コノヤローっ」

 数人の男たちが向かってくるのが見えた瞬間、オレは後ろに隠していた缶を思い切り振ってプルタブを引き上げた。

「うわっ」

「なにしやがる」

 派手に噴き出したビールをまともに顔に食らって、男たちがいっせいに手で目をおおう。

 やったことはないが、ビールが目に入るとかなり痛いらしいのは知っていた。

 口々にわめく男たちの間をすり抜けて、オレは全力で走った。

 一度も後ろを向くことなく、人の多い方多い方と逃げ抜き、一気ににぎやかな駅前までたどり着く。

 ぜいぜいと息をつきながらそっと振り向いたが、追ってくる男たちはいなかった。

 あれから数か月が経つが、オレはごく平穏な毎日を過ごしている。

 飲みながら友達に冗談めかしてあの時の話をすることがあるが誰も信じないし、オレ自身もひょっとしたら夢だったんじゃないかと思ったりする。

 でも、あのコンビニには行かなくなったし、なんとなくビールは飲めなくなった。

 最近のお気に入りの焼酎ロックを飲みながら、ドラマじゃあるまいしンなことあるわけねぇだろと言う友達に、だよなーと返事して苦笑する。

 臨時ニュースでやっていた、麻薬売買で逮捕された男たちの顔が、なんとなくあのときのやつらに似ているような気がしたが、それも今となってはよくわからない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

厄日 新樫 樹 @arakashi-itsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ