朝霧の廃人と猫

綿貫むじな

朝霧の廃人と猫

 どれくらいおれはここにいるのだろう。もう何日ここで暮らしているのか忘れてしまった。木の板にナイフで傷をつけて日にちを記録していたが、傷をつける場所すら無くなってしまったからそれも辞めてしまった。

 おれは今、辛うじて寒さをしのげる程度のボロい衣服しかまとっていない。どうしてこんなザマなのかすら覚えちゃいない。この状態で寝ころんでいたら誰かに蹴飛ばされそうだ。


 おれは自分が何者なのかまるで覚えていない。


 俗に言う記憶喪失というやつで、ここにたどり着く前の記憶が全くない。記憶を手繰る手がかりとしては、おれが腰にぶら下げていた立派で大振りなナイフと、手のひらに入っている三日月の入れ墨くらいだ。身分を証明するものは何もない。

 おれは、ここがどこなのかはまだわかる。倉庫街だ。

 海に面していて、船での物流が盛んな地域。倉庫街は海から少し離れているが、それでも潮風の影響を受けるため、こまめにリフォームしないと建物はすぐに錆びていく。使われなくなった倉庫はあっという間に朽ちていく。おれはそういう廃倉庫を勝手に根城にして住んでいる。ボロ布をまとったクズに似合いのボロい倉庫。至る所が老朽化してトタン屋根もボロボロで穴が至る箇所に開いている。建物を支える鉄骨もサビて朽ち果てるのを待っている。

 ホコリで汚れた窓から差し込んでくる光で、今が朝だというのに気づいた。

 まだ早朝と言っていいくらいの時間帯で、忙しく原付バイクの音が鳴り響いているのが聞こえてくる。ご苦労なこった。

 おれはコンクリートの地面に段ボールをひいてその上に薄い毛布を敷いて寝ていた。一応上にもボロ布のような毛布を何枚も重ね掛けしているが、これで寒さがすべてしのげるわけではない。夜の寒さが厳しい時には寒さをしのぐ為に市場から盗んできた唐辛子をかじり、アルコール度数が極めて高いウォッカをごく少量だけ飲む。それで何とかこの冬もしのいできた。そろそろ春も近づき、空気が緩んできているのは幸いな事だ。

 

 このボロい倉庫の中には山ほどネズミがいる。どうやら巣があるようで、人間様であるおれを全く気にも留めず、自分たちが主だと言わんばかりに悠然と振る舞っている。しかし、この朝の時間帯だけは別だ。

 彼らは決まってこの時間帯にやってくる。鋭い眼光と爪を持った小さきハンター。姿を現せば、ネズミたちは途端に混乱の極みに達する。

 今日もそろそろ姿を見せる頃だろう。

 そう思っていると、倉庫のトタン壁の穴が開いた箇所からするりと姿を現した。

 今日はひとりか。

 茶トラ柄の猫。片目が傷ついて失明している。小柄だが動きは鋭く、今日もあっという間にネズミを三匹仕留めて朝食にしている。

 猫もおれを全く気に留めずにネズミを食っている。その様子を見て、なんだかおれも腹が減ってきたがあいにく食料と言えるものは唐辛子の実が五個とウォッカだけ。

 しかたがないので食料が保管されている倉庫に行って、少しばかり食料を失敬する。そのまま食える缶詰やパン、もし干し肉なんかがあれば上等だ。

 

 のろのろと布団から起き出して、外から引っ張って来た水道の蛇口を捻って顔を洗う。ガス給湯器による温水なんて贅沢なものはもちろんないから冷たさに身を震わせながら顔を洗う。本来ならついでに体も洗うところだが寒いのでパス。もう一週間も体を洗っていない。そのうち燃料を手に入れてお湯を作って体を洗いたい。できれば風呂に入りたいがそれもまた贅沢。

 顔を洗ったおかげで多少は気分が良くなったが、空腹は相変わらず。早速おれの根城から外へ出る為に倉庫の裏口へと向かう。猫が出入りする穴ぼこの隣に通風孔があり、おれはいつもそこから出入りしている。

 

 外に出れば、白い霧がもうもうと立ち込めていた。一メートル前がやっと見えるかどうか。今の時期になると良く朝と夕方に発生する。

 でもこの辺の地理はよく把握しているから、すぐに食料倉庫には辿りつけた。

 昨日何かしらの入庫があったのは確認している。

 ここも通風孔から入る。中に入ると、思った通りたくさんの品物が倉庫いっぱいになるまでに詰め込まれていた。

 思わず笑みがこぼれる。コンテナの鍵なんかはおれのピッキングツールで楽に開けられる。これは宝探しに等しい行為だ。

 めぼしいものを紙袋に突っ込み、おれは再び通風孔を通って外に出る。いくぶんか霧が晴れて、視界も良くなってきた。

 根城に戻って朝食を取る。猫は既にいなくなっていた。ご丁寧におれの分のネズミ一匹だけ残していた。食わねえけど。

 

 缶詰やパン、ミネラルウォーターの食事を取っておれは再び布団に寝ころぶ。

 昨日は寒かった。途中寒さで何度も目覚める羽目になり、そのたびに唐辛子を齧ってはウォッカを口にして何とかやり過ごすという事を何度もやっていたせいで眠気が俺の体にまとわりついて離れようとしない。

 昼まで寝るとしよう。昼まで。

 おれは体を粗末な寝床に体を横たえて、目を瞑った……。



* * * * *



 おれはその日、依頼をこなす為にとある大資産家の邸宅に赴いていた。が、依頼のブッキングがあったらしい。先客があらかた中にいる人々を片付けてしまっていて、おれがやるべき仕事がほとんどなくなっていた。

 その依頼内容というのは、邸宅の人々を皆殺しにするというものだ。よっぽどこの資産家とやらは恨みを買っていたらしい。床に倒れている執事やらメイドやら、使用人には罪はないだろうに巻き込まれて可哀想だな。肝心の資産家本人がここに居ないと言う事は情報を事前に察知して逃げだしたのだろう。

 その事を依頼人に告げると、とにかく出来るだけの人を殺せという命令が返って来たのでおれは渋々ながらこの邸宅を歩いているのだが何しろ広い。広すぎてどこからどこまで歩けばいいのかうんざりしてくる。

 手持ちの地図で片っ端から歩いた部屋をマークして潰して、また部屋を歩いてというのを繰り返してはや数時間。空は薄く明るくなってきている。そろそろ撤退しなくては不味い時間帯になっている中で、最後の一つの部屋にたどり着いた。

 部屋の中に入ると、かわいいぬいぐるみやフィギュア、ポップでキッチュなおもちゃで彩られている。本棚には少女向けのコミックや小説が置いてある。どうやら娘の部屋らしい。

 布団を荒くめくる。誰も居ない。

 クローゼットを勢いよく開ける。これでもかとお洒落で可愛い? 服が詰め込まれている。乱暴に服を部屋にばらまきつつ中に誰かが隠れていないかを探す。誰も居ない。

 あと隠れられそうな場所と言えば、ベッドの下くらいなものだ。

 おれは懐中電灯を点け、ベッドの下を照らす。

 そうすると人影が見えた。まだ十歳くらいだろうか。金髪のボブカットでパジャマを着た少女が、涙を溜めた瞳でこちらを見ている。ぬいぐるみを抱えて、がたがた震えている。

 おれは少女の手を握り、引っ張り出した。


「いやーっ!! パパ、ママ! たすけて!!」


 耳がつんざけるような大きい声で叫ぶ。しかしその声で人が来る事はない。

 おれは少女の顎を左手で掴んで上げる。


「……」


 おれは腰に装備していたナイフを抜く。鈍い輝きが、ぬらりと放たれる。

 その刃を見て、彼女は声を上げるのを止めた。殺される恐怖に襲われて声すらあげられなくなった。

 溜まっていた涙が、不意に頬を伝っておれの手のひらの入れ墨に落ちた。

 

 ……暖かい。


 おれの中の何かが削がれた気がした。

 ナイフを腰のポーチにしまい、少女を離す。てっきり殺されると思っていた彼女はきょとんとした瞳でこちらを見ている。

 

「いますぐ警察かパパにでも連絡するんだな。携帯くらい手元にあるだろ」


 おれは何を言っているんだ。勝手に口から言葉が滑っていくが止まらない。


「そして、連絡したらそいつらが来るまで部屋から出るな。いいか、決して出てはならない。決してだ」


 そしておれは、窓から飛び出してこの場から逃げた。

 依頼もクソも無い、完全にやっちまった行動をしている。何をトチ狂ってこんな事をしでかした?

 案の定、依頼人からはガーガー文句を言われているし、たぶんこれでおれは終わりだろう。

 くそったれ。すべてがどうにでもなれだ。




* * * * *


 

 おれは目を覚ました。

 いつの間にか夜になっている。昼まで寝るつもりだったのに寝すぎた。

 汚れた窓から月が顔をのぞかせている。今見た夢と同じ、三日月が。おれのてのひらに刻み込まれている同じ形の月。

 奇妙な夢だった。

 おれが仕事で家に入り込んで、ナイフを持って……少女を殺そうとしていた。顎を上げた感触が左手に未だに残っている。そして涙の暖かさも。

 そういえばあのナイフは、おれが持っているものに酷似しているような気がする……いや、そんなはずはない。おれみたいな臆病者が、あんな殺戮が行われた家に入れるものか。残虐な行為に走ろうとできるもんか。

 おれは手のひらの三日月と空に輝く三日月を見比べた。おれの手のひらはがさがさでくすんでいる。空にある月は青白く病的な光を放っている。あの時とまるで同じような……。


 (何故思い出す。意識に鍵を掛けろ)


 何故だか強烈な拒否感を覚えて、急に吐き気を催して、おれは吐いた。壁に吐しゃ物をぶちまけた。次に、口の中に耐えがたいほどの苦みが生じる。胃酸とも違う。

 何か、植物のエグ味のようなもの近い感じ。強烈なもので舌を麻痺させて何も感じなくなる程のエグさ。水で口をゆすいでもそれはしばらく残って不快感を生じさせる。

 そして更に、おれの体中に生じる疲労感。人がまとわりついて離れずにひきずっているような感覚を覚える。いや、実際に見える。人が、血まみれの人がおれの足を掴んで離さないんだ。おれを恨みがましい目で見ている。そんな目でみるんじゃねえ!

 叫ぶ。呻く。転げまわる。幻覚だと薄々理解はしているが肉体の一部である目が認識している限りそれは存在しているに等しい。振り払おうにも実在はしないのだから手が幻影を素通りするだけなのだが。

 結局おれは、この幻影と転げまわっているうちに朝を迎えてしまった。

 

 朝。霧が立ち込める倉庫街。疲労感。

 さんざん一人で踊りまわったせいで、せっかく眠って回復した体力を消耗してしまった。畜生。

 今日は何をしようか。といっても何をするあてもない。食料の調達は昨日行ったので他にやるべき事はなにもない。

 いつものように猫とネズミの追いかけっこを朝は楽しみ、食事風景を見るまでがワンセット。そしておれの横に獲物一匹だけ残して去る猫。今日の猫は黒猫だった。

 今日も良い天気だ。

 倉庫街はにわかに活気づいている。もっともこの廃倉庫に近づいてくる人は居ないが。

 夢の内容を反芻しながら、右手で腰のナイフを抜いて光にさらしてみる。相変わらずの鈍い輝きを放っている。夢と同じような、輝き。見ていると何か意識を吸い込まれそうな気がする。ずっと見つめていたら常軌を逸しそうな気がする。腰のナイフポーチにしまいこんだ。

 やることがないなら寝るだけだ。ちょうど昨日の夜暴れまわったせいで良い感じに疲れている。

 昨日と同じように、粗末な寝床にごろりと転がった。昼までの仮眠だ。今度こそ昼に起きる。

 決意を新たに、おれは目を瞑った。

 



* * * * *



 

 ……遠くから聞こえてくる。何かを叩いている音。鈍い音。金属と金属を激しく叩いている音が、聞こえている。それは確実に大きくなってきている。

 両手にはナイフを持っている。それも果物ナイフのようなちゃちなモノじゃなく、戦場やサバイバル状況で使われるような大振りで肉厚な刃を持つナイフ。

 何故こんなものを持っている?

 疑問をよく考える暇もなく、目の前に何かが現れた。

 二つの影。よくよく周囲を見渡してみれば真っ暗で常人なら何も見えない闇の中におれはいた。なぜおれは、こんな暗闇の中でも良く見えるというのだ?

 視覚以外の感覚も鋭敏になっている。

 こちらに向かってくる相手の足音、息遣い、心臓の鼓動までもが聞こえる。少しやかましいくらいだ。

 相手が動くことによって生じる空気の流れ。服越しでもそれが伝わってくる。

 匂い。二人のうち片方は多少緊張している。もう一人は極めて冷静。ここに自然物はない。コンクリートや鉄筋の無機質な匂い。そしておれの匂い。懐に入れている煙草の匂いが、妙に鼻につく。

 味覚だけが狂っている。口の中が苦みでいっぱいだ。おれはなにか変な草でも食ったのだろうかと思うほどだ。何も気にするなと言われたがこればかりは辟易する。……誰に言われた? それを。

 気づけば相手は、おれを挟み込もうとする動きをしていた。一人は拳銃を持ち、もう一人はおれと同じナイフ使いのようだ。だがナタのように刃が極端に大きく湾曲している。あれはたぶん山岳地帯の傭兵部隊が良く使っている奴だ。

 銃持ちが引き金を引こうとするのを見て、おれはとっさに左腕のナイフを投げた。自分がそうしようと思う前に体が既に動いていた。ナイフは相手の頭に刺さり、そのまま膝をついて倒れて血だまりができる。

 ナイフ使いは倒れた仲間を省みず、そのままおれにじりじりと近づいてくる。はじめからそうなる事がわかっていたかのように。

 お互いにナイフを相手につきつけながら対峙する。

 どちらが先に動くか。二人ともタイミングを見計らっている。

 先に動いたのは相手の方だった。

 ナイフを振りかぶっての袈裟切り。おれが後ろに下がると、ナイフを振った手首を返して今度は下から振り上げてくる。どちらも予備動作が非常に少なく見極めづらい。服にかすっただけで、鋭利な刃は生地を切り裂く。

 おれは神経を研ぎ澄ませる。相手の行動だけに集中する。そうして相手を注視しているうちに、スローモーションに見えてくる。

 何もかもが見える。ナイフの刃の鈍い輝きも、相手の筋肉の動きも、そして思考すらも見えるような錯覚を起こす。

 次に何をするかもおれには見えていた。

 突き。袈裟切り。横に薙ぎ払い。左足の前蹴り。そのまま踏み込んで肩口にナイフを突き立てようとする。

 次第に動作が大きくなるのを見計らって、相手がナイフを振りかぶる所を狙った。

 手首の内側を切る。切った。

 ナイフが手からこぼれ落ちて、床に落ちる。ごとりと金属の重い音が鳴り響くとともに、相手の手首から噴水のように血が溢れだした。床は朱に染まり、相手の顔はみるみるうちに青ざめる。それでもこちらの睨む瞳の色はまだ強い輝きを放っている。

 まだ戦意を失っていない。

 血を流しながらも、素手になりながらもそれでもこちらに向かってくる。何がそこまで突き動かす原動力なのか。疑問を持つ暇もない。

 その戦意を、思いを叩きつぶす。

 おれは相手に密着し、首を掻き切る。手首よりも更に血液が噴出する。

 口を金魚のようにパクパクと動かし、何かを言おうとしているように見える。そのまま血だまりに倒れて動かなくなった。

 集中が途切れ、時間感覚がもとに戻る。息が切れる。めまいもする。動悸が激しい。肩にのしかかってくる疲労感。ずっしりと重く、体を動かすことすら億劫に感じる。なんだ、これは。

 それに全く見えなくなった。今までは暗がりの中でも鮮明に見えていたというのに何故。

 おれは手探りで出口を探した。出口はほんの数十メートル先にあり、重い鉄のドアを体重を思い切りかけて開ける。そうして差し込んでくる光。

 これで外に出れたのだろうか。闇に慣れた目にはまだ光は眩しい。ようやく目が慣れて、そこに何があるのかを見た。台座。綱。ぶらぶらと揺れている何か。

 おれは声にならない悲鳴を上げた。

 吊り下げられた少女。首をくくられて、舌をだらしなく垂らしている。

 あの少女に似ている気がする。いや、そんなはずはない。あってたまるものか!!



* * * * *




 ……おれは再び、目を覚ました。冷や汗と脂汗をじっとりとかいている。気持ち悪い。

 既に日は傾き夕方になろうとしている。

 断片的な記憶。昨日から見ているのは恐らくそれだ。

 おれが何をしていたのかというおぼろげな記憶のピースがひとつひとつよみがえってきている、のか? もしそうだとしたら性質の悪い冗談に他ならない。

 悪魔のような事をおれはずっとしていたというのだろうか?

 今日は比較的暖かいというのに身震いが止まらない。


 おれはいったい何をしていた。

 おれはなぜそこに居た。

 おれはそこで何をみたんだ。


 思い出そうとすると途端に頭痛がしてくる。くそったれ。

 おれはいったい何者なんだ。

 ぽつりとつぶやいても応えてくれる奴は誰も居ない。

 おれの傍らにはいつの間にか猫がいる。三匹。茶トラ柄、黒猫、そしてハチワレ。

 それぞれが間隔を置いて木箱の上に陣取っておれを見下ろしている。

 猫はなぜおれのことをずっと見ているのだろう。聞いてみる。


「にゃあ」


 やはり返事はそれしか返ってこなかった。

 やがて三匹は違うタイミングであくびをして、目を瞑って眠りについた。

 猫がのんきに眠っている様を見て、何かこわばって張り詰めていたおれの神経がほぐれたような気がした。

 夜はすることが無い。昼間なら落ちていた雑誌や新聞なんかを読んで暇をつぶす事も出来るが灯りが無いと寝るしかやる事がなくなる。ロウソクは手元にあるがそれでここを火事にするのも馬鹿らしい。

 軽くコンビーフの缶詰とトマトピューレ缶詰を器に入れて混ぜ、乾パンを付けて食べる。味など知ったこっちゃない。とりあえず栄養さえ取れればいい。おれの舌はバカになっちまってる。あの苦みのせいで。

 空腹を満たして今日も無為に寝る。こんな生活をいつまで続ければいいのだろう。

 誰にもそんな事わかりゃしない。おれにわかるはずもない。粗末な寝具に寝ころんで汚れた窓から月を望む。今日も三日月がおれをにらみつけている。……おれをそんな目で見るな。あの弱々しく青白い光が憎々しい。


 ……不意に背中にぞわりとしたものが走った。悪寒ともまた違う。

 それは確実にこの廃倉庫の入り口に立っている。何故だかわかった。

 おれはどうするべきなんだ。そいつと会うべきか?去るべきか?

 おれの第六感が言うには、逃げた方がよさそうな気がする。猫たちはとうにいなくなっていた。いつも夜中元気に運動会をしているネズミたちも居ない。

 ここまで近くに来ているのに何故気づけなかったのだろう。おれのカンも大分鈍ったものだ。大丈夫、まだ気づかれては居ない。たぶん。

 いつものように通風孔からそろりと外に出て、足音を立てないよう忍び足でその場から離れようと試みる。

 まだ夜だというのに霧が立ち込めている。視界は極めて悪い。

 その時、足に何かが当たった気がした。ふにゃりと柔らかい感触。直感でそれを見ては駄目だとおれのカンが告げていたのに、目はそちらへと向いてしまう。


「……」


 足に触れたのは、血まみれで倒れている三匹の猫の死体だった。

 どれも首を切られて出血多量によって死んでいる。ほぼ即死だっただろう。

 いつからだったか記憶が定かではないが、結構それなりに長い期間を一緒にいたから愛着に似た感情はあった。

 

 殺した奴は誰だ。


 逃げる腹積もりだったがやめだ。おれは廃倉庫の入り口に向かう。

 やはりと言うべきか、そこにはひとりの男が佇んでいた。

 おれと同じようなボロ布をまとい、フードを被って浮浪者のような風貌をしている。だが瞳からはどうにも隠せないぎらつきを見せていた。

 風に乗って、奴の体中からむせかえるような血なまぐさい匂いが運ばれてくる。もう体に染みついて何度洗っても取れない類のやつだ。


「……久しぶりだな」


 掠れた声で、そいつが言う。どうやらおれを知っているらしい。

 何も言わないおれに対して、薄笑いを浮かべる男。


「なるほど、本当に忘れてしまっているようだ。俺の顔を覚えていないか? 俺の名前も忘れているのか?」

「……知らないな」

「なんだ、随分と冷たい奴だなぁ、アーネスト。何だったらもう一度名乗ってやろうか。俺はリチャード。リチャードだよ。時々一緒に仕事もしただろう? それすらも忘れたか?」


 アーネスト。それがおれの名前なのだろうか。


「まあいい。今日は昔話をするために来たわけじゃないんだ」


 リチャードが腰のポーチからナイフを取り出して構える。

 おれの持っているナイフと同じ形のナイフ。分厚い刃と鈍く輝く光も全く同じ。

 

「お前がやらかしたおかげでな、俺たちが所属してる組織の信用ががた落ちなんだよ。未だにな。その癖お前ひとりだけいつの間にか組織から逃げやがって。腹が立って仕方ねえんだよ」


 恨みがましい目でこちらを見ながら吐き捨てるリチャード。


「それで、おれにあてつける為に猫を殺したというのか?」

「戦う理由が出来ただろう? ちんけな恨みだ。猫を殺された程度の怒りで俺と戦うんだぜ、笑っちまうよな。抜けよ。その腰のナイフは飾りじゃねえんだろ」

「……それで殺された猫がかわいそうでならないよ。お前なんかに殺されるべき奴らじゃなかった。愛嬌のあるやつらだった」


 おれは腰のナイフを抜いた。リチャードがにやりと歪んだ笑みを浮かべる。

 一瞬の静寂ののち、リチャードがぼそりとつぶやいた。


「ああ、お前は忘れてるだろうから言っておく。お前以前標的の一人だった少女助けたろ。何かの気まぐれでよ。それも組織から抜ける一つの要因になったんだよな、確か。あいつ、おれがちゃんとあとで殺っておいたから安心しろよ。それでチャラだ」

「あの夢の光景は現実だったんだな。……お前を殺す理由がもうひとつ増えた」


 おれのナイフを握る手に力がこもる。手が痺れそうなほどに。

 やはりこいつは殺さなければならない。外道め。


「そうだ。それでいい。俺を憎めよ。殺してみろ。所詮お前は殺し屋なんだよ。殺しあってこそ存在意義があるんだって事を理解しやがれ」

 

 言うや否や、リチャードは猛烈な速度でこちらに突進し、ナイフを突き立てようとしてくる。奴のナイフは恐ろしいほどの制度でおれの急所を狙ってくる。

 肝臓。喉。下あご。手首。首側面。心臓。

 めまぐるしく動くナイフの軌道から身をそらすので精一杯だ。

 さながら猿のように機敏で、視覚外の所から攻撃が飛んでくる。おれの技術もまだ錆びてはいないはずなのだが、防御一辺倒にならざるを得ない。

 

「ちっ」


 外で戦うのは不利だ。霧の中を縦横無尽に駆け巡り、居るかと思えば途端に消える動きでおれを幻惑してくるリチャードに有利がある。それに、あいつはどうやら『草』を齧っているらしく、身体能力が上がっている。目の瞳孔がさっきから開きっぱなしなのがその証拠で、効果時間の間はすべての感覚が鋭敏になる。その代償に恐ろしく苦く、味覚を破壊する。

 リチャードが霧の中に再び隠れたのを見計らい、おれは勝手知ったる廃倉庫の中に逃げ込む。ここは忘れ去られた荷物やどこからか捨てられた荷物でモノがぎっちりと詰め込まれている。どうにか人がふたり通りすがる事が出来る通路はあるが、普通戦うには向かない場所だ。そこにおれの勝機があるはず。そこらじゅうにいろんなガラクタが転がっているのも実に良い。

 リチャードもおれにつられて中に入ってくる。中の様子を見て少しばかり面倒くさそうなそぶりを見せる。

 おれは山積みになっている荷物の中に身を隠した。


「どこに行きやがったアーネストぉ! 全くネズミのように逃げ足と隠れるのだけは上手いなお前は!」


 歩きながらナイフを構えて、周囲を警戒するリチャード。

 そしておれの隠れるガラクタの山に差し掛かる。

 一歩、また一歩。ゆっくりと歩を進めていく相手。

 おれの潜っている場所で一旦止まり、周囲を伺う。息を殺して気配も殺して、気取られないように心臓の鼓動すらもゆっくりにする。唯一の懸念は匂いだが、倉庫全体からすえた匂いが放たれているので気付かれはしないだろう。

 リチャードはまた、右足を前に一歩進める。

 そうだ、そのまま通り過ぎておれに背中を見せろ。その時がお前の最後の時だ。


「このまま通り過ぎて背中を見せろ。そう思ったな?」


 リチャードはぐるりと首をこちらに回して、先ほどと同じひどく歪んだ笑顔を見せた。

 おれの存在を明らかにわかっている。隠れた場所すら精密に知っている。

 そんな意図を伺える笑みだった。

 

「アーネスト、お前何日風呂に入っていない? ひどく匂うぜ。ぷんぷん匂いやがる。ドブネズミのような匂いがなぁ!」


 リチャードはガラクタの山をサッカーボールキックで蹴飛ばした。細身の体に似合わない、怪物じみた膂力で山がバラバラに吹き飛ぶ。おれもその中に居たから一緒になって吹っ飛び、壁に叩きつけられた。上からガラクタが落ちてきて騒音を奏でる。


「お、いたいた」


 肉食獣が牙を見せるように歯茎をむき出しにした笑顔を浮かべ、ナイフを構えてゆっくりとこちらに近づいてくる。一歩、また一歩と確実に距離を縮めてくる。

 おれはまだナイフを握っている事に安堵し、立ち上がって構える。

 おれが戦意を失っていない様子をみて、リチャードの片方の眉毛が吊り上がり、にわかに不快感をにじませる。


「まだやる気か。さっきの攻防で実力の差は理解できたはずだろうアーネスト! 何故わからん。お前さては草の食い過ぎで廃人にでもなったか? それで記憶を失ったんだろう、ええ?」

「そんなもん知るかよ。なんせおれにはほとんど記憶がないんだからな」

「これだから記憶喪失ってやつは嫌いなんだよ。何もかもを忘れやがる。俺たちが背負っていた責任も義務もすべて投げ捨てやがって、全く都合がいいよなぁ!」


 リチャードは猛然とおれに近づいて、ナイフを振り上げる。首を狙った軌道。皮一枚裂かれるがなんとか躱す。次に来るのは脳天を突き刺す振り下ろし。これはナイフで受けようとしたが、リチャードの並外れた力のことを即座に思い出し、受け流してその勢いで態勢を崩させる。

 予想通り、奴は上体をつんのめる形になる。体の側面ががら空き。

 

「ふっ」


 おれは左手のパンチをわき腹に打ち込む。確実に良いタイミング、角度で入った。しかしその感触はまるで岩石を叩いたかと勘違いするほど固く、逆に拳を痛めてしまった。リチャードは平然とした表情を崩さない。


「ぐうっ」


 リチャードがナイフを持っていない右手でこちらにパンチを放つ。

 素早く、とても目で追える速度ではない。

 一発、二発と立て続けに腹部、顔面にもらって意識が一瞬飛びそうになる。

 何よりも拳の質が重く、体の芯にまで残るようなダメージだ。


「がはっ」


 おれは片膝をついてしまう。腹部にもらった打撃のせいで、足が震える。

 リチャードはそんな俺の様子を見下して、憮然とした顔を作る。

 

「観念してさっさと死ねよ。それが組織に対する反抗及び脱走の償いだ。そして俺は首をもっていけば二階級昇進だ。俺の為に死んでくれ、アーネスト」

「……」

「じゃあな。地獄で会えたら会うとしようぜ」


 リチャードはナイフを俺の首筋めがけて突いてくる。しかしその動作は大振りで、見えずとも予備動作がわかっていれば避けようもあるというものだ。

 おれはナイフの軌道の内側に素早く潜り込み、一気に距離を詰める。

 にわかに奴に動揺が走る。


「っ!」

「油断し過ぎだ、馬鹿が」


 ナイフの一撃を男の心臓に突き立てた。リチャードの口から大量の血液がこぼれだす。

 このナイフであれば岩ですらもやすやすと突き割る事が出来る。以前、これを鍛えた職人はそんな事を言っていた事を今思い出した。誠実な仕事をする職人だった。最も、そいつも誰かに殺されてしまったが。

 

「くそったれ……」

「過去の事を色々と教えてくれてありがとうよ。パズルのピースが一つ埋まった気分だ。全くもって不愉快だがな」

「そりゃ、良かったな。また眠るたびに何度も悪夢を見る事になるだろうぜ。ごふっ」


 そのまま、リチャードはコンクリートの床にうつ伏せに倒れる。まだ息はあるが、この出血では長くは持つまい。

 リチャードは俺を見上げながら、ぼそぼそとつぶやいた。


「お前はいずれ必ず、組織に戻る羽目になる。過去の自分の行いを清算するためにな」

「思い出して、必要だと思ったらそうすることにしよう」

「ふざけてられるのも今のうちだ」

「……なあ。その『組織』とやらにおれが他に重大な違反をしたか、死ぬ前に教えてくれてもいいだろ」

「耳をこっちに寄せろ」


 おれは言う通りにリチャードの口に耳を近づける。


「くたばれマザーファッカー」


 そして奴はこと切れた。肝心な事は教えちゃくれない、酷い奴だった。

 戦いが終わると同時に霧が晴れて、青空と白い雲が姿を見せる。

 だがおれの心の中には、ひとつの暗雲が垂れ込めている。

 何かがこれから始まるような、いや既にもう改めて動き出しているかのような、そんな気がするんだ。

 

 ……騒ぎを起こしてしまったからここにはもういられない。現に警察の制服を着た人々が倉庫街をうろついている。廃倉庫の中を調査するのも時間の問題だろう。何よりあそこには死体を置き去りにしている。

 猫の死体を埋葬する時間はあったから、倉庫街のはずれの小高い丘に墓を作ってやった。これで安らかに眠ってくれればいいが。

 

 これからどこに行くべきか。決まっている。おれの左手に刻まれた三日月がそれを知っているはずだ。あいつの左手にもこれが刻まれていた。そしてリチャードはなにやら奇妙なネックレスを付けていた。もしかしたらこれが鍵になるかもしれない。この入れ墨を持っている奴と、ネックレスをしている奴。これらをたどっていけば、いずれ何かは知れるだろうよ。

 そしておれが何をしたのか。何をすべきなのか。見えてくるはずだ。

 おれは倉庫街を離れ、手がかりを求める為にあてもなく歩き出した。


 いつの日か、すべての真相、真実を知れる日は来るのだろうか。

 それとも、真実とやらは霧の中に隠されて何もかもが見えないままなのだろうか。

 何もかもが見えないまま、おれはどこへ行くのだろうな。

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