第4話

『あなたに再戦を申し込みます』

 ウォーターゲートのサーバー経由で泉さんは《巫女みこ》へダイレクトメッセージを送り付けた。なにせウォーターゲートは次々に対局相手をマッチングしてくれる。対局の予約をするのも一苦労である。

 そして案外間が空いてから《巫女みこ》の返信があった。

『返事遅れてわるい。ダイレクトメッセージなんてしばらく使てへんかったからさ、許してんか。で、再戦の件やけど、ええよー』

 彼女の返信はホログラム将棋盤にも映されていた。華八に近い側の駒台から無骨なデザインの吹き出しが浮かんでいる。華八はそれを一瞥して答えた。

「返事軽っ」

『調子に乗ったメイドロボですから』

「それも偏見な気がするがのう……」

 華八はぼやいているが、泉さんは気にせずにダイレクトメッセージを返している。

『今度は負けませんよ《巫女みこ》さん。あなたの棋風は理解しました』

『こっちこそ絶対に負けへんよ。なんでかわかるか』

『泉さんが、中盤で考えることをやめているから』

『そや。中途半端で進歩やめた同胞なんて敵やない。自分らの足りへん脳ミソや辿り着かん領域っちゅうもん見せたる』

 華八は頬杖を付く手を変えた。

「にしてもずい分訛りがきついのう」

『きっと《巫女みこ》のご主人様が関西人だったんですよ。メイドロボはご主人に似るといいますから』

 華八は異国の言葉を繰り返すように「カンサイ?」と聞き返した。日本地図の形がぐにゃりと変わっているので伝わらないのも無理はない。

 いっぽうで盤のほうでは着々と準備が進んでいる。既に泉さんの先手であることが決まっていた。

『それでは』

『うぃ。よろしゅーな』

 挨拶がかわされると先手の持ち時間から一秒ずつ時間が減っていく。泉さんは瞑想もそこそこに、自身の使い慣れた定跡手順を採用する。彼女の初手は角道を通す▲7六歩。

 泉さんが用意していた緑茶を一口すすってから、華八はとんでもなく苦い虫を噛み千切ったような顔をつくる。

「ところでおまえさん、またしてもあの妙ちくりんな戦法を使うんじゃあるまいな?」

『妙ちくりんではありませんよ。魔界四間飛車です』

 いっている傍から泉さんは▲7七金とした。早くも態度を示した形である。対峙する《巫女みこ》は流石に二度目で慣れたらしく、挑発じみた金上がりにも構わず淡々と自陣の整備に入る。

『ふふふ……開きますよ、魔界の門が』

「そういうナレーションはいらん。ああ、どうせならワシは《巫女みこ》とのタッグがよかったな。見てみぃあの堂々とした居飛車の構えを。惚れるのう」

『浮気なら戦いが終わってからにしてくださいよ』

 実のところ、タッグを組みこそしたものの華八はまだ出る幕ではないという自覚があった。中盤戦にかけての泉さんはたしかに強い。相手の身動きが取れないように圧をかけながら果敢に切り込んでいくのだから。すべての手が攻防一体となり、勝負のペースは常に泉さんが握っていた。

『メイドロボ同士の戦いでは、いかに相手を自分の土俵に引きずり込むかが大事なのです』

 泉さんは唐突にそんなことをいいながら次の手を指した。左翼の桂馬が跳躍し、相手の歩をかすめ取るときのことである。

「生き残ったメイドロボ達に性能差がないから、ってことかのう」

『はい。ベースが同じであるからこそ、奇襲が生きてくるものなのです』

 泉さんの桂馬が跳ねてから、《巫女みこ》は小考に入っているようだった。持ち時間を既に一分消費している。終盤に粘りまくる彼女の対局スタイルを考えれば、序盤からここまで時間を使うのは破格の投資だった。

 ややあってから《巫女みこ》はまたもや自玉の守りを固めた。泉さんの攻めは一見軽い。ならば受けに回ろうという判断らしい。

『桂馬が地球の裏側から飛んで来る、という表現がありまして』

「はあ」

『桂馬が盤の端を通って襲いかかって来る、ということなんですけどね』

 泉さんは特に時間を使わずに局面を進めていく。終盤戦に備えて、できる限り華八のために持ち時間を残しておきたいという思惑が少なからずあった。

『魔界四間飛車特有の桂跳ねは、さしずめ桂馬が地球外からやって来る、という感じでしょうか』

「そいつは想像力のある話じゃな」

 華八は瞳の奥を輝かせて泉さんのほうを向いた。考慮中のメイドロボは緑色のカメラアイを光らせ、一気に雪崩れ込む選択で応える。

 じっくり観察すると《巫女みこ》の棋風は序盤からずっと一貫していることがわかる。喧嘩するような手順は選ばず、むしろ泉さんの無理な攻めを誘っているようだった。泉さんとしては攻め込んで主導権を握る戦いを好んでいるため、お互いの主張がぶつかり合っていた。盤上では激しい攻勢のもつれ込みになり、一手指したほうが良く見える場面が続く。

 とはいえしばらく進んでみると、なんとなく形勢判断がつくレベルで差がついてきた。泉さんの陣形は囲いの形を取っているが、装甲としては決して硬くはない。玉の守りを固めるべき金将の一枚が、ずっと明後日の方向で上空を旅しているせいだ。とはいえその分だけ攻めが厚い。

 序盤も序盤で跳ねて行った泉さんの桂馬は既に取られてしまっていたが、その桂馬を犠牲に泉さんは大きな戦果を上げていた。《巫女みこ》の守備態勢を逆手に取り、揺さぶりをかけることで陣形を大きく乱している。後は《巫女みこ》が反撃を開始するまでにどれだけ深い一撃を浴びせられるかにかかっている。

 ここまでは泉さんの作戦勝ちであるが、決して楽な局面ではない。初撃を浴びせることには成功しても、自陣は決して堅陣とはいえず、また駒損の状況でもある。形勢逆転の要素は散らばっていた。

 そして華八にとっては願ったり叶ったりの展開である。そもそも楽して勝てる相手ではない上、終盤戦と来れば自分の出番である。華八は控えながらも静かに闘志を燃えたぎらせていた。

『あっ』

「不安になる声を出すでない」

 泉さんが相手の手を見てふいに声をあげた。どうやら考えていなかった予想外の手が飛んできたらしい。

『申し訳ありません。ですが華八様、これはあまり思わしくない局面ですよ。《巫女みこ》さんが徹底抗戦の構えに入りつつあります』

 局面は大詰めの三歩手前、という辺りだった。徐々に《巫女みこ》の研究した領域に踏み込みつつあることがわかる。なるべく時間を使わずにいた泉さんの考慮時間が伸びていた。

 一時は泉さんの優勢で間違いなかったが、いつの間にか粘られ続けて五分のところまで戻っていた。

『助からないと思っても助かっているという強い信念が伝わって来ますね』

「呑気なことをいうとる場合か。いまのはおまえさんがわるい、どう考えても悪手じゃろ?」

 泉さんは少しだけ間を置いてから答える。痛いところを突かれて困った風だった。

『泉さんが間違えるということは、そろそろ終盤戦ということです』

 それでもすぐにプログラムを切り替える。いままで指し手をそのまま読み取り専用のデータとして転送してたホログラム将棋盤を更新モードに切り替える。これで華八からも操作が可能になった。

 ホログラム将棋盤の見た目にもわかりやすく変化がある。光の粒子が盤の底から湧き上がるや否や、青いガラスのようだった駒達は一度に色付き、まるで千年前に使われていた、本物の将棋盤のようになった。ここまでは泉さんの持ち時間が消費される、わずか零コンマ三秒の間のことであった。

 ここから先の戦いは華八が挑むことになる。舞台は用意した。泉さんひとりでは、いずれ攻めあぐねて負けていただろう。次は違う。

 泉さんは駒の操作権限をすべて放棄し、もう一人の棋士に権利を委譲した。

『華八様』

「望むところじゃ」

 一瞬だけ虚を突かれた華八は腕まくりをしていま一度息を整える。中盤戦までは泉さんがやってくれた。最後の最後で大きく差が縮まった気がするが、それでもここからは正真正銘の終盤戦である。粘る隙も与えないうちに倒してしまおう。《巫女みこ》も読んでいないような、決め手の道を示すのだ。


 そのための一手を、華八は叩きつけるために振りかぶる。華八は《巫女みこ》の息の根を止めることしか考えていなかったし、泉さんも一言一句同じ思いだった。

『華八様、相手は暫七世代おいぼれです。勝てます。どうか、やっちまえ!』「おうとも!」

 そして華八は気合とともに、一二二手目を放った。

 銀将のタダ捨てだった。盤がホログラムでなければ割れている勢いである。しかしその手は王手にもなっていない、受けの手でももちろんない、正真正銘、タダの捨て駒だった。

『……あ、あのー。華八様?』

 先程までの気迫をメモリから消し去ったかのように、泉さんは勢い削がれて恐る恐る尋ねる。が、華八はといえば、自分がちょっかいをかけまくっていたのを棚に上げて「対局中じゃ」とすげなく断った。しかし泉さんはめげない。訊かずにはおられなかった。

『その銀は一体……勝てるのですか? 難しい手ですが』

 華八は泉さんに一瞥をくれる。《巫女みこ》がまだ次の手を指さないのをたしかめてからようやく答える気になった。

「こいつは決め手に近いよ」

『まだ華八様、一手しか指してないじゃないですか』

「一手でじゅうぶんじゃ。《巫女みこ》には深い泥沼を与えてやった。ただ攻撃に耐えて反撃することを終盤戦と思っているのなら、沼の底で沈むことに耐えておれ。できるものならな」

 華八は向き直り、泉さんに手招きをした。「そういう手を指した」

 招かれた泉さんはウォーターゲートサーバーとの接続が切れないよう注意を払いながらテーブルの傍までやって来る。華八は泉さんがかたわらに立ったので解説することにした。

「まず結論からいうと、この銀は取れない」

『取ったら?』

「ワシらの勝ちじゃ」

 華八は手順を示す。これまで《巫女みこ》はマス目に駒を埋め続けることで隙をなくしていたが、いましがたのタダの銀を取ると致命的な隙が生まれてしまう。この隙で即座に詰むわけではないが、決壊してしまうのだ。いっぽう自玉は銀一枚を渡しただけではぎりぎり詰まない。むしろ銀を取るために動かした相手の歩兵が邪魔駒になる。

『では放置するとどうなります。たとえば泉さん達を包囲してみるとか』

「試すまでもないじゃろ。この銀が受けに効いているからのう」

 華八の示した手順を読んでみると、あっと声が出た。

「どれ、もっかいはっきりいっておくか」華八はこほんと咳払いを打つ。「この勝負、ワシらの勝ちじゃ」

 華八はしたり顔で告げ、相手の応手を待つ。やがて秒読みのカウントがラスト一秒まで来たところで、《巫女みこ》は次の手を指した。▲3七飛、もはや自分の身を守ることしか考えていない指し手だった。

『第三の手ですね』

「そいつも読んでる。受けになってないのう」

 華八はほぼノータイムで《巫女みこ》を攻め立てる。たとえ第一の矢が折れても、次なる攻撃が止まらなかった。

 泉さんが息を飲む。華八も《巫女みこ》も、まるでゴールへの道のりをなぞるように手が進んで行った。してみると相手側も既に「詰んで」いることは理解しているようだ。

 そうして数手の間、最後の収縮が続き、ホログラム盤にメッセージが出た。

(<珊瑚障壁グレートバリア> さんが投了しました。あなたの勝ちです。)

 玉将が詰め上がる最後まで指したのは《巫女みこ》の矜持だろうか。泉さんは感慨深げにポップアップウィンドウを眺めた後、ウィンドウのOKボタンを押下する。すぐに将棋盤のチャット欄に《巫女みこ》からの発言があった。

『うおー、負けたーっ』

 華八はそれを見て、ぴょこぴょこと狐の耳をひくつかせている。泉さんがもじもじと訊いた。

『なんと返したものでしょうか』

「じゃあ、勝ちました、とでも返しておくか?」

『承知しました』

 泉さんはいわれたとおりに打ち返す。華八が小声で「冗談なんじゃが……」といったが遅かった。すぐに《巫女みこ》からの返事がある。

『いい返せんのが悔しいわ。ってか、あんな綺麗に切り返されるとはなー。なんや人が変わったようやった』

 華八はぱちくりとまばたきをしながら泉さんと眼を合わせた。人が変わったのは紛れもない事実だからだ。

『なんだか後ろめたいですね。正直に白状します?』

「余計なことはいわんでええ。説明が面倒じゃしのう」

 泉さんはしばらく沈黙した。それから華八には何事も口を発さず、チャット欄にメッセージを打ち込む。

『当然です。泉さんだってやるときはやるのです』

『せやな。自分は強い。まともな終盤戦できるんウチだけや思とったわ』

『またいずれ戦いましょう、<珊瑚障壁グレートバリア>。貴方との戦いでは大いに学ぶところがありました』

『望むところやで、<炎泉ファイアスプリング>』

 泉さんは会話を打ち切り、そのまま《ウォーターゲート》もログアウトした。将棋盤の上にだけはいまだ終局の図が残っており、熱戦の残滓がくすぶっている。

 泉さんはゆっくりとテーブルまで歩いていき、開口一番に不満げにいった。

『なんだか泉さんも終盤戦の研究をしている風に思われてしまいました』

「おまえさんが自力で指せるようになればよかろう。ワシに指せておまえさんに指せないという手は、将棋にはない。老人も子どももメイドロボも妖怪も等しく戦えるのが将棋のいいところじゃ」

『……ええ、そのとおりです。ええ』

 そしてどちらからともなく堅い握手をかわす。柔らかい皮膚と硬いカーボン繊維が交わり、それから華八がぶんぶんと振り回す。自力で指したのはたったの十数手だというのに、華八の手はぐっしょりと湿っていた。


「さて、これで義理は果たしたな。後はワシの一張羅が仕上がるのを待つだけじゃ」

『やはり旅立たれるのですね?』

 泉さんが尋ねる。声には不安げな色が滲んでいたが、華八はまったく気に留めていなかった。 

「そりゃそうじゃろ。客人が居候し続けるわけにも行くまい」

 泉さんはためらいがちに、そしてはっきりと告げる。

『そのことなのですが。もし華八様さえよければ、ずっとこの家に住みませんか』

 華八はポケットに手を突っ込み訝しげな視線を向ける。掌の汗を拭うのも忘れていた。

「何のお誘いじゃ」

『泉さん、確信しました。華八様はお仕えするに足る人物です。人物というか妖狐です。我々が本来仕えるべき人間はいなくなりましたが、華八様ならご主人様に相応しいと考えます。温かい食事も身の安全も、このメイドロボが保証します。半径二キロメートルが貴方の庭。どうか家に残って、泉さんのご主人様になっていただけませんか』

 華八は閉口する。ほとんど唇を動かさずに答えた。

「よせよせ。ワシはおまえさんのことをおまえさんと呼び、おまえさんはワシのことを華八と呼ぶ。それでじゅうぶんじゃあないか」

『あまりにも惜しいことです。ここで出会えたのも何かの縁だと思います』

「ワシは家に篭るより、野山ではしゃいでるほうが身の丈に合っとるんじゃよ。一緒に旅をするのなら考えなくもないが?」

『……泉さんはもう、野山で活動できる程の力がありません』

「では交渉は決裂じゃな。やっぱりワシはここを出るよ」

『……でもっ。ですが、外は危険です。泉さんの武装があれば華八様をお守りできます』

「物騒じゃな。そんなもんなくても、自分の身は自分で守れるさ。ワシはもう大人なのでな」

 どうやら華八の決意は堅い。……というか最初から、二人が出会ったときから返事が決まっているようだった。泉さんはそれ以上の説得をしようとしたが、どうにも言葉が浮かばなかった。

『ならば仕方ありません』

 泉さんは悄気げた仕草を隠しながら、住居保全系メインコンソールを操る。地下の室内乾燥施設からあるものを取り寄せた。輸送コンテナが地中から送り届けられる。泉さんの脇にぼこんと穴が空いたかと思うと、レールを疾走する音とともに輸送コンテナが到着した。白い煙を巻き上げながらコンテナの蓋が開く。

 中ではピンクと臙脂、二色の袴とブーツが艶やかな色彩を放っていた。泉さんはコンテナにアームを突っ込む。

『クリーニングとナノマシンの補充は完了しています。これならあと五百年は外を歩けるでしょう』

 泉さんはハンガーからシワが付かないように服を外し、丁寧に摘みながら華八に見せびらかした。華八は軽く口笛を吹く。

「ひゅーっ、新品同様じゃのう」

『どうします、いますぐ発たれますか?』

「留まる理由もないしな」

 高速アクセスランプが寂しい寒色に染まる。もとい、寂しいのではない。メイドロボは寂しがりもしないし残念にも思わない。単純に思考の間があるだけだ。『はい』

 華八は乱雑に室内着を脱ぐと背中を向けて立つ。泉さんは何もいわず、そのまま華八に上着を着せる。下のほうはスカートのようになっているので、服だけ渡して華八に履いてもらった。そうして玄関まで歩く。華八はブーツに足を入れると紐を交差させていった。

 家の外に出ると陽射しが眩しかった。灰色に覆われた雲の上から太陽が照りつけ、大地全体が淡い陽光のオーバーレイに覆われている。華八は少しだけ眼を細め、徐々に視界を慣らせる。吹き荒ぶ風に背中を押されて前へ進んだ。

『せめて敷地の外まではご一緒させてください』

「おまえさんも未練がましいやつじゃ」

 華八は減らず口を叩くが特に拒否はしなかった。二人は連れ立って進み始める。華八を先頭にして、泉さんは半歩だけ後ろを歩いていた。泉さんは最初こそ『あれは元・御藤さんのお家です』とか『ここに消火栓がありました』とか解説していたが、華八の反応が芳しくなかったのか、あるいは話すことがなくなったかで会話は途切れがちになった。そうして廃墟と化した住宅街を抜けると平野部に出る。大昔に畑として使われていた土地だが、いまは管理する者がいない。背の低い草が懸命に芽生えようとしていた。華八は容赦なく踏みつけ、そして泉さんも並んで踏みしめは、しなかった。

 泉さんは再び立ち止まり、直立不動の姿勢をとる。気付いた華八が振り向くと小さな声で答えた。

『……ご一緒できるのはここまでです』

「そうか。ま、おまえさんも気が向いたらワシの無事を祈ってくれ」

『メイドロボは基本的に祈りませんよ。せいぜい戦局の予測ぐらいです』

「そいじゃ無事な未来を予測してくれ」

 華八はにいっと笑うと踵を返した。いってらっしゃいませ、という泉さんの形式張った言葉に、後ろ手に手を振り答える。振り向きはせず、荒れ果てた畝を踏む。色彩の足りない地面に桃色の袴はまぶしく輝いていた。


 泉さんはその背中に向けて、静かに腹部の小型マスドライバーキャノンの砲身を構えた。レッグパーツからは錨が放たれ柔らかい土壌にめり込む。これで彼女の身体は完全に固定された。たとえどんな激しい風が吹いても、もうびくともしなかった。砲の射線上にぴたりと華八を収めると思考回路の出した解を確認するかのように呟く。

『人成らざるかた……。こうすれば、もしかするとずっと家にいてくれるのかもしれません……』

 そのまま引き金にマニピュレーターをかける。しばらく同じ姿勢のまま固まっていたが、華八の歩みは遅く、有効射程距離の範囲からなかなか抜け出せなかった。泉さんはなおも弾道計算を続けている。荒野の地球は風が激しく、正確な着弾予測が難しかった。もし外してしまうと一巻の終わりだ。自分は信用を失うだろう。絶対に外せない場面であった。量子プロセッサが唸る。

『ですが、それでは意味がないのですね。自分の道は自分で決めなくてはいけません』

 そして待つこと数分。ついに来るべきチャンスがきた。華八の姿は豆粒大になろうとしている。

『華八様!』

 泉さんはスピーカーの音量を大にして叫ぶ。邪魔するものがない大地にあって、声は一直線に華八の元へ届いた。

『お忘れ物ですよ』

 泉さんは自分の背後、自宅から撃ち出された弾丸を超音波センサーで感知した。背面から高速で飛翔する弾を左アームで殴るように受け取ると、そのまま流れるような所作でマスドライバーのカートリッジにセット。と同時に弾道修正を行う。計算完了、発射。泉さんより再度射出された弾丸は綺麗な放物線を描き、思わず頭を庇う華八の右手に収まった。

「おまえさん、これは……」突然呼び止められた華八はそれだけいうのが精一杯だった。質量兵器を受けた右手がひりひりと痛む。

『詰将棋の本です』

 華八は反射的に受け止めた、右手の書籍ペーパーデバイスを見る。無地の黄色の背景に、大きく数字の九が描かれていた。

 かつて人類の棋士が編纂したという詰将棋の問題集である。

「詰将棋のデータはないんじゃなかったか?」

『たしかに詰将棋の生データは現存してはいません。全部捨てちゃいました。……ですが、《詰将棋本の電子書籍データ》ならば、クラウドデータベースにごろごろ転がっています。書籍化作業に多少時間がかかってしまいましたが、ギリギリ間に合いました』

「なるほど、食えんメイドロボじゃ」

『泉さんからの餞別です。華八様、どうかお元気で。お互い、しぶとく稼働していたらまた会いましょう。泉さんはいつまでもここにいます。そのときは将棋ももっともっと強くなっています。あなたの示してくれた道を頼りに!』

 泉さんはマスドライバーキャノンを収納しながら、今度こそしがらみなく手を振る。

「何十年後か何百年後かわからんが、そいつは楽しみなことじゃ。……また会おう、不躾なメイドロボ!」

『はい、不躾な妖狐さん!』

 そうして一人は住宅街のさらに先、野山のほうに向けて歩き出した。もう一人は相手が地平線の果てに失せるまで見送り続けた後、フライトブースターを吹かせて自宅の警備に戻った。

 灰色の大地に突風が吹く。妖狐とメイドロボが出会った痕跡を洗い流し、もはや誰が見てもそうとは気付かないだろう。


  *


 人類はいろいろあって呆気なく滅亡し、その形見、人成らざる者達は人類のことなど忘れて元気に暮らしておりました。

 ある者は野山を彷徨いながら詰将棋に興じ、ある者はナノマテリアルでできた家の中でネットワーク将棋をして生きています。

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龍不成 @maetoki

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