第3話
伸びきったきつねうどんというのは大しておいしくなかった。そもそも物理的に麺が伸びたわけでもないので、華八にとってはたいそう期待外れの代物だったようである。心底渋い顔でうどんを頬張る華八を、泉さんは心の底からにやにやした仏頂面で眺めている。フェイスパーツは動かないので、わざわざ『泉さんはいまとても愉快です』とまでいった。
今度はちゃんと完成したらすぐ召し上がってくださいね、という泉さんの注意に華八は珍しく二つ返事で頷いた。
外を見てもまだ白色の線が降り続いている。通り雨かと思われた天気は数時間に渡り降り続いていた。華八は膨れた腹をさすり大あくびをする。尖った犬歯が鈍く光った。こんな日は大人しく詰将棋にでも興じたいものだが、相変わらず彼女の手元にはそのデータがない。檻に入れられ鑑賞されている気分だ。
泉さんも似たようなものであった。《お客人》を招き入れている以上、おちおち庭の掃除にも行けない。ふたりは密閉された邸宅の中でずっと息を殺し続けていた。徐々に天井が迫ってくる錯覚すら覚える。
「よくこんな生活に耐えられるな」
華八は誰へというわけでもなく問いかける。もちろん部屋には二人しかいないので、尋ねた相手は自ずと決まっている。
『はあ。質問の意図を計りかねますが』
「いまひま?」
『泉さんの前ご主人様が死亡してから早数百年。稼働時間の半分以上を独りで過ごしてきた計算になります。……ひまだとかは、ええ、あまり、感じませんね』
「そうかいそうかい。ワシゃ久しぶりに話し相手ができたと思ったが、どうにも張り合いがなくて困っておる」
華八の皮肉も泉さんにはあまり通用していないらしい。泉さんはいつもの口調で返した。
『それは難儀でございますね。一勝負いかがですか』
「おまえさんとは指さん」
『ではそこでご覧になっていてください』
華八は呆れ顔をしていたが、お構いなしに泉さんは歩いて行って自室のロックを外す。もどかしいように有線MANポートのケーブルを繋いで充電用クレイドルに引きこもってしまった。じきにテーブルのホログラム装置が作動して将棋盤が浮かび上がる。
『《泉さん、私は泉さんです》―』
泉さんの呪文が聞こえ、数分と待たないうちに対局が開始される。次の対局相手は<
「終盤戦になったら起こしとくれ」
『華八様もお寝坊さんですね。起きられませんよ』
辟易とした様子で華八は狸寝入りを決める。寝言のふりをしていった。
「せいぜい楽しむといいさ」
『楽しいも何も、存在意義ですから.。生きる歓び』
泉さんは淀みない口調だった。将棋のほうは後手の<
だが数十手進んだところで泉さんは自主的に投了し、彼女の星取り……《十六兆九千二百四億五千百五十二万三千九百六十二―十六兆九千三百十四億六千二百万四百三十二》の右辺に一が加算された。勝率は以前五割のままである。
『負けてしまいました。もう少し正確に受けていれば勝てたかもしれませんね。悔しいです』
「疑わひろしげ」
『かなり大爆笑です』
泉さんはにこりともせずに対局相手へ終局の挨拶をすると、またサーバーのロビーで待機状態になる。
すぐさま次の対局相手とのマッチングが行われた。そして現れた
勝率、七割六厘。いままでほぼ五割で推移してきたメイドロボ軍団から明らかに頭一つ抜き出ていた。
「おいおい、こいつはナニモンじゃ」
『ウォーターゲートにいるんですから、メイドロボでしょう』
泉さんはさらりといってのける。
「そりゃわかる。じゃが違う」
『アカウント照合完了。型番三五三五・個体識別名<
やりとりするうちに対局は始まっていた。華八はただならぬ様子で話し続ける。自分が話しかけても邪魔ではないというのだから遠慮はない。なにせ相手の実力は未知数……どころか、確実に格上だ。
通常、同じ相手と十回将棋を指して七回負ければ『手合い違い』といわれる。実力に差があり過ぎるので駒を落とすなりしてハンディキャップを付けましょう、ということになるのだ。無論ウォーターゲートではすべての対局がハンデなしの平手、手番は振り駒で行われる。
「おまえさんの話では、《うぉーたーげーと》に集うメイドロボは全員同じスペックだそうじゃないか」
『はい、相違ありません』
「にしても勝率七割は高過ぎる。……わかったぞ、こやつ、メイドロボはメイドロボでも、新七世代型じゃな。鬼の住処じゃ」
『そんなはずはありません。新七世代型は全滅しています。最後の一機がサムズアップしながら溶鉱炉に落ちていくシーンはいつ見ても泣けます』
「おまえさんに涙はないじゃろ」
『だいいち、ウォーターゲートサーバーは暫七世代型しかアカウント認証できません。従って後発の連中では絶対にありません。であれば、スペックは同程度。つまり。泉さんが勝てない相手ではありません』
泉さん(勝率五割)は声高らかに宣言し、そこでようやく自分の手番であることを自覚したように二手目を着手した。既に持ち時間は二分程消費してしまっている。
華八も対局の様子をいままで以上の熱心な面持ちで観戦していた。だが局面が落ち着き、互いに膠着状態に入る頃には拍子抜けして肘をついていた。重いと思い込んでいた荷物が、予想以上に軽かったときのようである。
「……なんだか思っていたのと違うな、こやつ」
『そうですね。自然な手を重ねている印象です。自然過ぎます。《巫女みこ》さんは《自分が良い》と思っているのでしょうか』
これまでの対局相手と違うところが見えてこない。局面も、どちらかといえば後手の泉さんが押しているだろう。華八も泉さんも訝しんでいた。
『大したことありませんね。もう少し骨のあるかただと思っていたのですが』
「おまえさん優勢になると、途端に小物になるな」
泉さんは軽く無視した。
『これで決まりでしょう。大勢は決しました』
自身に読み抜けがないことを最終確認しながら△5三金と着手する。相手が垂らしていた歩を取り、ついでに金を自玉に呼び寄せたのである。まだ具体的に相手の玉将に迫ることはできないが、それ以上に《巫女みこ》からの攻めの火種を消す、盤石に鉄板を仕込んだかのような守りの一手である。対局相手は手も足も出ずに、ひっくり返った亀のようにじたばたするしかなくなる。もはや終盤戦を演じるまでもなく、押さえ込んだ形での勝利……泉さんの必勝パターン。そのはずだった。少なくとも並の暫七世代型なら即座に投了していた。華八も手の意図を読み取り、
「おまえさんの将棋は心底性格がわるい」
『勝てばよかろうでございます。……まあ、ここまで来ればどうしようもなく投了でしょう』
ところがである。諦めるかと思われた《巫女みこ》は小考に入っていた。
華八は口をへの字に曲げて盤面に目を落とす。たしかにいままで似たような場面を見せられてきた。いつだったか《昆絶断》とかいうのも、ここから先の手を指さずに投げていたものだ。ところが二人の意に反して、《巫女みこ》は考慮時間を一回だけ使い潰すと、指されるはずのない次の手を指した。
▲7九飛打……。仮に粘るならこうするしかないという、受けにしか効いていない自陣飛車である。
将棋は《二つの狙いのある手は受けにくい》とされる。だが《巫女みこ》の着手はたった一つの狙いしかなかった。ただ単純に泉さんの攻撃を防ぐだけの手。みっともないまでの防御手段だった。
泉さんは面食らったが、まだ将棋ソフトは最善手を示してくれている。次こそ《巫女みこ》の息の根を止めるべく、遠巻きながらも攻めを志した。△6七歩。それでもまだ《巫女みこ》は防御の手を指す。▲6九歩。
まるで進展のない応酬が続く。《巫女みこ》の王将の周りにはいつしか堅い防波堤が築かれていた。もちろん、ここまで守りに専念してしまうと泉さんに反撃する手段が乏しくなる。だが相手はまるで《まだ勝負は終わっていない》といっているかのようだった。
いつの間にか、次第に追い詰められていたのは泉さんのほうになっていた。盤上は依然として優勢かもしれない。しかし盤面の外……持ち時間が徐々に削られ始めているのだ。慣れない形の攻防戦に考慮時間が
しばらく見ていた華八は、泉さんの考慮時間が尽きかけているのを見てけたたましい笑い声を上げた。
「ははは、ワシにはわかったぞ。《巫女みこ》とやらの強さ。勝率の理由を。これはおまえさんは苦手じゃろうな。……や、おまえさん達か」
『まさか、そんなことがあるのですか』
泉さんはうわごとのように呟く。将棋盤から響くアラームを煩そうに払った。数百年ぶりに聞いた、秒を削られる音である。華八が畳み掛けるように吠えた。
「ほれ、秒読みじゃ。時間がないぞ、おまえさんや? 三十秒……四十……」
泉さんは常に攻める手を指し続けている。そしてそれに食らいつくように《巫女みこ》は徹底的に守り続けていた。泥臭く長い中盤戦は互いの体力を削り、ついには終盤戦の入り口に立っていたのである。泉さんは金切り声を挙げる。模擬声帯を絞るような音だった。
『彼女の行動がまったく理解できません。投了してもいいでしょう』
「それを決めるのはお相手じゃ」
華八はいつになく愉快な声でいう。泉さんの味方とは思えない態度だった。泉さんの対応に失笑していたのである。
泉さんは次の手を指せずに、時間切れで敗北していた。将棋ソフト《シックスウェイ・リンカネイト》が次の手を読めなくなったのだ。昔不要な処理だと切り捨てていた、秒読み時の指し手を急きょ呼び覚ましたため、予期しないシステム障害を起こしていた。
とりあえずそのバグについては自己診断アルゴリズムで解消させるとして、立ち上がると華八のところにつかつかと歩み寄る。ちなみに投了のあいさつすらしていない。途中でこんがらがったMANケーブルにつっかえたので、道半ばでつんのめった。
『なんてことです。途中はどう見ても泉さんの優勢でしたよ』
「みっともないのう」
話すあいだにも泉さんはアクセスラインを激しい赤色に点灯させている。量子プロセッサの性能に物をいわせて、バグ解消と並行し先程の対局の棋譜を振り返り検討しているのだ。ともすれば対局中よりも熱心であるように華八には見えた。
『……将棋ソフトが《巫女みこ》さんの強さを分析しました。彼女はどんなに不利なときも絶対に諦めない。メイドロボ達の心が折れる中盤の逆境だろうと挫けずに粘り続ける。そのまま終盤戦にもつれ込んで、こちらのミスを待ち続ける。泉さんは《泥沼》に引きずり込まれたわけです。泥仕合が相手のフィールド。たったそれだけです』
「そりゃワシだって見ればわかるよ。ところで、おまえさん達が努力を怠った終盤戦の駆け引きにも長けているとか、そういう分析はしとらんのか」
泉さんは俯く。歯があったら歯噛みしているだろう。代わりにアクセスラインに歪な閃光がまたたく。
『わかりました。こう理解しましょう。あのメイドロボは終盤戦を研究している。それも激しく斬り合う中盤戦の延長としてではなく、相手のミスを誘う駆け引きを交えた終盤戦を戦場にしています』
「上出来じゃ」
『あのメイドロボは明らかに他の機体とは別の学習を積んでいます。その、つまり……』
泉さんのメモリーはまだ過度に加熱している。だがなんとか冷静に言葉を選んでいう。
『華八様はいいましたね。将棋とは王将を詰ますゲームです。詰みの場面まで至らなければ諦める理由はない。なるほど、その蓄積が勝率七割六厘なのですね』
「お言葉じゃが、さっきおまえさんに勝ったお陰で勝率七割七厘になったらしいぞ」
泉さんは往生際わるく、対局ログから《巫女みこ》の星取りデータを復元させた。計算ソフトに数字をぶち込んで割り算をしてみる。たしかに自分との対局結果を加味すると商は七割七厘に上がっていた。
計算の合間、泉さんは手遊びとばかりに絡まったMANケーブルの結び目を解いていた。ひとつ玉を解すたびに可動域が二センチ伸びる。ついには泉さんは華八の足元へ辿り着いていた。
『理屈はわかりました。しかし将棋は運ゲーではありません。たまたま泉さんが悪手を指したからといって、それで一発逆転されてはたまったものではありません』
「いやいや、将棋とはそういうゲームじゃからな? 悪手指したほうが負けるからな?」
『華八様もみてくださいよこの棋譜。全然美しくありません。泉さんの千のガトリングガンを受け、万の榴式弾を浴びても倒れない様はまるでゴキブリのような生命力です。メイドはゴキブリがお嫌いなのです』
「そりゃ僻みというものじゃ」
『でもでも華八様。腹が立ちませんか。《巫女みこ》さんの諦めない姿勢は立派だと思います。自力で終盤戦の研究をしようと思い立ち、実際に実を結ばせたことも大いに評価できます。将棋ソフトが学習に使用するビッグデータはいまやすべてがメイドロボ同士の対局。だから中盤までのデータしかありません。そこから一歩進んで、自力で終盤戦の理論を組み上げたということになります。そこまでして終盤戦で勝負する道を選んだなんて。彼女のディープラーニングの成果は、より将棋に適応していたのでしょう。しかし、ちょっと終盤に強くなったからといって調子に乗られては困ります』
「どう困る?」
『……それがその。言語化が難しいです。ああもう!』
ボディパーツがいまになってようやく排熱機構を作動させ、身体から白い煙を吐いた。熱が逃げていくのに合わせて泉さんもいくらか落ち着きを取り戻す。
『はて。泉さんは何に憤っているのでしょうか。所詮は敗北の一つに過ぎません。終盤戦を研究したメイドロボなんて、あの《巫女みこ》しかいないはずです。ですがそんな相手に負けたことが、たまらなく――』
泉さんはいい淀む。かと思えばくっと前を向いた。
『そうですとも、華八様。泉さんは泉さんの歩き続けた道が誤りだと思ってしまったのです。たった一度の敗戦なのに。交叉するレールのように、泉さんの手前に新しい線が引かれました。それはどうやらいままでの道より太いみたいです。泉さんは乗り換えたいけど、乗り換える術がわかりません。だから困っている』
「嘘を吐け。おまえさんは賢い知能のはずじゃろ」
華八は肩を震わせて檄を飛ばした。泉さんに逡巡する間が生まれて、唐突に瞳に光が宿る。
『……もう一度戦います。今度こそ負けません。《巫女みこ》は負けを認めなかったから、勝った。泉さんだって負けを認めていないので勝てます。泉さんとて高度に学習する人工知能。作戦はないけど今度こそ勝ちます』
「……こんだけ考えて、まだ策がないのかえ」
『いまはまだ!』
メイドロボとしては失格モノの論理破綻著しいロジックだったが、幸いにして開発者は既に死んでいた。なおいっそう泉さんは勢い込んで、充電用クレイドルに戻ろうとする。
その姿を見た華八は不遜な態度でコップをゆっくり卓に叩き付けた。泉さんが振り返ると、ちょいちょいと空のそれを指している。華八は微笑んだかのようであった。仕方なしに泉さんは歩いた道を引き返して、マニピュレーターから飲料水を注いであげる。華八は狐耳の裏を撫でながら興味なさげに尋ねる。
「まあ水でも飲んで落ち着け」
『泉さんは水冷式じゃありません』
「ならワシが代わりに飲んじゃる」
と、華八はくっと水を飲み干した。泉さんがいささかオーバーヒート気味だったせいで、かなり生ぬるい。
「実際問題としておまえさん、終盤は不得手なんじゃろう」
『……不得手も不得手ですね。やはりあのメイドロボに勝つためには中盤でもっとリードを広げないといけない気がします』
「並のメイドロボ相手に五割しか勝てないおまえさんが、急激に強くなれるとは思えんなあ」
泉さんは棒立ちになり、それからゆっくり右アームを隠すように撫でる。
『それは……そのとおりです』
「おまえさんが再度挑戦したところで、また同じようにずるずると粘られて思考の体力負けを食らうのがオチじゃ。ワシは詰将棋が好きなのでそーゆー未来が読める」
『泉さんだってそこを解決できなくて困っているのです。さっきから、泉さんにどうしろとおっしゃりたいのですか』
「うむ。ここに詰将棋好きがおる」
泉さんは思考回路を光らせる。華八が言外にいおうとしていることを瞬時に理解した。詰将棋とは終盤戦そのものであることを。
『……泉さんなら、中盤戦で《巫女みこ》に勝てる。華八様なら終盤戦で《巫女みこ》を打ち倒せる。一人ずつでは到底敵わなくても、二人ならば……』
「一宿一飯の恩義じゃ。……もっとあったか?」
華八が口を閉ざすとすぐに部屋の中に沈黙がおりる。泉さんの駆動系だけが静かに環境音を鳴らしていた。
「しかしまー、二対一で戦うのは微妙に卑怯な気もするのう。おまえさんが嫌なら無理にとはいわんが」
『泉さんの顔を見てください。嫌がっているように見えますか』
ばんと泉さんがテーブルを叩いた。珍しく感情的になっている。そうして泉さんはのっぺらぼうの顔面パーツを指し示す。パーツはひとつも動いていなかった。
「決まりじゃな」
華八は口角を釣り上げて、泉さんの肩をばしんと叩いた。
ちなみにウォーターゲートには『メイドロボと有機生命体がタッグを組んで指してはいけない』という規約はない。そもそもウォーターゲートの成立が人類絶滅以降なので、想定すらされていないのだろう。倫理規定はクリアした。泉さんの良心回路もちっとも傷むことなく、二人は手を組む道を選んだ。
「ワシも少し燃えてきた。メイドロボでもあいつだけは楽しめそうじゃ」
『はい。あれは強敵です。相手にとって不足はありません』
外の豪雨はいよいよ厳しくなってきた。ビー玉大の雨粒が機関銃のように窓を打ち鳴らす。けれども機関銃の弾切れは早く、かえって近づく嵐の夜明けを感じさせた。
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