第2話

 何百手と同じ手が続き、何千回と同じ局面が盤に現れた。ついぞ痺れを切らしたのは華八のほうだった。この家の椅子は固く、尻が熱くなっていたのだ。華八はだーっと声にならない雄叫びを上げて立ち上がる。

「ええい限界じゃ、ワシは動くぞ!」

『……どうでもよいのですが、華八様はその……。いえ、将棋のルールって案外伝わってないのですね』

 泉さんはいいづらそうに尋ねるが、華八はどこ吹く風。むしろ苛立ちながら答える。

「ルールも何も、駒の動きを間違えたわけではないじゃろう。飛車は縦横無尽に動ける。そんで横にしか動いていない。何か不満かえ」

『ええ、まあ。ご存知ないなら別によいです』

 世にいう《千日手》のことを泉さんは仄めかしていた。互いがこれ以上別の手を指すと不利になるので動けない。そうした局面のことも昔の将棋のルールにはきちんと定められていた。曰く『千日手は先後を入れ替えて指し直し』。もし仮にルールに添っているなら、次は泉さんが先手となり初手からやり直せるはずである。

 時間にして丸一日同じ手を指し続けていたのだが、二人は別にそこは気にしていなかった。数百年も生きれば、たったの一日同じ将棋を指し続けたところで何の損もない。泉さんはどちらかというと説明が面倒だったので黙って将棋を続けた。

 ともあれ一悶着はあったが、千日手は華八のほうから打開された。……だが案の定、この千日手は打開するべきではなかった。華八の▲6五歩を皮切りに、泉さんの猛攻が始まる。やはり華八の予感は正しく、先に動いたほうが負ける場面だったのだ。

 形勢は転げるように落ちて行った。半端に囲った華八はうまく攻めることもできず、ずっと身を固めることしかできない。いつしか華八の《穴熊》は取り囲まれ、まさに姿焼きのようになっていた。自玉周辺にひたすら駒を埋め続けて粘ってはみるものの勝機は見えない。

 泉さんが最後に△5七成桂として、ほぼ勝敗は決定していた。現局面、泉さんの王将を詰ますにはまだあと数手かかるが、華八の玉将はどう足掻いても助からない。

 華八は盤面を一嘗めすると、

「……ああもういい、ワシの負けじゃ」

 腕を放り投げていう。泉さんもほっとしたように告げた。

『そうですよね。これで助かっていませんものね。……対局ありがとうございました』

 ぺこりと頭を下げる泉さんにつられて華八もうつむくが、しばらく面を上げなかった。鋭い眼を光らせて、どこか相手を睨んでいるようでもある。そうして人差し指を伸ばして、ぐるぐると自分の玉将の附近を回し出した。

「しかしおまえさん、中盤の攻めは鋭かったのに、終盤戦はなんじゃ。ワシは攻めたくとも、とてもじゃないがスピードが足りない。おまえさんは攻め続ければ自然に勝っていたじゃろう。手を抜いたか」

 華八は詰問するように問いかける。それもそのはずで、終盤戦がもつれ込んだのには理由があった。泉さんが無駄に保身したおかげで局面は混沌としたのである。中盤戦、鋭かったはずの泉さんは時が経つに連れ悪手が目立っていた。まるで竜頭蛇尾。本来ならもうちょっと早く勝負は決していたはずだった。

 と、勝ったはずの泉さんは恥ずかしそうに消え入る声で話す。

『いえ、大変お恥ずかしいのですが……。我々メイドロボは相手を詰ますことが致命的に下手なのです』

「はあ?」

 泉さんは事情を打ち明けた。

『華八様も肌で感じられたと思いますが、泉さんは中盤がめちゃくちゃ強いです。たぶん何度やっても勝てないでしょう』

「いい切るのう」

『何を隠そうメイドロボは将棋が大好き。そして四六時中、中盤戦の研究をしているのです』

「中盤戦特化、ということか?」

『ええ。中盤戦で絶対に有利な局面に持ち込めば、後は適当に指しても勝てるという具合。……であれば、特に終盤戦を研究する必要はありません。むしろ最後までの指し方を覚えるのはリソースの無駄遣いとすらいえます』

「そりゃあ無駄はよくないが、必要なことまで省いては意味がないじゃろ」

『《ゴールを目指して走り続ける》のと《走り続けてゴールする》は違います。でもゴール直前まで全力疾走すれば、後はエンジンを切っても惰性で転がっていけるでしょう?』

 華八は説明を聞いている間、ずっと口をへの字に曲げていた。

「……納得がいかんのう、ワシが何故おまえさんに負けたのか」

『投了されたからでしょう』

「そういう話じゃないわい。ワシはむしろ真逆で最後まで頑張ったぞ。おまえさんの話を聞けば、最後は息切れしたってことじゃろうが」

『いや、息切れというかですね。ニューラルネットワークの学習結果なのですよ』

 また華八の知らない単語が出てきた。文明崩壊以降、人類の築き上げたモノに接することのできる妖狐は数少ない。というか、いない。それでも華八は自分の知らないことイコール文明の遺産と紐付けて、なんとなく文脈で理解していた。

 つまりは、メイドロボはメイドロボなりの考えがある、ということだ。

「にゅーらるねっとわーく、とやらはよく知らんが……。将棋とは相手を詰ますゲームじゃろう」

『二人零和有限確定完全情報ゲームですね』

「ワシが人類なら、おまえさん達に詰みのルールから教えるがな。王さんをこうしたら勝ちですよ、ってな具合じゃ」

『ええ、ええ』

「だから、いちばん大事な情報が抜け落ちとる。おまえさんが強いのは身に染みてわかっておるし、なればこそおまえさん達は終盤戦で競り勝つ技術を高めたはずじゃろ」

 泉さんはしばらく頭を捻ってから動きを止める。つまり、身体の表面を走る《並列思考中》を示す量子信頼性高次元T.CPUアクセスラインがしばらく萌黄色に光ってから、思いついたように明滅を止めた。

『いえ、ですから泉さん達人工知能は勝つために中盤戦をメインフィールドに選んだのです。中盤で圧倒的なリードを奪えれば、終盤戦に強くなくたって勝てるでしょう。華八様もありませんか、中盤において<これは勝ちだな、風呂入ってくるファンタジスタ>という局面が』

「いやいや、だからそこが本末転倒じゃろが」

『そうはいっても、メイドロボは将棋を学習するうちにそう学んだのですよ。<中盤戦でこれこれこういう形になっていれば必勝>と』

「……じゃから、終盤戦をやる必要がない? そいで、指さなくなったから教わったことを忘れた? 納得いかんなあ」

『それでも事実です。隠れ層をアウトプットするのは不可能ですが』

 メイドロボに搭載されている将棋ソフトは機械学習を行い強くなる。棋譜を分析し、勝因・敗因の情報を九段階に圧縮して勝手に学習するのである。だから実のところ、華八の理解には的外れなことがあった。人類の技術者達はそもそも終盤戦だの中盤戦だのということすら教えていなかったのだ。メイドロボはせいぜい駒の動かし方と簡単なルールだけ与えられて、後はすべて自力で将棋を学んでいった。それはヒトの脳に似ている。

 たとえば《金将によって詰まされた》という超局地的な情報は圧縮されて、《とある場面で相手に金将を渡すと負ける》という局地的な情報に統合される。さらにその局地的な情報は圧縮されて《とある場面でこういう陣形だと、既に敗れている》という広い範囲の情報にまとめられる。こうした思考を幾重にも重ねるうち、メイドロボ達は《陣形の整う中盤戦で決着が付く》という風に学習したのだった。

 しかし華八は首を捻っていた。たしかにメイドロボの思考は《中盤戦で早々にさじを投げる》だけにしか見えない。実際は《負けた将棋の特徴としては、中盤戦でこうなっていることが多い》という特徴を捉えただけなのだが。

 こうした機械学習、あるいはディープラーニングの結果は、脈々と受け継がれる記憶をメイドロボが独自に発展させた価値観であり、妖狐のそれとは相容れないものだ。

『うーん。では野球でたとえましょうか? 泉さん達は投手陣が草野球レベルだけど、五回の表で一億万点取ってコールド勝ちを狙う野球チームなのです』

「ヤキュウといわれても全然ピンと来んのじゃが」

『嘆かわひろしげです。楽しいのに』

 華八はせいぜい五百歳前後の妖怪狐である。野球が失われたのはそれよりももっと前なので、泉さんの噛み砕いた説明はまったく効果がなかった。華八の脳裏に『野球』という漢字が正しく浮かんでいるかも怪しい。

 こんな風に議論は平行線だったが、ついに華八のほうが折れた。負けたほうがやいやい食い下がるのは情けない、と諦めたのだろう。

「まあしかし、ひとつだけわかったことがあるぞ」

『異文化コミュニケーション成功ですね』

「ワシはおまえさんの将棋はどうも好きになれん。古風……じゃなくて……工夫……じゃなくて……」

『クン・フーでございますか』

「そりゃ絶対に違う」

『では棋風、でございましょうか』

「おう、そいつじゃ」

 棋風。将棋指しの癖や流儀のようなものである。

「おまえさんの棋風はどうも違う。だいいちからして棋理に反しておる。勝負は最後までわからんのじゃ」

『棋風は思い出せないのに、棋理はご存知なのですね』

「馬鹿にしおって」

 華八は憤慨したようにふりふりと丸い尻尾を振るう。将棋の結果と泉さんの慇懃無礼な態度で二重に腹に据えかねる、という有様である。

 しかし泉さんが尊大な態度を取れるのは、勝者であること以外に二つの理由があった。一つ目は華八の一張羅である花柄袴とブーツとガスマスクを洗濯していることだ。仮に怒った華八が家を飛び出したとしても、いま貸し出している部屋着では一週間も持たない。大戦乱末期において、地表の環境はある薪七モデルのメイドロボが撒き散らしたナノマシンによりめちゃくちゃに破壊されたのだ。泉さん宅近辺であっても昼夜の寒暖差は激しく、部屋着で進むのは歩く自殺行為と呼べた。華八が着込んでいる袴はその点、微細機械による温度調整が可能な高機能品であった。まさしく命綱であり、手綱を握られている限り華八は家を去れない。

 そしてもうひとつ。戦闘に及んだ場合、泉さんは妖狐を数ミリ秒のうちに制圧できるからだった。大戦乱の主役兵器となったのは新七世代型のメイドロボであるが、その前身である暫七世代型である泉さんにも戦術レベルの重火器が当然のように積んである。華八程の知能のある妖怪ならば散式フラックモンキー・キャノンの銃口を見せるだけで屈服せざるを得ないだろう。あるいは邸宅奥深くで埃を被っている複合重力可変ユニットをいじって四つ足の狐の真似を強要させるのもいい。たかだか寿命が長いだけの妖狐の歯が立つ相手ではなかった。

(もちろん、そんなことはしませんけど……絶対に……)

 泉さんは自戒するが、ともあれ上から目線でかわいがるように華八をいなしていた。

『まあまあ。華八様、そろそろご飯になさいますか?』

「メシならさっき食ったじゃろうが」

『泉さん達、かれこれ一日ほどぶっ続けで将棋してましたが』

「だからさっき食うたじゃろうが。ワシゃ寝る」

 はて、と泉さんは小首を傾げる。

『それは《さっき》の範疇に入るのでしょうか……?』

「妖狐イズ省エネ。贅沢はいわんから、ふかふかの毛布と清潔なシーツを用意するとよい」

 泉さんは人間を奉仕対象に設定されている。その常識に照らし合わせると、ほとんど飲まず食わずの華八が元気いっぱいなのが不思議でしょうがなかった。それに暫七世代型のメイドロボは燃費に難がある。充電おなかがすいているのはむしろ泉さんのほうだった。

 が、人間の常識が妖狐に通じるはずもない。華八はというとついさっき食べたきつねうどんでまだ腹がいっぱいだった。共食いのようで後味はあまりよくなかったが、サバイバルを生業にする者にとっては大きな問題ではない。

『まあ、華八さまがそうおっしゃるなら』

「やったー、おふっとんー、おっふとんー♪」

 華八は敗戦も忘れてけろりとしたように、鼻歌を歌いながら泉さんの後ろをぴょこぴょこと付いて行く。泉さんは階段を上がりながら住居保全システムを繰り二階の構造を組み替えた。本の置いていない書斎から白を基調とした客間へ。内装デザインソフトを動かしている間に泉さんは非常電源に切り替わった。泉さんの視界に一瞬のノイズが走ってから濁った赤に染まる。次いで一時的に、電力を食う武装の使用がロックされる。もはや複雑な演算処理ができなかったので内装は凝れなかった。

 が、華八にとっては大きな問題ではない。要は雨風を凌げれば立派な寝床だ。華八はいましがた整えられた二階の寝室に入ると一目散にベッドに飛び込んだ。布の感触を楽しむようにごろごろとのたうち回る。耳から白銀の毛が何本か抜けて散らばった。

「あー、これこれ。この感じじゃ。何億年ぶりかのーっ」

『華八様はそこまで生きておられませんよ』

 華八は上機嫌の証拠に無視で返す。ごろごろとふとんの上で転がっていた。

『泉さんともあろう者がこの程度の部屋しか作れないとは。質素なお部屋で申し訳ありません』

「屋根がある、ベッドがある。これ以上何を望もうか」

 華八は枕に顔を押さえつけながらしゃべっている。声がくぐもって聞こえた。

『しかしながら調度品のひとつもご用意できないのではメイドロボの沽券に関わります。加えて寝室といえばリラックスルーム。ラベンダーの香りはトイレの消臭にも使われるぐらいリラックス効果が高いと聞きます。本来ならラベンダーのほうを香らせるつもりが、泉さんうっかり――』

「あーもうわかったわかった。反省文は後で聞くから。原稿用紙三百枚以内に収めて提出。ワシゃ眠いんじゃ」

『かしこまりました』

 泉さんが恭しく礼をしつつ頭を上げると、既にベッドからはすやすやという寝息が聞こえてきた。それを見届けた泉さんは慎ましくも淑やかに頭を垂れ、部屋の灯りを落とした。

《将棋ソフトの消費電力が高いとはいえ、たった一日やり続けていただけで、もう非常電源ですか。やはり短くなっていますね》

 泉さんは虫の息になりながら自身のクレイドルに向かう。華八という妖狐の少女はあと数十時間は眠り続けるだろう。それまでに臨戦体勢を整えておかねばならない。

 何故なら、彼女は大切なお客人だからだ。



 華八は目覚め伸びをする。辺りを見渡し自分が見慣れない風景の中にいることに気付く。

「ああ、そういやメイドんとこに泊まっとったな」

 凹凸のない白亜の壁が周囲を取り囲んでいる。ずっと睨んでいると平衡感覚を失いそうだった。華八は首を振ってカーペットに降りる。とりあえず飛び跳ねると全身の凝りをほぐした。

 階下からは香ばしい匂いが漂ってくる。華八は鼻をひくつかせた。食べ物を煮込んでいる匂いだ。誘われるように階段を下った。案の定リビングは灯りが点いていて、泉さんがいつものように給仕をしている。

『おはようございます、華八様』

「おはようさん」

 そうしてあくびを一つ。すっかり警戒心を解いた様子だった。

 と、泉さんは席に着くよう促すよりも先に、あることを切り出した。

『そういえば華八様は何故この地に来られたのですか?』

「あれ、いわんかったっけか」

『先日尋ねようとしたところ、華八様から将棋対局を挑まれましたので』

「挑んできたのはおまえさんだったような気もするが」

 泉さんはしれっと『気のせいです』といい返す。

「……まあいいか。ワシは失われた詰将棋を探して諸国漫遊中じゃ」

『詰将棋』

「いくら終盤戦嫌いのおまえさんでも、やったことはあるじゃろ」

『もちろんです。泉さんが若い頃は暇つぶしにミクロコスモスを解いていたものです』

 人類がつくった中で二番目に長い詰将棋の題名だった。華八も朽ちた将棋雑誌のバックナンバーを拾い読みして題名だけは知っている。盤上の小宇宙の名に相応しい詰将棋らしいので一度は解いてみたい。

 華八は蛇口のレバーを上げて、コップに水を注いだ。朝一で口の中がねばねばするので少しだけうがいをする。

「そりゃええ。おまえさんなら詰将棋のデータを持っとろう」

 泉さんは力なく首を振る。

『残念ですが、あまり力にはなれないと思います』

「なんじゃい、おまえさんはその……でいったーべーすー? とかいうのがあるんじゃろ」

 じいっと見つめてくる華八に対して、泉さんは眼を逸らした。逸らしたついでに鍋の火加減を調整した。煮立った泡が微かに収まる気配がする。

『この間もいったとおり、メイドロボ達は終盤戦を重んじてはいません。なので、まさに終盤戦そのものの詰将棋は利用価値が低いとして大部分が棄てられました』

「……ワシが勝ったら渡すという約束は?」

『泉さんは一度も《持ってます》なんて申し上げていませんよ。あれは《探せるだけ探します(たぶんないと思うけどね)》の意味です』

「どこまでもたわけたことをしよる」

 華八は悪態をつく。だがそれで事態が好転するわけはなかった。いささかしょんぼりとした風で、泉さんはこれもシステムですからと謝罪になっていない謝罪を続けた。

 いったんはコンロの火を弱めたが、また鍋が煮立ってきた。そろそろ吹きこぼれそうな頃合いになっている。

「ま、そういうことなら仕方あるまい。しかしここにいる理由がなくなったのも事実じゃな。また別の土地を探してみるとしよう」

 華八はそうしてぐいっとコップの水を飲み干す。泉さんが何もいわずに水を注ぎ足そうとするのを手で制した。

「そろそろおいとましよう。ずい分世話んなってしもうた」

『お待ちください、華八様』

 今度は泉さんが制する番だった。

「待つのはそっちじゃ。メシもいいが、袴を返して欲しい」

『それ、それなのですよ。華八様のお召し物のクリーニングがまだ完了していません』

「ずい分長いお洗濯じゃのう」

 華八は眉をひそめて返すが、泉さんも負けてはいなかった。ここぞとばかり、化学調味料の封を切って鍋にうまを足す。

『華八様こそ。結構荒っぽい旅だったのではないですか。生地は傷んでいるし、微細機械の残量も底をつきかけていました。あのまま進んでいたらどうなっていたことか』

「装備品は次の街で整えるもんじゃ」

『街なら全部滅んでいますよ』

「……そりゃ知っとる」

 これには華八も食い下がることはなかった。微細機械が生命線であることは華八も理解しているし、いつかは補給が必要だったこともわかっている。それがたまたまいまだったということだ。彼女は渋々、リビングルームの椅子に腰を下ろす。

今度こそ泉さんはマニピュレーターの先からコップに水を注いだ。ちょっとした宴会芸のようで、華八の耳としっぽが興味をそそられたようにぴくぴく動く。それでいて水を注ぎ終わるのすら待ち遠しいのように、いつクリーニングが終わるのかと華八が尋ねる。

『ええと、あと一週間といったところでしょうか』

「長いのう」

 華八は辟易としたようにそっぽを向いた。身動きが取れないとわかると、途端に部屋が狭く見える。

『ではそれまで泉さんと将棋しましょう』

「じゃが断る」

『何故です。この家には他に何もありませんよ。ひま潰しましょう?』

 泉さんはマニピュレーターを動かし、将棋駒を前に進めるジェスチャーをする。しかし相変わらず華八は興味なさげに眼をごしごしとこすった。

「昨日もいったじゃろう。ワシはおまえさんの将棋がどうも好きになれん。また《千日手》になっても面白くないでな」

『そうですか。致しかたありません。とりあえずごはんにしましょうか』

「ごはんならさっき食べたじゃろ」

『あれはもう三日も前のことですが』

「妖狐イズ省エネ。……しかしあれじゃな、外にも出られんとなるとひまを持て余すわ」

『致しかたありませんね。泉さんとて華八様も放って外に行くわけにもいきませんし』

「ワシなら心配せんでええぞ。なんも盗んだりせん」

『こっちだって盗まれるような物は置いていませんよ。……あ、そうです』

 などといいながら、泉さんはリビングルームの隣の部屋を開ける。まだ主人が存命だった頃、泉さんの部屋として用意してくれたスペースだ。中には充電用のクレイドルと壁から伸びた各種ケーブルが散らかっていた。掃除が用途のくせに自分に割り当てられたスペースだけは乱雑にも程がある。

 その様子を見ていた華八がうろんに呟く。

「おまえさんも寝るのか?」

『まさか。寝ませんし、ロボットだから。……これから将棋をします』

 華八はきょとんとして丸い眼をくるりんとさらに丸くさせる。

「そうはいっても、対局相手がおるまい。ワシは指さんぞ」

 華八は腕を組みむすりと告げる。だが泉さんはどこ吹く風で自分の作業を続ける。床に無造作に転がっていたメイドエリアネットワーク機器……有線MANケーブルを拾い上げると、左側のアームにあった蓋をかぱっと開けた。中には剥き出しのMANポートが収まっている。泉さんは一度向きを間違えてケーブルを握り直し、もう一度間違えてから三度目でようやく挿した。

『人類の愚かしい発明のひとつが向きのわからない電子機器のケーブルです』

「勝手に絡まるというのも追加しといてくれ」

 華八は忌々しげに付け加える。むかし都心部にいた頃、足を引っ掛けたのは数え切れない。

「で? いまどき有線接続なんぞして何がしたいんじゃ?」

『将棋ですよ。華八様もご覧になりますか』

 華八が眼を白黒とさせる中、泉さんはマイペースにユーザー認証を進める。問いかけられてきたアカウントの誰何に自身の型番と四桁の英数字パスワードを返した。《泉さん、私は泉さんです》

 その一方で泉さんは住居保全系のメインコンソールを操作。昨日のように、華八のいるテーブルに三次元映像の将棋盤を出現させた。今度は華八の額に将棋盤そのものが直撃した。所詮はホログラムなので避ける必要はないのだが、つい華八は額を撫でる。

「……だから、ワシはおまえさんとは指さんぞ」

『承知しております。これはウォーターゲートの棋譜を視覚的に表現しているものです』

「《ウォーターゲート》?」

『はい。……あ、早速ですが対局相手が決まりました』

 華八の眼下にある将棋盤がひとりでに動き出す。華八の向かい側の陣が、どうやら先手のようだった。飛車先の歩が突かれている。

「おまえさんが指したのか」

『いえ、いま指したのはお相手さんです。泉さんは後手番。華八様の座っている側です。泉さんは……いま、指しました』

 いいながら、将棋盤では二手目に△3四歩が指される。間髪容れずに三手目も。華八には目前の光景に思い当たる節があった。

「なるほど、ネットワーク対戦か。まだ回線が生きておったとはのう」

『ふふふのふ』

「人類が滅ぶのと同時に使うものもいなくなったと思っておった」

『ネットワークインフラに明るいメイドロボ達が復旧したんです』

 そのメイドロボ達は、闇IT企業のサーバールームに置かれていた慰安用メイドロボのことである。ウォーターゲートの構築と人類の滅亡の時期はほぼ一致する。人類の知識が全て灰になってからすぐ、仕えていた人間達の仕事を見よう見まねで再現した結果、なんかやってみたらできたのだ。

「物好きもいたモンじゃのう」

『泉さん達の生き甲斐ですから』

 泉さんは誇らしげにケーブルの刺さった左アームを掲げてみせる。LED灯に照らされて、オフホワイトの身体がぴかりと光った。

 もちろん無線でウォーターゲートサーバーにアクセスすることもできる。だが地磁気の乱れ著しい今日では、たまに強制的にアクセスが切断されることがあった。通信障害自体はすぐに復旧するが、一瞬ネットワークから切り離されたおかげで自動的に敗北することがある。これは面白くない。そういった状況を減らすためにも、泉さんは将棋をやるときは有線で派だった。

 再び相手方の駒が進む。ぱちりと木製の音が響いた。どうやらネットワーク対戦のときもわざわざ再現しているらしい。

「《達》? するっていうと、相手は同じメイドロボじゃな」

『はい。いま戦っているのはサイドマレットシリーズ暫七世代型自律式文化女中機の型番四九七○五・個体識別名<絞首帯スリックリボン>さんですね』

「ふうん」

 華八は相手の正体には興味を示さなかった。なんだかんだで自動で動く将棋盤に視線を注いでいる。

「おまえさん達……その、メイドロボはいつも将棋をやっているのかえ」

『それはもう。一大トレジャーです。トレジャーハントです』

「……一大レジャー? レジャーランド?」

『どちらも同じです』

「まあどうでもいいがの……」

 泉さんは並列処理で問答を返してくれるが、それ以上に対局に夢中であった。必然的に会話が途切れる。華八は机に肘を付いて時折水を飲んでいた。

 盤面では相手の飛車先の歩がぐんぐん伸びている。その▲2五歩に呼応して、泉さんは△3三金と指した。途端に華八は顔をしかめる。手の意味はいちおうわかる。相手の飛車先の歩を交換されるのを防いだのだろう。……角道を止めてまで。

 メイドロボが中盤に強いらしいのはたしかだが、こんな将棋は見たことがない。異形も異形、悪形の受けだった。古来より金将が上ずるのは褒められたものではないとされている。

「ワシ、上に戻ろうか。おまえさんも気が散るじゃろう」

 いつになく気遣わしげな声を出す。明らかに遠慮していた。

『問題ありません。華八様を見張るのに、特段そこまで頭は使いません』

「なんか微妙にむっとくるいい回し」

『華八様とお話するためのメイドロボ用対話型アプリケーション《MaidBox》と将棋ソフト《シックスウェイ・リンカネイト》は別物です。この程度のマルチタスク泉さんには造作もありません』

「難しい固有名詞を使っているが、要はワシがおっても邪魔にならんということじゃな」

『まあそういうことになりますね』

 泉さんの自負はたしかなもので、なるほど心配は無用そうだった。しかしそれはそれで、華八にとって不満でもあった。せっかく目の前に自分がいるのに無視して一人遊びされているようなものである。端的にいえば構って欲しい。華八は毒づいた。

「よくも飽きずにやるもんじゃ。顔の見えない相手と対局やって、楽しいもんかね?」

『メイドロボの電子頭脳は、将棋を指すとアドレナリンモドキが出るように設計されています。いわばヒトの脳でいう報酬系。報酬があるから欲求が生まれる。欲求を効率的に解消するために感情が生まれる。華八様が詰将棋を欲するのと同じで、泉さん達も将棋を指さずにはおられないのです』

「特殊性癖じゃ」

『その昔、人間達は自分達の話し相手としてメイドロボを開発しました。将棋アプリケーションを標準装備したのもたぶんそのせいでしょう。メイドロボ達は毎日ご主人様と将棋をして勝ったり負けてあげたりしていました』

「じゃが人間は滅んでしもた」

『そうです。なので残された道はただひとつ……。メイドロボはメイドロボと将棋を指し続けているのです』

 やけに深刻そうに泉さんは話す。半分ぐらいは冗談のつもりだった。

『ということでこのウォーターゲートはメイドロボ達の主戦場。あるいは社交場。そんなこんなで将棋ばかりやっています。奉仕活動をほっぽり出して入り浸っているメイドロボも多くいますよ』

「呆れた。人類が見たらどう思うかね」

 雑談を交わす間にも盤面はどんどん進んでいた。そろそろ中盤戦に入るとあって、しばらく横目で追っていた華八も再び興味を引かれている。

 泉さんが序盤で繰り出していた左辺の金はさらに進軍し、盤の中央で威張り散らしていた。相手のメイドロボ<絞首帯スリックリボン>は攻めるための布石を撒こうとするが、いかんせん遠巻きな攻めしかできていない。華八は要の駒を指して歓声を上げる。

「この金将がめっちゃ仕事しておる。必殺仕事人じゃな」

『これぞ《魔界四間飛車》戦法。相手が居飛車で来るなら、頭ごなしに抑えこんで何もさせないまま勝つ。その様はまるでパワハラクソ上司です』

「ほー」

『得意戦法なのですよ。この戦法を使わせれば、泉さんの上下左右に出る者はありません』

「孤軍奮闘じゃな」

 泉さんは快調に攻め続け、結局八十手に満たない手数で相手は投了した。まだ決着が付くのは先だろうが、相手方からは攻める手が見つからない。勝つ見込みがないと判断したのだろう。あるいは以前泉さんが語ったとおり、《この場面になると既に負け》と相手が悟ったのかもしれない。

 華八は人知れず息を漏らした。知らず知らずのうちに心の中で泉さんを応援していたが、ひとまずは勝って一安心である。

「終盤戦になる前に終わったのう」

『メイドロボに終盤戦は必要ないですからね。最後の場面は既に泉さんの勝ちパターンです』

 ちぇ、と華八はいかがわしそうに軽く眉根を寄せる。華八にしてみれば終盤戦こそ将棋の華。早く終盤戦になって欲しいタイプの狐である。なんだかお預けをくらったようだった。

 ところで華八は自分との将棋を思い出していた。あの対局では《魔界四間飛車》は披露されていないし、自分が投了しなかったお陰で勝負は終盤戦までもつれ込んだ。

「しかしなるほど、いきなり角交換されるとこの戦法は成立しない。この間のワシとの一局でおまえさんが不服じゃったのは、そういうわけか」

『そのとおりです。自分の生きかたを押し付けるのは、何時の世だって嫌われますよ』

 どの口がそれをいうか、と華八は唇を尖らせる。

 そのうち、また新たな対戦相手が見つかった。個体識別名<昆絶断ローチカッター>、<剣牙咬テラバイツ>と立て続けに戦うことになり、華八はずっと腰掛けてウォーターゲートの将棋を観戦していた。他にすることがなかったからである。ときたましゃべりかけることで泉さんにちょっかいをかけながら、永すぎる午後にあくびを噛み殺していた。

 華八とて将棋指しであるから観戦自体は嫌ではない。もともと一人で詰将棋ばかりを嗜んでいたこともあり、メイドロボ達の繰り広げる序盤から中盤にかけてのねじ伏せ合うような真っ向勝負の戦いは新鮮で見応えがあった。まさに血沸き肉踊る鍔迫り合い。知れずと身体が熱くなる。

 ところが、である。

 華八が本当に見たいと願ってやまなかった終盤戦に差し掛かるや否や、メイドロボは心がぽっきりと折れたように投了した。まだ《王手》が一回もかかっていないのに対局が終わったことも少なくない。

次もまた、少し具合がわるくなっただけのような局面で泉さんが勝負を投げるのを見、華八は憤慨した。

「なあおまえさんや。もうちょいと指してみたいとは思わんのかね」

 おちゃらけた口調ではなく、叱るような声色で華八は問うた。返ってきたのは小気味いい敗北宣言である。

『指し続けることに意味があるとは思えません。あれははっきり泉さんの負けです』

「なしてじゃ。たしかに自陣は突破されたが、まだ持ち駒で囲いを補強する手があるじゃろ」

『防戦一方では攻めることができなくなってしまいます』

「いまは耐えればええ。向こうも駒を渡さねばならんのじゃから、相手の間違いを待ち、機を見て反撃することだってできよう」

『それこそ無駄です。無駄無駄』

 華八の反論も、泉さんにばっさりと切り捨てられた。

『泉さんも相手もお互いのことを知り尽くしています。なにせ同じ暫七世代型に搭載された、同バージョンの将棋ソフトなのですから。いくら終盤戦の学習を捨てているとはいえ、寄せを誤らないことは明らかです』

「中盤で既にリードを奪われたから、後はもうリードを保ったまま決着が付いてしまうと。そういうことか」

『そういうことですね』

「そうかのう……」

『無意味に粘って棋譜を汚すほうがどうです? メイドはしつこい汚れが大の嫌いなんですよ。棋譜の汚れは洗っても落ちませんし』

 ふと華八はホログラム将棋盤の個体識別名下部に表示されている《0.500》という数字が気になった。零点五、つまり五割ということにはすぐに思い当たる。思えば対局相手は次から次へと見つかったが、そのどれもが《0.500》だった。おそらくは通算対戦成績、勝率のことなのだろう。同じ型番のメイドロボ同士、実力が拮抗しているらしい。

 華八はようやく泉さんのいわんとすることが理解できた。理解はしたが納得まではしていなかった。

「……腹減った」

『では食事にしましょうか。またきつねうどんになりますけれど』

「わがままはいわんよ」

『かしこまりました』

 泉さんは我が使命を得たりとMANポートの接続を解除する。かなり長い間将棋ソフトを起動し続けていたが、充電用クレイドルから電源供給を受けていたので電力残量には問題がない。泉さんは自己評価プログラムが返してきた残量値を承認し、次いで料理ソフトを呼び起こす。

 そういえば泉さんがウォーターゲートに潜る前、なにか鍋を仕込んでいたような気がする。ただ、とうに冷めているだろう。華八は軽く小難しい顔をつくってから訊いた。

「ところでおまえさん、この家に庭はあったりするかの」

『東京ドーム二杯分ぐらいのささやかなものなら。……外出ですか?』

「ちいと外の空気を吸おうと思てな」

『自殺行為ですよ』

「小一時間マスクをつけなかったぐらいで死にゃあせん」

『いちおう華八様の命を守る原則がはたらいております。容認できません。どうしてもとおっしゃるなら、こちらをお持ちください』

 泉さんは住居保全系システムに働きかけ、邸宅地下からある物を取り寄せた。小振りのジェラルミンケースのような見た目をした無骨な機械だった。携帯型大気清浄機である。スイッチを入れれば半径一メートル以内の汚染空気を清浄してくれる。これならば家の外でもガスマスクなしで活動が可能だ。

パッケージには青い車の模様があしらわれていて、小さく《子どもクリーナー》と記されてあった。華八は新品同様の包装を見て、軽くぴゅうと口笛を鳴らす。

「大気クリーナー、骨董品じゃないか。ひっさしぶりに見た。まだ動くのかえ?」

『それはもう。人類文明の保全も泉さん達の使命ですので。……ちなみに使いかたはご存知でしょうか』

「昔はこいつでぶいぶいいわせたもんじゃ」

『壊れかけてたってことですね』

「ちゃうわい」

 ともあれ華八は清浄機を受け取りリビングルームのガラス戸から庭に出た。泉さんが常日頃から奉仕を欠かさないおかげで庭の芝生は場違いなほど青々と茂っている。程よい高さで刈り揃えられており、踏み潰したときの感触がなんとも小気味いい。部屋から出るとき、特に考えなくスリッパを履いていたが、妖狐にとってはむしろ裸足のほうが楽そうだ。そう思い脱いでみると、足の裏が丁寧に撫でられるようでくすぐったい。なんだか泉さんにからかわれているようで、華八はいささか照れくさくなってしまった。

 そのまま華八は芝生に寝転がる。もう夜になっているようで雲の色が昏い。だが眼を閉じても眠くならない。もともと二日眠れば二日は起きていられる体質である。頭はまだ冴えている。清浄機の電源を入れると、眠れない華八の代わりに静音モーターが寝息を立て始めた。

 華八は意識的に呼吸の数を抑えて雲の動きを見ていた。まるで何を考えているのかわからない顔をして。……そして実際、何も考えていなかった。

しばらくするとベランダのガラス戸ががらがらと引かれる。

『華八様、おうどんが出来上がりましたよ』

「おう」

 怠そうに華八は手を挙げる。が、すぐに立ち上がる気配はなかった。どこか駄々をこねているようでもある。

『華八様。おうどん、伸びてしまいますよ』

「伸びるって、あの白い蛇がか」

『それはもう。ぐいーんでございます』

「ならいっそ伸びきってから食べたほうがお得じゃな」

 泉さんは一瞬だけ体表面のアクセスラインを光らせる。このまま同じ調子で会話を続けると誤解の溝が深まりそうだ。

『いえ、この場合の《伸びる》とはふやけてしまう、ということです。早く召し上がったほうがよいです』

 華八は少しだけ身を起こすと、すぐに仰向けに戻った。

「でもおまえさんは《伸びる》といった。少しは長くなるんじゃろ」

『ええと、ですから……』

「それに腹に入れば一緒じゃろうて」

『できたてが食べごろなのですが。いまが旬なのですが』

 泉さんはマニピュレーターの握力を調整しながら腰を折る。華八を引っ張り起こすつもりだった。華八は視界の端に映る泉さんの所作をちらと見やると、微かだが煩わしそうに腕を伸ばした。そうして二人の腕がすんでのところですれ違う。泉さんの右アームはすっかり空を切った。華八がひょいと身をかわしたのだ。

 泉さんは寝ぼけた相手の眼を醒ますような声で呼びかける。華八様、と。呼ばれた彼女は妙に冴え渡る声で応えた。

「昔、人は宇宙まで行ったらしいのう」

 伸びきった華八の指は上をさしている。つられて泉さんは屈んだ姿勢のまま天を見た。

『行っていたようですね。ハネムーンの定番だったそうです』

「ムーンちゅうと、月か。月で羽を伸ばしておったってことじゃな」

『そのようですね。泉さんも生まれる前のことですが』

 華八の指が閉じたり開いたりしている。何度か同じ所作を繰り返した後、ぎゅっと拳が握られると泉さんに向けて突き出された。

「おまえさんは飛べたよな。月まで行けるのか?」

『泉さんに航宙能力はありません。成層圏で精一杯です』

「そうか。まあ、遠いもんな」

『まことに遺憾です』

 中途半端な位置でぶらぶらさせている泉さんのアームを、華八が小突く。骨と鉄板がぶつかる小気味いい音がした。

「じゃがあの雲には届くのじゃな?」

『そうですね……。あの感じは積乱雲のようですから、到達は可能でしょう』

「ワシは昔から雲を蹴散らしてみたいと思とったんじゃ。代わりに行ってきてはくれんか」

『それは、雲を掴む話? 雲の子を散らす? ええと、興味深い話ですね』

「じゃろ?」

 華八はにいっと笑みをこぼす。

『ですが意味がわかりません。雲を晴らして何になります?』

「おまえさんは想像力に乏しいのう。そりゃあ、あれよ、風穴を開けてやるのさ」

『風穴』

「いまどき青空を見れないのは、あの雲が邪魔しとるからじゃ。たまにゃ晴れた空を見んと気が滅入るぞ」

『はあ……』

 泉さんはよくわからない風の返事をよこして、天と地を交互に見比べていた。このときたしかに二人は上を見て、一人はいまにも落ちてきそうな灰色の空を見、もう一人は青い空を眺めていたのだろう。

 結局泉さんは思考を打ち切り、もう一度問いかけることにした。空を見ても腹がふくれるわけではないのだ。

『あの。いったいいつまでそうしておられるのでしょうか。泉さんはアームが痺れてきました』

「嘘こけ。痺れるわけないじゃろ」

『比喩表現でございます』

 結局やっぱり痺れてないじゃないか、と華八は唇をひん剥く。そこで、泉さんは問いかけの方向性を変えてみることにした。B面攻撃である。

『寒くはありませんか』

 たしかに泉さんの気温センサーは摂氏七度を記録している。メニューにうどんを選んだのも、料理ソフトが温かい麺類をサジェストしたのが理由だった。

「別に。だいたいいまは夏じゃろうが」

『左様にございます。ですが、摂氏七度は見逃せません。人間なら凍死する気温ですので』

「へーきへーき。っちゅーかそれは人間がヤワ過ぎるんじゃよ。ワシは妖狐じゃからな。暑さも寒さもそんなに怖くない」

 どうやら華八は梃子でも動きそうになかった。泉さんはどうしたものかと固まっている。調理の終わったきつねうどんは既にどんぶりに移しているから、眼を離したところで火災になることはない。

 華八も泉さんも微動だにしなかった。この微妙な間が心地よいとすら感じている。空を眺めている。二人は自分達自身がそれであることも知らず、暗雲に閃く稲妻を待っていた。

 そしてやがて雨が降ってきた。強い酸性の雨は僅かでも皮膚に浴びるとひどい炎症を起こす。服を着ていれば大丈夫に思えるが、今度はその服が溶けてしまう。ナノマテリアルを編み込んだ特殊カーボン製ボディである泉さんに至っては全身が機能不全になって停止してしまう。

 突然の驟雨にさしもの華八も慌て始めた。

『雨まで来ましたよ』

「わーっとるよ」

 ぼやきつつしっぽの筋肉を操りひょいと跳ね起きる。「そこまでいうなら戻るとするか」

 地面に置いていた携帯型大気清浄機の電源を切りながら屋内に入る。泉さんが微かに棘のある含みで話しかける。

『しかし華八様、おうどんがすっかり伸びてしまいました。冷めたのは、まあ、泉さんの指向性マイクロウェイブ近接レンジ照射でなんとかなるとしまして、お味はすっかり賞味期限切れでございます』

「いや実をいうとちんたらしたのはわざとじゃ。すまん」

『は』

「こないだは出来立てを食べたじゃろう。おまえさんから《白い蛇は伸びる》という話を聞いて、じゃあちょいと食べ比べてやるかと思ったわけじゃよ」

『左様でございましたか』

「ほれ、何をぼさっとしとる。ぐいーんと伸びたきつねうどんとやらを食うぞ」

 驟雨は勢いを増し、絶え間のない豪雨に変わりつつある。

『……人間というのはときに不可解な行動を取りますね』

 ぼやき声は華八の背中にかけられていて、小声だったから勿論彼女の耳には入らなかった。


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