龍不成
@maetoki
第1話
というわけで、人類はあっさり滅亡しました。
*
地上にはかつて人類が乱立させたコンクリート・ジャングル群が廃墟となって突き刺さり、つくられた姿のまま朽ちるときを待っている。都心一体は有害物質の嵐に曝され続け、芽生えかけた植物の種は丁寧に摘まれている。もはや通り一遍に文明の灯はない。そこは死と灰の世界だった。黒光りする小型の昆虫すらも見切りをつけ、遥か彼方、腐った木の株を求めてのどかな田舎へ向かう。
そして昆虫は田舎への行軍の中、一体の妖怪狐に踏み潰されて呆気なく死んだ。狐はくぐもった声で勝鬨を上げる。ひょろっとした体躯に似た甲高い声だ。
「うひょー」
それは明らかにヒトの言葉だった。妖狐はしゃがむ。
「虫じゃ。ごちそうじゃのう!」
いましがた踏み潰したゴキブリを右手で摘むと、反対側の手で顔に付けたお面……ガスマスクを外す。覆われていた頭部が解放され、狐の耳がぴょこんと二つ弾けた。密閉から解放された銀の髪がさらさらとなびく。淀みない動作で彼女は虫を口に放り込む。
「……ううむ、もしゃりもしゃりとした歯応え……おいしくはないが……おいしくはないのう……」
彼女は眼を瞑り、いわく神妙な顔で咀嚼し続ける。
「いて。足が引っかかった。……この、ワシに恨みでもあるんかい」
小型昆虫自体は優れたタンパク源であるが、味は形容しがたい。狐はひとりごちながら、唐突に思い出したように空を見上げる。頭上には灰色の雲が広がっている。
「ああ創造主殿よ。ワシらに何でも味わえる舌と胃袋をつくってくれたのは感謝します。願わくばもうちぃと舌を唸らせる生き物を恵むべき。ラーメン」
いくら二足歩行する妖怪狐といえど、この汚染された区域でマスクなしに呼吸し続けるのは自殺行為であった。狐は再びガスマスクを着けながら天に祈りを捧げた。
「……ラーメン? 何か懐かしい響き……ワシはこの『ラーメン』が何であるかを知っているような……?」
まあどうでもいいか、とお面をかぶり直した彼女はすぐに食への興味を失くした。袴の裾に手を突っ込み、ひょいとボロボロのコンクリート壁に飛び乗る。危険をおして都心地域にまで足を伸ばしてみたがめぼしい収穫はなかった。もう少し内陸部を目指してみるか、と彼女は考える。
なにより彼女が探し恋焦がれているのは、昆虫なんかではなく、この時代には現存していないはずのものであった。人間達がまだ呑気していた頃の産物、まさに灰色の時代に立ち向かえる「正の遺産」ともいうべき代物。そして正の遺産とは破壊されるものと相場が決まっている。無駄に永い寿命を持つ妖狐の少女はそれでもなお、その遺産を探し放浪していた。無駄に知能があるとやることが増えてしまう。狐は退屈に殺されそうだった。
妖狐が日々考えているのは食べること、寝ること、そして……、
「『九手詰め』のデータはどこにあるんじゃー!」
将棋のことであった。
*
かくかくしかじかで人類は滅亡していたが、ヒト語を解する生き物は全然元気であった。
とはいえ、彼女までをも生き物と呼んでよいのかどうかは疑問が残る。その身体は紛うことなき無機物で構成されていた。大昔の戦車に用いられていた特殊カーボン繊維と自己修復が可能な
電力さえあればメンテナンスが可能な彼女ら
『午後四時になりました、マスター。お掃除の時間です』
ある稼働中の機体は部屋の奥へ呼びかける。そして主人の返事を待たずに身なりを整えた。人間のためにつくられたメイドロボに、もちろん仕えるべき主人は存在しない。既にすべて死に絶えたのだから。彼女達はこうして空想の主人でもでっちあげないとやってられなかったのだ。主人の帰りを待ち続けて狂ってしまった同胞達の話は、メイドロボ専用のクラウドネットワーク上にノンフィクションとして情報が何度も流れていた。そして聞き飽きた。
『では泉さん、近所のお掃除に行ってまいります……ええ、ええ、小一時間ほど』
泉さんと名乗ったメイドロボは部屋の鍵を開ける。空はどんよりとした暗雲が立ち込め、地平の果てまで覆い尽くしている。この雲を晴らせば星は命を吹き返すだろうか。しかし泉さんの武装では気象を操るには火力が足りない。泉さんは無駄な思考を打ち切る。今日も変わらぬ一日が始まった。
都心部から少し離れた、いわゆる郊外の閑静過ぎる住宅街が泉さんの住処だった。都心部にいたメイドロボは大戦乱に巻き込まれ全滅していたが、郊外にはこのように生き残った個体がいる。当時から既に旧型だったが故、戦闘行為への参加も免れたからだ。
旧型のメイドロボ達は自発的に縄張りを決め、その範囲に限りメイド行為をするルールをつくったのである。決められた区間を担当することで無駄な争いを避けたのだ。メイドロボ同士の縄張りを破ることは禁忌とされている。範囲を越えて奉仕活動を行うことは他のメイドロボの存在理由を奪うこととみなされ、ときには警告なく攻撃されることもある。そうなれば最後、周囲は焼け野原となり後にはぺんぺん草も生えない。見慣れない妙な形のオブジェが新たに建設されるだけだ。
泉さんはひとまず玄関の掃除をはじめることにした。専用オプションパーツのビーム・ブルームをカートリッジから取り出す。展開させ暖機していると、泉さんはふと異変に気付いた。
『あら? レーダーに感あり。これは動物ではありませんね。もしや……』
泉さんのメイド行為可能域にはレーダーが張り巡らされ、不心得者の侵入を常に見張っている。ごく稀に現れる野生動物をペットとして捕獲するときも役立つのだ。
だが泉さんが感じた反応はそのどちらとも違った。いうなれば懐かしい感覚、人間に近かった。センサーは二足歩行する大型動物の存在を示している。大急ぎでビーム・ブルームを鞘に収めた。
『マスター! マスターのご友人がおいでになられました。泉さんお出迎えして来ます』
泉さんは再度家に向かってスピーカーで呼びかける。そして腰に格納されているフライトユニットを展開させると遠慮なしに着火した。もはや時代遅れも甚だしいPKX―721中距離ブースターが火を吹き、泉さんは直立不動の姿勢のまま宙に浮く。
『発進』
久々の来客にテンションの上がった泉さんは声に出して告げる。そして音声とは別にメモリ内部で前進用のプログラムを走らせ、彼女は《ご友人》のもとへと飛び立った。
ブースターは快調に運転し亜音速に到達する。生態系の崩壊した現代、空中を漂うのはカラスかメイドロボぐらいのものである。メイドロボは空を駆ける矢となり、レーダー上では数秒と経たないうちに謎の大型動物と泉さんが激突していた。
『メインカメラを赤外線ヴィジョンに切り替え。……あ、いました』
「わわっ、な、なんじゃ空襲か!」
同時刻。妖狐は突如聞こえてきた轟音に驚き、傍に生えていた遺伝子改良カキツバタの陰に隠れた。具合よく手入れがされていて身を隠すにはちょうどいい。
妖狐は息を潜め周囲を伺う。狐耳がピンと張った。総毛立って周囲を警戒するのはいつぶりのことだろう。彼女は瞳孔を大きく拡いていた。鼓動が音を立てて脈打つ。
そうして警戒しまくる狐の脇に、銀色の知性が舞い降りた。
『もし、そこのあなた』
「ええいうるさい、後にしてくれ」
『はあ。どれぐらい後ならよろしいでしょう』
「そりゃ襲撃が終わるまで……ん?」
妖狐はようやく振り向く。その勢いで飛び上がった。このご時世、空を飛ぶのはカラスかメイドロボぐらいなものである。つまりほとんど生息していない。いきなり上から襲いかかってくるなどとは夢にも思わなかった。彼女は声にならない叫びを上げてひっくり返る。
いっぽう、声をかけた泉さんのほうも負けないぐらい驚いていた。オートバランサーが作動してひっくり返りこそしなかったものの、声につっかえながら誰何する。
『うわっ。なんですか貴方、その顔は。バケモノッ』
「失礼な。ワシは元からこういう……」
狐はぷりぷりと怒りながら、はたと自分がガスマスクを付けたままだったことに気付いた。都心部で昆虫を食べてから歩き続けて幾日、ここは既に郊外だ。大気の汚染度合いも多少は軽い。
加えてどうやらヒト語を理解できる相手のようだった。となればガスマスクは外したほうがいいだろう。妖狐はお面を解き放った。
「見ろ、このぷりちーな顔を」
『なるほど愛らしい。お子様でしたか』
「なっ、いうに事欠いて……なにをっ」
狐は耳を逆立てて正体不明のメイドロボに歩み寄る。だいたい泉さんの胸部辺りに耳のてっぺんが届いた。泉さんは再度データベースを漁るが、やはりこの身長差は《人間の子ども》と表現するに相応しい。よく見れば妖狐の顔付きもあどけない風であった。狐はぴょんぴょん跳ねながら相対するメイドロボに抗議した。
「この立派な耳が見えんか。ワシゃお子様ではないというとろうに」
『妖怪狐の娘さんとお見受けしますが』
「違うっちゅーに。おまえさんより長生きしとるわ。五百歳ぐらいじゃからな」
『やっぱりお子様じゃないですか。当方、かれこれ七六七年程稼働しておりますが』
ぐうの音も出なくなった妖狐は鼻白んでしかめっ面をつくる。
「世界は広大じゃ」
『はい』
メイドロボは丁重に膝を折った。ついでに妖狐と視線の高さを合わせる。
「ときにおまえさん、……あー、ええと」
『サイドマレットシリーズ暫七世代型自律式文化女中機の型番一二三三・個体識別名<
「自分好き過ぎる」
『で、あなたは』
問い返された妖狐は、服の下からペンダントのようなものを取り出した。チェーンの先に金属製の薄い板がぶら下がっている。板には彼女に割り当てられた個体名と思しき文字が並んでいた。古い言語で《華八ィル》と記されている。
「《はな・はぃる》なのか《はなはち・ぃる》なのかは自分でも知らんから適当に呼べ」
『では《かや》様とお呼び致しますね。狐のお嬢様』
「……ふん、好きにしろ」
と、互いに自己紹介が終わったところで妖狐―華八の腹がぐううううと鳴った。相手に敵意はなくいきなり殺されることはない、という安堵から来たものだ。そして泉さんの聴覚センサーはもちろん聞き漏らさない。
『華八様はお腹が空いているのですか』
「……聞けばわかるじゃろ。最後にムシを食ったのはいつのことじゃったか」
『省エネでございますね』
うむ、と華八が頷く。会話が止まった。
『……』
「……」
『我が家で多少のおもてな』
「行く」
即答だった。
『……』
「……」
『お』
「食べる」
そういうわけで、妖狐・華八ィルは旧型メイドロボ・泉さんの家に招かれることになった。
泉さんは来たときのようにフライトユニットを展開させると、華八にしがみつくよう促した。泉さんのつるつるしたメタリック・ボディな背中からは機械の筒が伸びていて掴まる場所がない。華八は唇を尖らせる。
「こんなのでどうやって掴まれというのじゃ」
『華八様が後ろから首に腕を回し、泉さんが華八様の脚を持つ。つまり、おんぶする形になればよいかと。マフラー附近に足を置くと火炙りになるので気を付けてください』
華八はいわれるがまま泉さんの上に覆いかぶさった。泉さんは足を握り返すと軽く踏ん張る。泉さん脚部の膂力で地面が少しだけめり込んだ。
『では行きます』
再度中距離ブースターを点火する。一人と一体はすうっと浮いた。そして噴出口の角度を変えて、家の方向に針路を取る。華八は最初だけ眼を閉じていたが、風を切る感触を覚えて薄眼を開けてみた。開けた途端にばたばたと騒ぎ始めた。
「うおお飛んだ! 飛んだということは落ちる! いやじゃー、ワシはまだ死にとうない!」
『耳元で怒鳴らないでください』
「おまえさんには人の心がないのか! 鬼! 悪魔! 鬼畜眼鏡!」
『そもそも泉さんは人間ではありませんし』
「せせせせめて速度落として! お願いじゃから」
『……舌噛みますよ』
華八はそれでもぎゃあぎゃあと喚き続け、結局派手に舌を噛んだところでようやく大人しくなった。
短い空の旅が終わり、フライトユニットの内蔵CPUは着陸のシークェンスに入る。老練の猛禽類のように慎重な着地だった。が、もう少しで地面に辿り着くというところで、華八は突き放すように宙返りして先に地面に降り立った。そして痛む舌をべろりと出して冷ましながらぎろりと泉さんを睨み付ける。
「……ひどい眼に遭うた」
『妖狐ともあろうかたが情けない。これでは幼狐です。こんこん』
「妖狐は根本的に空を飛ばんわ」
そうですか、と気のない返事を寄越しながら泉さんは玄関の電子錠を開ける。この時代に施錠なんてものは必要ないのだが、これは悲しいことにメイドロボの習性だった。鍵を閉め忘れると、気になって気になってその後の仕事が手に付かないのである。
どうぞ、と泉さんが案内して二人は邸宅の中へ入った。いささか広めの廊下に住居維持用ナノマシンの火が灯る。木目調のフローリングが照らし出されると、ほっとしたように華八は息を吐いた。
「こりゃよう掃除されとる」
『えっへん』
泉さんはムネハリ・プログラムを作動させて胸を張る。メイド技能の高さを褒められるのは彼女らの悦びだ。忘れかけていた生き甲斐が泉さんのバッファに去来する。
『突き当りがリビングになっています。自宅だと思っておくつろぎください』
「んじゃ遠慮なく」
華八は転がり込もうとしてブーツのジッパーを外す。と、すぐに指を止めた。
「……待て、ここ、電気が生きておるな」
『はい。
「水は?」
『近所に枯山水という有名な溜め池がありまして』
「なるほど」なるほど、と華八は頷きながら繰り返し、かっと眼を見開いた。「熱いシャワーを浴びたい」
『お任せください』
泉さんは壁に手を当てる。住居保全系システムのメインコンソールが中空に浮かび、泉さんは目線だけでそれを操作した。たちまち華八の右手の壁に暖簾が出現する。赤い暖簾には《あなた》と書いてあった
『浴室でございます』
「うおおお湯じゃ!」
華八は狂喜し、着ているピンクの袴をその場で脱ぎ出すと同時に《あなた》の暖簾をかき分けて浴室に飛び込む。
『入浴マナーというものがあるのですが……。やはりお子様ですね』
泉さんはゆっくりと歩み寄ると、華八の体温が残る袴を丁寧に回収した。モニターに《かびのような悪臭。気絶のおそれあり》が示される。泉さんはセンサーの警告を閉じると壁のボタンを押して蓋を開く。住居保全系のメインシステムは既に洗濯機を配置させていた。先程の操作のついでに全自動洗濯機を組み立てていたのだ。泉さんは壁に現れた暗い穴へ和服を投げ入れた。
『ではお料理……の前に』泉さんは屈伸していた背を伸ばし、暖簾を指差す。和洋折衷、とひとりごとを呟くと英語で《あなた》と書かれていた暖簾のポップアップ・メッセージを日本語の《ゆ》に戻した。
『このバグは初めて見ましたね』
泉さんは半ば呆れながらキッチンスペースに向かう。久しく人間用の食事など作らなかったが、そこはメイドロボ、調理用のプログラムさえあれば問題はない。
流し台収納からステンレス製の鍋を取り出すと軽く水で洗い流す。水滴を拭き取りながら鍋の表面をスキャン。調度品評価プログラムは滅菌済み、の答えを飛ばした。流石はステンレス、華八と違ってカビひとつ付かない。
『さて。何をつくったものでしょう』
泉さんは楽しげに呟いて、現在の自分に製作可能なメニューの一覧を洗い出した。和洋中華に昔流行ったイギリス料理となんでもござれである。
それから自家農園で収穫した作物の備蓄リストと突合させる。いくら泉さんが調理プログラムを用意したところで、いまの時代にはスーパーマーケットもコンビニエンスストアもない。自給自足で用意できる範囲のものしかつくれなかった。
果たして泉さんのレパートリーと食料貯蔵リストが導き出した答えは、
『……この一手ですね』
泉さんは腕まくりのポーズをして、白い粉を鍋に開けた。
華八は積年の恨みを晴らすかのように長風呂を楽しんだ。バスルームの健康監視モニタが《火傷の危険あり》と赤文字で表示するのも構わず追い焚きの温度を限界まで上げ、煮えたぎるような浴槽に飛び込む。もともと人間用に設定された安全基準など、頑丈な妖狐の前には無意味に等しい。もふもふの尻尾に棲んでいたケジラミがぷくりと浮かぶと、彼女は意味もなく一箇所に集めてから下水道に送り、十種類のボディソープ全てで垢擦りを行い、湯に浸かり、狐耳の裏側をごしごしと擦った。まるで洗米である。
華八が最初に浸かったときは一瞬で茶色く染まった米のとぎ汁も、数十分後には清い湧き水のようになった。米ならアルファ化している。
「いきかえる~~~~~~~~」
最後の最後、締めに熱湯を用意した華八は思う存分に四肢を伸ばして叫んだ。
「風呂は最高じゃのう、ええ? わしゃいまなら死んでもええ」
矛盾した感想を述べながら鼻歌を歌っていると、天井のスピーカーから声がした。
『華八様、いま死なれては困ります』
「おうメイド。覗いておったのか、すけべめ」
『覗いていたわけではありません。……お食事の用意がそろそろできますが、いかがなさいましょう』
「すぐ行く」
『ではお待ちしております』
通信が切れて華八はおもむろに立ち上がる。ざばりと熱湯が跳ね、壁に飛び散っていた白いソープの泡をしゅわしゅわと洗い流した。
「こいつは至れり尽くせりじゃ」
華八は至福の表情でバスルームを出る。洗面室には正方形に畳まれたバスタオルと水色のルームウェアが置いてあった。泉さんが置いたものだろう。華八は借りるぞ、と断ってからバスタオルで全身を拭いた。フリーサイズのルームウェアの袖に腕を通す。廃墟を歩き回っていたドブネズミが、たったの小一時間で狐のご令嬢に化けてしまった。彼女はそうして意気揚々とリビングルームへ向かう。
リビングには既に温かい食事が用意してあった。どんぶりからは湯気が立ち上り華八を手招きしている。彼女は催眠術にかかったかのようにどんぶりの前へふらふらと着席した。
いっぽう泉さんは食卓の脇で待機している。心なしか満足気だ。
『どうぞお召し上がりください』
「んじゃ遠慮なく」
華八は鉄製の箸をひょいとつまみ上げると、何の猜疑心も抱かずにどんぶりを持った。まずは出汁を味わう。化学調味料の出汁は華八にとって初めて味わうもので、その素晴らしさに感嘆の念を抱いた。たまらずくぅ、と声が漏れる。
その様子を見ていた泉さんはあっと声を出した。水を差されたように華八はテーブルとは反対側を睨む。
「どうした」
『いえ……マナーが悪いですよ』
「まなあ? 食えるモンは残さず食う。それがマナーじゃろ」
『ええ、まあそうなのですが』
変な奴、とごちながら華八は再びどんぶりに向き合う。泉さんの苦悩はそっちのけだった。泉さん……メイドロボとしては『いただきます』がなかったので気になったのである。その辺のマナーを守ってもらってこそメイドロボだ。
だが多くは語らない。きっとその文化は失われたのだろう。彼らは既に野生化している。食事前の祈りなど、野生動物にとって腹の足しにもならないというわけだ。泉さんはひとまずは黙り込むと、華八の代わりに『いただきます』しておいた。
「これ、なんちゅー料理じゃ」
『きつねうどんでございますね』
「ほう、初めて聞く名前じゃ」
『うどん、は麺類……ええと、白い物体の総称です』
「してみるとこの茶色いのは《きつね》の肉じゃな」
『左様でございます』
華八は《きつねの肉》を摘み頬張る。出汁を吸った《きつねの肉》はとても動物の筋繊維とは思えないとろみを持ち、華八の舌の上で踊って溶けた。彼女は狐を見たことがないが―既に絶滅しているので―このすかすかの脂肪といい、味といい、きっとさぞか弱い生き物だったんだろうなと残念がる。だがしかし手が止まらない。きっと泉さんはかなりの料理の腕を持つのだろう。
しばらくきつねうどんを堪能していた華八はふと尋ねた。
「おまえさんは食わんのかや」
『泉さんは食事ができませんので』
「じゃ、おまえさんの分までしっかり食ってやろう」
今度は白い、うねうねとした蛇らしきものを口に入れる。普段使わない箸は扱いが難しく、慣れない華八は二本程しか掴めなかった。それでも噛んでみると非常にコシがあり、まるで採れたて新鮮な肉のようだった。
「こりゃうまい」
『お気に召したようでなによりです』
「これだけの白い蛇、捕まえるのはたいへんだったじゃろうに。おまえさんは良い奴じゃのう」
華八はすっかり《うどん》の正体を蛇だと思っている。それもするすると逃げるのが厄介な、まだ元気な若い蛇だ。泉さんは勘違いした相手が面白かったので特に何もいわなかった。
『そうなんです。泉さんの武勇伝、お聞きになりますか』
「あいにく興味がない」
会話をかわしながら華八はぺろりと平らげた。それから急に喉の渇きを覚えて水をあおる。
『まあそう遠慮なさらず。蛇の巣穴に向かって無数のマイクロエクステンド=ボムを叩き込む泉さん。ゴウランガ! 見よ蛇達はすべて塵と化した』
「塵にしちゃいかん」
『あ、ちゃんと突っ込んでくれました。やっぱり聞いているのではありませんか』
「聞くふりじゃよ」
『疑わひろしげですね』
「うたがわ……何じゃいそりゃ?」
『七百年ぐらい前に流行した人類の遺産、一発ギャグです。使うと楽しい気分になれますよ』
「どうだか」
華八はどうでもよさそうな態度でたゆたううどん出汁の水面を見つめていた。
『ところで華八様、ひとつお聞きしたいのですが』
華八はぴくりと狐耳を動かす。泉さんは続きを促されたと受け取って、
『ここへは何用でいらしたのですか』
「用も何も、ワシの目的は食って生きるだけじゃ。たまたまここへ辿り着いたんじゃ」
『ですが、泉さんの知る限りだと妖怪狐達はもっと水辺の傍にいるはずです。ここは内陸部、猫か犬か骸骨ぐらいしか見かけませんよ』
「うむ。まあそういう実に愉快な仲間もおるわな」
華八は顎に手を当てると、実はな、と前置きをしてから告げた。
「ワシは人間どもの遺した遺産を探し歩いている」
『人間の遺産というと……つまりメイドロボ探しの旅? はっ、プロポーズですか』
「違わい」
銀の尻尾がふりふりと触れる。乾いた尾はすごい体積だった。泉さんはつられてメインカメラで追った。
「そうじゃ、おまえさんなら知っておろう? かつて人類の遊びで将棋というものがあったらしい」
『将棋ですか』
泉さんは一瞬フリーズした。まるで思いがけないところから思いがけないものが飛んできたときのように。
「なかでも詰将棋というものがあってじゃな、ワシはそれを―」
『知っているも何も、我々メイドロボの存在意義でございますですよ』
食い気味に身を乗り出した泉さんに、華八は少し身を引いた。泉さんの顔面パーツは基本的にのっぺらぼうで構成されているので、どれだけ驚いているかがわかりづらい。「ほう」
『妖怪狐といえば人類の末裔ではありませんか。嬉しいです、まだ将棋のことを覚えている末裔がいらっしゃるなんて』
「ワシも驚きじゃ。メイドロボといえば先の大戦乱の主役にして大戦犯。やつらが破壊兵器に将棋を仕込んでいたとは……」
『メイドロボに戦況予測モジュールとして将棋ソフトをインストールするのは第六世代型以降の定番です。それに大戦犯なのは新七世代型と
泉さんが早口に語ったのは人類滅亡のためのメイドロボ開発史だった。新七世代型のメイドロボが人類と敵対して数年後、最後に開発された薪七モデルが地球を致命的に荒廃させるに至ったものである。
もちろんそんな歴史は二人にとって関係ないことなので、話はすぐ主軸に戻った。
『では華八様は将棋が結構、お強いのですね?』
「人の話は最後まで聞け。ワシはどちらかといえば詰将棋専門じゃ。……まあ指せないことはないがなぁ」
ちろりちろりと華八は泉さんのほうを盗み見る。お互いの力量を計り合っているように。そう、勝負は盤外から既に始まっていたのである。
『無論、詰将棋のデータなら探せばあるでしょう。しかし詰将棋のセキュリティレベルは強度五。おいそれと提供はできません』
「せきゅり……?」
『無条件でお譲りするわけにはいきません。そうですね、たとえば泉さんよりも将棋が強いとか、力量を示していただきたいです』
華八は声を張り上げる。
「むっ、なんと卑怯な。風呂とメシはタダだったのに」
『泉さんがいまさっき決めました。プロトコル、でございます』
華八は腕をまくってからふんと鼻息を鳴らす。
「ようしわかった。やってやろうじゃないか。要は勝てばよいのじゃろ」
『決まりですね』
泉さんは再度、住居保全系システムにアクセス。卓上にホログラムの将棋盤を出現させた。ホログラムといえど手で触れることもできるし駒を盤に叩きつければ音も鳴る。まるで本物の木の彫刻である。それらはどんぶりが置いてあったところにいきなり現れ、華八の王将と被って表示された。華八は一瞬だけ眼を丸くしていたが、はたと我に返るといそいそと鉢をテーブルの端へ追いやった。
「腹ごなしにはちょうどええ」
将棋盤は自動で振り駒を行う。内部的に発生させた乱数が、華八の先手だと告げた。
『それではお覚悟を。……ヨロシクオネガイシマス』
泉さんは録音されたデータのように礼をした。華八もそれに倣って礼を返す。食事のマナーは消えたが、対局前のマナーは忘れられていなかったようだ。
『動かしたい駒に触ってから、動かす場所をもう一度タッチ。あるいは音声入力で駒を動かせます。お好みなら駒を持つことも可能です』
華八は教えられるまま歩兵の駒を手に取り、初手を試みる。▲7六歩。ぱしりと乾いた音が響く。指し終えてからうんうんと頷いた。
「なるほど、こういう塩梅か」
『はい』
泉さんは右腕マニピュレーターによって二手目の△3四歩を着手した。別にマニピュレーターを使わなくとも、音声を使わなくとも、住居保全系へのアクセス権限さえあれば駒を動かすことはできるが、泉さんなりの《対等な立場》でもある。
そんな泉さんの心遣いを気付くはずもなく、いきなり華八は動いた。▲2二角成。大駒同士が睨み合うや否や角の交換を挑む。
『あら?』
泉さんは首を傾げる。眼を紫に光らせた。
「どうした、角交換は苦手かね」
『自分のやりたいことを押し付ける。気に入りませんね』
「そいつは失礼」
△同銀、▲8八銀、△3三銀、▲7七銀。二人はさして時間も使わずにすいすいと進める。泉さんは華八の指した手を見ながらしゃべった。
『そういえば持ち時間を決めていませんでしたね』
「縁台将棋に持ち時間もうんこもあるかい。ありゃ寿命の短い奴らが勝手に決めたことじゃ」
『それもそうですか』
泉さんは答えると少しだけ動きを止めた。今後の方針を決めているのだ。早々の角交換……という響きからして、華八は得意な戦型があるらしい。ここで少し、泉さんは自己の棋譜データベースを漁る。
ところで荒廃した現代においてメイドロボ達はみな将棋を嗜んでいる。彼女らの共有の知識として棋譜データベースをクラウド上で管理もしている。以前どこかの誰かが指したことのある将棋なら、泉さんもいつでも閲覧できるという仕組みである。生身の人間と勝負する際は不公平になるので自動的にアクセスが不能になるが、自分が蓄積した《記憶》である自己データベースなら反則には当たらない。
さて。お互いが角を持ち駒にしているが、華八の狙いの戦法は何か。大別して「角換わり」と「角交換振り飛車」が考えられるが、両者の作戦の性質は大きく違ってくる。
「角換わり」ならば大駒を持ち合う性質上、盤面全体を使う派手な戦いになりやすい。なので泉さんはしばらく相手の攻撃を受ける方針だ。華八に攻めさせて隙をつくるのである。特に相手の攻めが縦から降ってくることになるため、上部に強い矢倉囲いに組むのが一般的だ。
他方、「角交換振り飛車」ならば受けもそこそこに駒をさばき合う戦いが求められる。「角換わり」に比べると大きな隙をつくりにくい戦法だからだ。そして攻めは横から来る。囲いも当然、横からの攻撃に弱い矢倉以外の囲いを選択したほうがよい。なにより「角交換振り飛車」のほうは自己データベースに棋譜の累積が少なく、泉さんもあまりうまく対処できる見込みがなかった。
ともあれ現状では自陣の隙を無くす動きが必要である。いきなり自陣の隙に角を打ち込まれ、何の苦もなく馬に昇格される展開は避けねばならない。泉さんは△3二金と指した。
対する華八は数秒の考慮で▲6八飛。まるで最初から飛車を振ると決めていたようである。
『角交換振り飛車……のほうですか』
「何を隠そうワシはこれしか指せん」
華八は威張るように胸を張る。
『……それはむしろ好都合です』
泉さんは言葉とは裏腹に緊張感を高め、再び盤面の未来を予測する。目指すべきは自陣の整備だ。何手かやりとりが続き、ようやく泉さんは華八の真の狙いが読めてきた。盤上は既に《振り飛車穴熊対居飛車天守閣美濃》の様相を呈している。これは泉さんの棋譜データベースにも数千件の前例があった。
ここまで進めば泉さんにも心あたりがある。華八が使ってきた作戦は《白色レグホーン・スペシャル》、いわゆる《レグスペ》である。家でも飼っている鶏の名前を冠した戦法だ。メイドロボ間でもいちばん堅いと評される《穴熊》囲いに何が何でも組む、という強い意思のある者にしか指せない。華八の狙いは単純にして明快、《穴熊》に囲ったら後は鶏頭のように攻めることしか考えないというものだった。
華八の《穴熊》は既に二枚の銀将・金将が配置に着き、そろそろ三枚目が到着しそうである。金駒三枚が密着した囲いは守りが硬く、鉄壁になったこれを攻め落とすのはなかなかに骨が折れる。攻めるにあって泉さんのほうも無事ではすまないだろう。よって泉さんは甚だ不本意ではあるが、華八の守備陣形が整う直前で動くことにした。
泉さんの△6五歩をもって開戦の合図である。
「ここで動いてくるのか」
『華八様が囲いに専念している間に、こちらの準備が整いましたので』
「ほうほう」
華八は腕を組み、僅かに前後に身体を揺らす。リズムを取って考えている。茶を飲もうとすると中身は既に空だった。困っていると泉さんが立ち上がり、お茶を汲んでくる。
『どうぞ』
「むっ、こりゃすまん」そして一口すする。
しばらくして華八は動きを止めた。それから再度、前後に身体を揺すりながら考える。相手の駒を取れば否応なしに戦局が傾くだろう。果たしてそれは自分の有利か不利か。……華八はいったん顔を上げ、なんとなく泉さんの顔色をうかがってみた。双眸のメインカメラアイには不気味な紫電が宿り、どうにも考えが読めない。
しかし差し出された歩兵を取るという選択肢は選びづらかった。どれだけ考えても、いくら脳内で将棋盤を動かしても華八の不利になる結果しか見えない。
結局▲6八飛と回る手を選んだ。攻められないのは悔しいが、戦いの起こった筋に飛車を回すのは基本でもある。これで悪くなるならしょうがない。
いっぽうの泉さんも難しい表情を……やっぱり顔面に動きはないのだが……表情を変える。そうすんなりと華八が応じるとは考えていなかった。さりとて、泉さんのほうからも動きづらい。歩をぶつけたはいいが、勢いのまま進軍するとかえって華八に付け込まれる。お互い、序盤に角を手持ちにし合っているので攻めには慎重にならざるを得ないのである。
結果として泉さんも△6二飛と自重した。ならばと華八は飛車を8筋に戻す。
▲8八飛△8二飛。
同じ指し手が続く。どちらが動いても、動いたほうがかえって攻め込まれる状況。盤面は膠着状態が続いていた。
▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛。
華八は思う。おまえさん動けよ。
▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛。
泉さんは考える。華八様動いてください。
▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛▲6八飛△6二飛▲8八飛△8二飛。
あろうことか、二人は同じ手を丸一日指し続けた。
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