第7話 「貴文」

客間の縁側では、母と佐藤さんがおはぎを片手に談笑していた。

客間の座卓に座っている母に対して、佐藤さんは縁側に腰かけて、足を投げ出している。


「母さん、ただいま」


私は母に声をかけつつ、母の正面に腰を下ろした。


「あら文香、おかえり。おはぎあるわよ、食べなさいな」


母はこちらに向き直ると、おはぎの乗ったお皿を私に差し出した。

私はありがとうと言っておはぎを一つ手に取り、


「何の話してたの?」


と一つ質問してから、おはぎに一口かじりついた。

小豆の層と中にくるまれたお米が、白と黒のコントラストを描いていた。

餡子の濃密な甘さが口いっぱいに広がる。


「何ってあんた、貴文くんの話よ。あんたが聞いたんでしょう?」


おはぎを咀嚼するあごが止まる。


「どんな話、してたの?」


ゆっくりと顔を向けると、母はお茶を啜っていた。


「ちょっと待ってなさいな、お茶淹れてくるから。あんたの分」


そう言って湯飲みを座卓に置くと、立ち上がって客間を後にする。


「今はちょうど、タカ坊ちゃんが小学校に上がった頃のことですよ」


席を離れた母に代わって、佐藤さんが教えてくれた。


「坊ちゃんはね、その当時近所のガキ大将みたいな感じでね。放課後は日が暮れるまで帰ってきやしないし、休みは一目散にどっかに出かけちゃうしで、ぜんぜん家にいなかったんですよ」

「そうなんですか」


カブトムシといい、ガキ大将といい、貴文兄さんはずいぶんと活発な少年だったようだ。

私の脳裏に思い浮かんだのは、香織さんから受け取って、今は私のカバンに入っている、あの写真の少年だった。

Tシャツに短パンの、裕貴という少年。

あの見るからに快活そうな少年は、それでは父親似だったのだろうか。

そういえば、香織さんも言っていた気がする。元気なのが取り柄だと。

香織さんのことを思い出したら、また少し胃が重くなって、私は半分も食べていないおはぎをじっと見つめるだけになってしまった。

すると、突然視界ににゅっと腕が伸びてきた。


「なによあんた、おはぎと見つめ合っちゃって。何か入ってた?」


母だった。私の前に湯飲みと小さなお皿を置いて、それから座卓を回り込んで私の正面に座る。


「ううん、なんでも。ちょっと私には甘すぎるかな、これ」


私は母が置いてくれたお皿におはぎを置くと、座卓の上にあったティッシュで指をぬぐう。


「……どうしちゃったの、あんた甘いもの大好きだったでしょ」

「そうですよ。お嬢さんがおはぎ食べ残すなんて。調子でも悪いんですか? だんな様にこってり絞られました?」


母が座卓に身を乗り出して私に詰め寄り、佐藤さんも信じられないものを見るような目でこちらを見てくる。


「失礼な……私だって甘いもの食べたくない気分の時くらいあるわよ」


そりゃあ、お茶じゃなくてオレンジジュースが欲しいとは、ちょっと思ったけれど。


「ははあ、やっぱりだんな様に叱られましたか。だんな様もまだまだお元気でいらっしゃる」

「元気も元気よ。毎日毎日書斎にこもってるけどね、中でトレーニングでもしてるんじゃないかしらね。もう還暦だって言うのに、ちっとも弱る様子がないんだから」


佐藤さんの言葉を拾いながら、母はお皿のおはぎに手を伸ばした。

一つとって頬張りつつ、


「……でもヘンねぇ。怒鳴り声なんてぜんぜん聞こえなかったわよ。さっきウグイスの鳴き声が聞こえたくらいだもの」


と中空に視線を投げ、首をかしげる。


「だから、そんなんじゃないんだってば。それより貴文兄さんの話、してたんでしょ?」


私は指をぬぐい終わったティッシュをゴミ箱に放って、母に先を促した。


「ああ、そうそう、さっきどこまでいったかしら?」


母はそれで気を逸らしてくれた。


「坊ちゃんの小学校の時の話ですよ。ほら、酒屋のたっちゃんを泣かした時の話です」

「そうそう! そうだったわね。あの時はひどかったわねぇ~、三針だっけ、縫ったの」

「ええ、三針です。怪我した場所が場所でしたからねぇ。坊ちゃんもまさか、キャッチャーマスクの上から縫う怪我負わすとは思ってなかったでしょうねぇ」

「やんちゃだったわよねぇ。私もどこまで叱っていいか分からなくてねぇ、確かあの時は文彦さんが蔵に閉じ込めたのよね」

「そうですよ。三日三晩です。学校にもやらないで、食事は一日一度でいいと仰って。あの時はさすがの坊ちゃんも堪えてましたねぇ」


母はおはぎを食べながら、佐藤さんはお茶を飲みながら、賑やかに談笑する。

私はへぇ、とか、そうなんだ、とか相槌を打ちながら、まったく話に入れずにいた。

貴文兄さんのイメージが、やんちゃ坊主に固まっていく。いたずらそうに笑うそのイメージは、すっかり裕貴くんの姿になってしまった。

再度裕貴くんの姿を思い描いたところで、私ははたと写真のことを思い出した。


「そうだ、忘れるところだった」


私は座布団脇に置いたままだった鞄の中から写真を取り出すと、


「母さん、これ。香織さんからもらった写真」


その写真を母に差し出した。


「あら、これ貴文くん? やだ~、すっかり立派になっちゃって! この肩に乗ってるのは息子ね! もーちっちゃい時の貴文くんそっくり! ほら佐藤さん。見てこれ、笑っちゃう」

「おやまあ、ほんとですねぇ。こっちのタカ坊ちゃんよりよっぽどタカ坊ちゃんだ」


母は写真を見てひとしきり笑うと、身を乗り出し、腕を伸ばして縁側の佐藤さんに写真を見せる。

佐藤さんは首を伸ばしてそれを見た。


「それじゃ、この女の子が香織さんなの?」


姿勢を戻した母が、写真を指差して質問する。


「うん。ちょっと話したけど、いい人だったよ」


こっちが申し訳ないと思うくらいに。と頭の中だけで続ける。


「そうよねぇ、私も電話でしか話したことないけど、いい子だったもの。可愛い子じゃないの。貴文くん、いい子捕まえたわね~」


母は頬に手を当てて嘆息した。

貴文兄さんのことを語る母は、なんだか近所の子供に対する気さくなおばさんのようだった。

この間お葬式の電話をかけてきた時には、バツが悪そうな様子だったのにな。

この一ヶ月で、思い出にしてしまったということだろうか。確かに貴文兄さんはもう、二度とこの家に帰ってくることはないし、二度と母の前に現れることもないのだ。

それでなくとも、20年も前にことなのだし……。

そうだ。私も自分で言ったのではないか。20年も昔のことだ。思い出にしてしまっても、それは当然のことだろう。

すべてを忘れてしまっても。


「さて、それじゃわしはそろそろ仕事に戻りますかね。奥様、お茶ありがとうございました」

「あら、もうそんな時間なのね。お粗末さま」


佐藤さんが湯飲みを置いて、立ち上がろうとする。

そういえば、私が話を聞きたいと言って仕事を中断させていたのだった。

佐藤さんには悪いことをした。


「わざわざお話聞かせてもらって、ありがとうございました」


私がそう言って軽く頭を下げると、佐藤さんは軽く振り返ってから、


「いえいえ、爺の思い出話でよければまたいくらでも。わしも懐かしい話が出来て楽しかったですよ」


それじゃ、と、麦わら帽子をかぶりながら、歯を見せて笑った。

佐藤さんが縁側を去ったので、私は佐藤さんの湯飲みを片付けようと席を立った。

座卓に残った半分だけのおはぎを、どうしようかと少し迷って、けれどやっぱり空いた手に持つ。

ラップでもかけて冷蔵庫にしまっておけば、また後で食べられるだろう。


「そうだ文香、あんたにちょっと頼みたいことがあるのよ」

「え?」


台所に向かおうと思ったところで、母に声をかけられた。

私が母に顔を向けると、母は写真を座卓に置いてから立ち上がって、おはぎのお皿を持って先に客間を出て行った。

そのまますぐに正面の台所に入っていく。


「なに? 頼みたいことって」


私も後を追いかけて、シンクに湯飲みを置きながらそう問いかけた。


「ストーブをね、仕舞って欲しいのよ。もう冬まで使わないと思うから」


母は棚からタッパーを取り出し、菜ばしであまったおはぎを詰めていく。


「ストーブ? まだ出してたの? もう5月じゃない。あれ、お母さん、ラップどこ?」


私は棚を開けてラップを探してみたが、アルミホイルやジップロックばかりで、ラップが見当たらない。


「だって最近暑かったり寒かったりすごいじゃない。先月あったかくなったなぁと思って仕舞ったら、急に寒くなってね? 


また寒くなったら嫌だから、しばらく出しといたのよ。ラップ? そこに入ってない? ……ああ、ここにあったわ。はいこれ」


どうやら前に使った時に出しっぱなしになっていたようだ。振り返ると、母がテーブルに手を伸ばしてラップを手渡してくれた。


「ありがと」


私はラップを受け取って、おはぎをお皿ごとラップで包む。


「でもね、もう夏も近いでしょ? さすがに今年はもう使わないと思うから、そろそろ仕舞わなきゃと思ってたのよ。ちょうどよかったわ、あんたが帰ってきてくれて。最近重いもの持つと腰が痛くって」

「母さんも年ね。分かった。物置でいいの?」


冷蔵庫を開けて、食べかけのおはぎを上の段に仕舞う。


「ええ、そこでいいから仕舞ってちょうだい。

 あ、開けといて。もう終わるから……はいこれ、真ん中に入れて」


冷蔵庫のドアを閉めようとしたら、母にとめられた。

手渡されたおはぎの入ったタッパーを、広く空いているところに置く。

改めて冷蔵庫のドアを閉め、


「それで、そのストーブはどこにあるの?」


と母に尋ねる。


「どこって、そこにあるじゃないの」


母は菜ばしをシンクに置いてから、テーブルの横をあごで指す。

そこにはシルバーの石油ファンヒーターが置かれていた。

……本当だ。ぜんぜん気づかなかった。

私は自分で思っているよりずっと視野が狭いのかもしれない。

ヒーターはところどころ塗装が剥げて、下地の金属が見えてしまっていた。

私はヒーターを持ち上げると、


「これ、ずいぶん昔からあるよね。何年くらい使ってるの?」


そう母に尋ねつつ、物置へと向かう。


「そうねぇ……あんたが生まれた後に買って……20年? もうちょっとかしらね」

「20年!? うわぁ、すごい年季モノだね。ぜんぜん知らなかった」


廊下に出て、角を二つ曲がると、昔子供部屋だった一角がある。

今は誰も住んでいない。貴文兄さんが出て行ってしまって、私が一人暮らしを始めて、康彦兄さんがお嫁さんと二人で住み始めたからだ。

かつて貴文兄さんの部屋だった場所は、もうずっと前から物置になってしまっていた。


「あら、あんた覚えてないの? 買ったばっかの頃、あんたこれで火傷したじゃないの。ほら、腰んとこにあるでしょ」

「ああ、そういえば……こいつのせいだったのね」


私の左の腰の後ろに、とても小さな火傷の痕がある。明るいところでじっくり見ないと分からない程度だけれど、触ってみるとちょっと引っかかる。

あまり気にしていなかったけれど、そんな小さな時の傷だったんだ。


「そうそう、あの時の貴文くんったら凄い剣幕だったわよねぇ。あんたがぎゃーぎゃー泣き喚くもんだから、貴文くんすっごい慌てちゃってね。私に『かあちゃん、アヤが! アヤが!!』って。私は文香がどうしたのよって訊くんだけど、アヤがアヤがってそれしか言わないの」

「……そうなの? ぜんぜん覚えてない」


母が物置のドアを開けてくれたので、私は中に入ってストーブを置いた。

私もあまり重労働をするタイプではないので、腰を軽くとんとんとたたく。


「ほんとに何も覚えてないのねぇ。あんた病院でもぜんぜん泣きやまなくて大変だったのよ。貴文くんが必死になだめてくれてたんだから」

「ふーん……」


貴文兄さんのイメージが、どんどん変わっていく。

最初に私が持っていたイメージは、なんだったのだろう。

『アヤ、あっちいってろ』と言う兄の怖い印象は、まだ残っていた。

だからこそ、分からない。みんなの言う貴文兄さんと、私の記憶にこびりつく貴文兄さんは、どうにも違っていた。

私は貴文兄さんに嫌われていたのだろうか?

母が先に物置を出て、ドアに手をかけて振り返る。

私が後に続くと、私の後ろで母がドアを閉めた。

私は客間に向かって歩き出そうとして足を上げて、


「でも貴文くんが凄かったのはね、その後よその後。あんたがストーブに近づくと、あっちいってろ!って怒鳴ってね。私も気をつけてたけど、貴文くんは徹底してたわよ。あんたそれ怖がってびーびー泣いてたのよ」

「えっ――」


――“あっちいってろ”?

私は、歩き出そうとした足を戻して、母を振り返った。


「それ、覚えてる」


それだけは、覚えている。


「なんだ、覚えてるじゃないの。それからよねぇ、あんたが貴文くんに近づかなくなったの。康彦は相変わらずなついてたけどね」


母は私を追い越して先に行ってしまう。

私は慌てて後を追った。


「じゃあ、貴文兄さんが怒ったのって、私がヤケドしたから?」

「そうよ。あんたがあんまり怖がるもんだから、貴文くん落ち込んじゃってね。嫌われちゃったなって言ってたわよぉ。あんた今度お線香あげて謝ってきなさいよ」


そういって母はからからと笑う。

冗談のつもりなのだろう。


「……うん、そうする」


しかし私は、とても冗談で済ませる気にはなれなかった。

貴文兄さんは、やっぱり怖い人ではなかったのだ。

私が二度と火傷しないように、私にきつく当たっただけだった。

幼い私はそれが分からず、貴文兄さんを怖く思い、それがずっと、この年になってもずっと、悪い印象としてこびりついてしまっていたのだ。

パズルのピースがすべてはまった気分だった。



「あら、風かしら」


客間の入り口で、母がしゃがんで何かを拾った。

あの写真だった。そういえば座卓の上に置きっぱなしにしていた。

風で飛んだのだろう。


「あら? これ裏に何か書いてあるわよ」

「え?」


言われて母の肩越しに覗き込む。


「ほんとだ。……平野貴子? って、これ」


写真の裏には、平野貴子と言う名と、電話番号。

それから、“お電話待ってます。香織”と、短い文が書かれていた。


「……そう、貴子さんの。一緒に住んでるのね」


母は遠い目をしてそれを眺めて、


「あんた気づかなかったの?」


とこちらに責めるような目を向けてきた。


「ぜんぜん……」


お葬式から帰ってきてすぐに、私は写真を引き出しの奥に仕舞いこんでしまった。

それから一ヶ月、その引き出しには触れないようにしてきたから、裏なんて見ようとも思わなかったのだ。


「電話入れなきゃね。お葬式出れなかったお詫びをしなくっちゃ。今日はいるかしらね」


母がそういって、番号を確認しながら電話に歩み寄る。


「母さん、私が電話する」


その背中に私は声をかける。


「あらそう? 珍しいわね、積極的じゃない」

「うん、ちょっと……ね」


母の差し出した写真を受け取って、私は受話器を手にとる。

番号をダイヤルしながら、私はもう一度貴文兄さんのことを思い出した。

カブトムシを佐藤さんに見せたという。近所のガキ大将で、遅くまで家に帰らなかったという。酒屋のたっちゃんを、針で縫う怪我を負わせて泣かせて、三日三晩、二食を抜く折檻を受けたという。そして私がストーブで火傷したのを受けて、私に怒鳴ったという。

香織さんに話したいことが、たくさんあった。

受話器の奥で、コールする音が聞こえる。

私は写真を裏返した。

貴文兄さんと、裕貴くんと、香織さんが笑っている。

三人とも一様に幸せそうな笑顔を浮かべていた。

写真を渡された時の香織さんを思い出す。よく笑い、よく泣く人だった。

そういえば、ハンカチも渡したままだ。

別段返して欲しいというわけではない。でも、それを口実に、今度お茶にでも誘えばいいかもしれない。

私の知らない貴文兄さんの話を、聞かせて欲しい。

コールが途切れて、受話器の向こうで、はい平野ですと、声がした。

私は一つ息を吸って、話しかける。


「あの、平野香織さんのお宅でしょうか?」


胸の奥に、すっと晴れ渡ったような清清しさがある。

あれから一ヶ月。それだけの間この奥で凝っていた鈍いものは、どこかへ流れいってしまったようだ。

私の中にあった貴文兄さんの記憶。

それは決して怖いものではなかった。辛いものでも苦しいものでもなかった。

少し不器用なだけの、やさしい人の思い出だったのだ。


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ストーブ 佐嶋凌 @sashima_ryo

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