第6話 「父親」

父は社長を辞して以来、出かける時と食事をとる時以外は、決まって書斎にいる。

私にはよく分からないが、この町の歴史などを調べているようだ。

毎日毎日飽きもせず、とは母の言だけれど、そんなことを調べてどうするのだろうとは、私も思う。

市長選に立候補するのだとか、噂だけはあるけれど、本人にその気があるのかは分からない。

けれどその一環なのだと言われれば、さもありなんと言った感じだ。

書斎の襖に手を伸ばして、手をかけられずに、私は一度その手を戻した。

入る前に声をかけるべきだ、と思ったからではない。ただ単に躊躇したからだ。

足元の床板が、きし、と少しだけ音を立てた。

父に会う時は、この家の敷居をまたぐ時よりも緊張する。

この緊張の根源は、この襖の向こうにいる。

康祐さんの顔を思い浮かべる。

私の頭の中の康祐さんは、いつもと変わらない笑顔で「がんばれ」と言ってくれた。

一つ息を吸って、お腹に力を入れて、声を出す。

こうしないと、声が上ずってしまいそうだった。


「お父さん。文香です。少しいいですか?」

「入れ」


短く、太く、暦年の大樹の幹を思わせるその声に、私はもう一度気合を入れなおす必要があった。

襖に手をかけて、思い切って開く。

父は、書斎の文机に向かっていた。黒い縁取りの眼鏡をかけ、老緑色の単衣に身を包んでいる。

文机に、分厚いハードカバーの本が開かれているのが見える。いったい何ページあるのだろう。

私は部屋に入ると、後ろ手に襖を閉め、畳に正座した。


「よく帰ったな」


本から目を離さずに、声だけで父は私を迎えた。


「ただいま……なかなか戻ってこれなくてすみません」


その父の横顔を、うつむき加減に見て、私は頭を下げる。


「便りがないのがよい便りとも言う。泣きついて来ないなら、それなりにやっているということだろう」

「……康祐さんがよろしく伝えてくれと言っていました。仕事が忙しく、同伴できなくてすみませんって」


顔を上げると、父の辞令には答えず、康祐さんからの言伝を口にする。


「……康祐くんは元気かね」


そこで初めて、父はこちらをちらりと横目で見た。

なんだか咎められているような気がして、少し息が詰まる。


「はい……最近は本当に忙しくて、会社に泊まりこむこともありますけど。かえってやり甲斐があると言って張り切ってます……この週末も、康祐さんが仕事の追い込みで、泊り込むと言ったので。こうして帰って来ました」

「そうか。精力的なのはいいことだ。若い者はそうでなくてはいかん」


そう言って一つ頷くと、父はまた、ふいと本のページに目を落とす。

私は軽く息をついた。


「何日いられるんだ」


ちょうどそのタイミングで、父が口を開いたので、見透かされていやしないかと、肝が冷えた思いをした。


「明日一日はいられます。日曜は、午後には戻りたいと思います。康祐さんも、日曜には一度帰ってくると思うので」


早口にならなかっただろうか。たぶん、大丈夫だと思うけれど。

声は少し震えたかもしれない。


「そうか。……ゆっくりしていきなさい」

「はい、ありがとうございます……それじゃあ、失礼します」


父の背中に頭を下げてから、できるだけ静かに立ち上がり、書斎を後にする。

廊下に出て、音の立たないように注意を払いながら襖を閉めると、きしきし鳴る床板を心の中で非難しながら、書斎を離れた。

廊下の角を曲がったところで、大きく息をつく。

全身に入っていた力がすっと抜けるのが分かった。


「何も言われなくてよかったぁ」


私が大学に入ったくらいの頃から、父はあまりガミガミ言わなくなった。

今日だってそうだ。私が不精を謝ると、フォローするようなことを言ってくれた。

きっともう、子供の頃のように手ひどく叱られることはないのだろう。

それでも私はまだ、父の一挙手一投足が気になって仕方がない。

たぶん、私が勝手に私を縛っているのだ。

昔の強い印象を、今の姿にどうしても重ねてしまっている。

この家になかなか帰る気にならないのも、私が一人で遠ざけているだけで……。


「薄情、なのかな」


いつの間にこんなに逃げるのが上手になってしまったのだろう。

私は一つ頭を振って余計なことを追い出すと、佐藤さんの待つ縁側へ向かった。



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