第5話 「相馬」

金曜日のうちに、私は身支度を整えて千葉に向かった。

康祐さんが、金曜から会社に泊まりこむことにしたからだ。

先月から悩まされている納期はもうほど近い。

この週末は、家には着替えと風呂に帰るだけかもしれないと、康祐さんは言っていた。

それは、最悪の場合まったく帰らないこともある、という意味だということを、この一月で私は学んだ。

やっぱりちゃんと家に帰ってきてくれるのは、私の事を気遣ってくれていたんだろうな。

実家に帰ることに決めてよかった。康祐さんの仕事の邪魔はしたくない。

実家の門の前で、私は深く息を吸って、吐く。

なんとなく、この家に帰る時は、いつもこうしてしまう。

確かにここは私の生まれ育った家で、何度もここから出かけたのだけれど。

小学校の頃、友達と遊ぶとなった時に、私が友達の家に行くことはあっても、友達が私の家に来ることは少なかった。

単純に遠いというのもある。学校までは1時間近くかかったし、最寄のバス停からも15分は歩く。

しかしそれよりも、私の家にはなんだか近寄りがたい雰囲気があるということを、友達の家に遊びに行くようになって思い知った。

こじんまりとした小さな家に、あまり広くないリビングがあり、子供部屋はもっと狭く、小学生といえど4人も詰めれば座る場所に困る。

友達が来たと聞いてジュースを持ってきてくれるお母さんがいて、部屋で騒いでいたら隣の部屋からお兄さんがやってきて、うるさいぞ静かにしろと怒鳴られる。けれど言い合っているうちに白熱して、ゲームで決着をつけることになって、いつの間にかどうして喧嘩になったのか忘れてしまっている……。

そんな普通の家庭に、どうしても溶け込みきれないまま過ごし、自分の家に帰ると、ここがどこか違う世界にあるような気がしてならなかった。

私が出来るだけ早く家を出たいと思うようになったのは、ちょうどその頃だ。

紫檀の門構えは、日の光を受けて重厚に艶めく。定期的に業者を呼んでメンテナンスをさせているから、何十年と経っていても新品のようだった。

敷地を囲うように巡らされた生け垣も、庭師を雇って毎日のように剪定させていて、軍隊の行進のように整然としていた。

その一分の隙もない完璧さが、見る者すべてに威圧感を与えているのだ。

厳かという表現がとてもよく似合う。ここは私の家ではなく、父の家だった。

門扉に手をかける。少し力を入れると、紫檀の門扉はほとんど音も立てずに内側へと流れていった。

門に縁取られた向こうに、開けた庭が見える。

いくつか植わっている立派な庭木と、その向こうに平屋がある。

一つ門を潜れば、そこは父の領域だ。あの深呼吸は、覚悟を決めたのかも知れないと思う。

ここから先には、私の居場所がない気がするから。

意を決して敷居を超えると、


「おや? これはお嬢さん、お帰りなさい」


庭木の影から、佐藤さんが顔を出した。脚立の最上段に腰掛けて、庭木の剪定をしているようだ。

高いところから失礼します、と言って頭を下げる佐藤さんに、私は軽く会釈をしてただいまと返した。


「お久しぶりです。お変わりないですか?」

「ええ、おかげさまで。こんな年になっても毎日お仕事いただいて、だんな様には頭が上がりませんよ」


佐藤さんは、私が生まれる前からずっとこの家で庭師をしているらしい。

母が嫁いだ時にはすでにいたというから、その年季は相当なものだ。


「お体気をつけてくださいね。あまり無理をなさらずに……」


確か、もう70を超えていたように思う。

本来なら働くような年齢ではない。


「かっかっか、あんまり年寄り扱いせんでくだされ。まだまだ若いもんには負けませんよ」


佐藤さんはからからと笑って、


「どうしたんです、今日は? あの坊やに愛想が尽きでもしましたかね?」


そう続けると、少し意地の悪い笑みを浮かべた。


「そんなこと……康祐さんはよくしてくださってます。私こそ力になれることが少なくて、愛想をつかされないか気が気じゃないです」

「かかか。果報モンですなぁ。でもね、嫌になったらいつでも戻って来てくださいよ。わしゃいつだってお嬢さんの味方ですからね。お嬢さんのためなら、手塩にかけたこの百日紅だって惜しくないですから」


愛おしそうに庭木の葉をいじりながら、佐藤さんはそう言ってくれた。

私が家を出たくて、よその高校を受けようとした時、父はなぜ自分の言う通りにしないのかと私をひどく叱った。

その時私の味方をしてくれたのが、佐藤さんだ。

お嬢さんにはお嬢さんの人生がある、と言って、雇い主である父に歯向かってくれた。

仕事を失う恐れもあっただろう。百日紅を失っても、と言うのは、この人にとっては決して見栄でも誇張でもないのだ。

……そういえば、あの時、佐藤さんが何かを言って、それで父が黙ってしまったのだった。

確か、そう……。『だんな様がそんなだから、坊ちゃんも出て行かれたのではないですか』と。

あの時は気づかなかったけれど、ひょっとしてその坊ちゃんというのは、貴文兄さんのことなのではないだろうか。


「あの……佐藤さんは、貴文兄さんのこと、ご存知ですよね?」


思い切って訊いてみることにした。


「タカ坊ちゃんですか? ええ、よく存じてますよ。わしがこうして脚立に座っているとね、下から声をかけてくだすったんです。『見てくれじいさん、カブトムシ捕まえたぞ』ってね。そりゃあもう大きなカブトムシでねぇ。わしが『こいつは“わーるどくらす”ですな』なんて言ったら、鼻高々で。すぐにだんな様にも見せに行きましたよ」


佐藤さんは遠いところを見つめながら、口元に笑みを称えて、思い出話をしてくれた。

そして私に向き直ると、


「亡くなったんですってね。惜しい人を亡くしました……。だんな様はお葬式にも出なかったとか。年をとって少しは丸くなったかと思えば、タカ坊ちゃんのこととなるとまるっきり昔に戻ってしまいますなぁ」


そう言って、少し肩を落とした。

私は葬式と聞いて、胃に少し重たいものを感じたけれど、この重さを晴らすためにも、聞かなくてはいけない。


「あの……貴文兄さんは、どうして出て行ってしまったんですか?」


私がそう口にすると、佐藤さんは少し驚いた表情をしてから、脚立を降りながら、語り始めた。


「お嬢さんはご存知ないですよねぇ。あの時は小さくてらっしゃったから。タカ坊ちゃんはね、ここだけの話、今の奥様の子じゃないんですよ。だんな様が若い頃に、はずみのように結婚なさってね。その時にはもうタカ坊ちゃんがお腹の中にいたんです」


地に足を着けると、曲がった腰に手を当てて、私と向かい合った。

腹違いだというのは、もう知っていた。しかしその後に続いた言葉は、私にとっては寝耳に水だった。


「……できちゃった結婚だったんですか?」


驚いて思わず口にすると、佐藤さんは声を出して笑う。


「かっかっか。できちゃった、ですか。最近はそう言うんですか? わしの若い頃は、“授かり婚”とか、“既成事実婚”なんて言いましたがね」


ひとしきり笑ってから、佐藤さんは私に背を向けつつ、


「ま、立ち話もなんです。縁側にでも座って、茶でも飲みながらゆっくり話しましょうや。奥様もお呼びしますから」


そう言って、先に歩き出した。

私が黙ってついていこうとすると、やおら立ち止まって振り返り、


「ただし、だんな様にお顔を見せてからいらっしゃい。わしは休憩がてら、準備しておきますでな」


意地悪そうに笑った。





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