第8話



- ??? 日目 -

  

 父や祖父の歩んだ道を、私はずっとつまらないものだと思っていた。

 その昔はともかく、この太平の世にシノビの出る幕などありはしない。

 しかし、彼らは口を揃えて「それでもいつかお役目を仰せつかる日のために、我らシノビは、日々の鍛練と精神修行を欠かすことはできぬのだ」と私に言うのだ。

 そうして身に付けた素晴らしい技を、ほとんど持ち腐れのようにして彼らは逝った。それでも、彼らは満足だったのだろう。シノビとは表に出てはいけないものだから。

 私も他にできる事などないし、我らがシノビである以上はどこからか手当が届いたから、それはそれは真面目に修行してきたと思う。剣術にはそれほど才はなかったものの、身の軽さと気配の消去の術は父に自分を上回ると言われたものだ。仲良くしている村人達でさえ、私が王家の庭番で、いつ来るか分からぬお役目のために、夜な夜な訓練に明け暮れているとはだれも思わない。

 いつしか私は何のために修行するかを考えなくなった。

 そうして、いずれ主筋にも忘れ去られ、市井に紛れていつか誰かと平凡な結婚をするのだろう、人生は予定調和だと無意識に決めつけていたのだ。

 

 リスル……リスル……

 

 誰かが私の名を呼ぶ。

 しかし、体が重くて意識は混濁し、目を開ける事すらできない。あれほど鋭かった感覚神経ががちっとも働いてくれないのだ。だが、それでも時々……いやかなり頻繁に、水を与えられている事だけはうっすらわかった。それも、非常に妙な感覚で口腔に水分が満たされるのだ。

 

 リスル……リスル……

 

 何やら熱く、弾力のあるものが口を覆い、それよりももっと熱くてぬるりとしたものが私の唇を割って、そして体温に近いぬるい水が与えられるのだ。かなり奇妙な感覚だったが、構わなかった。私の体も熱くて喉が渇いて仕方がなかったから。

 そうして私は次第に体が楽になっていくのを感じていた。

 

 リスル……死なないでくれ……

 

「死にませんよ。縁起でもない」

 

 私はいい加減、しつこく名前を呼ばれるのに辟易し、思わず声に出してしまった。一体誰がこんなにうっとうしく私の名を連呼するのだろうか?

 しかし、次の瞬間もっと面倒くさい展開になった。

 

「ぐう……重い……」

 

 とてつもなく嵩張る何かが、私の上に圧し掛かっている!

 これは、父に聞いたことがある、石抱きの責苦と言うものだろうか?

 冗談じゃない、こんなところで(どんなところだかわからないが)くたばって堪るものか!

 私はできる限り力を溜め、思い切り膝を突き上げた。

 どすぅという音とともに、ぐむぅと妙なうなり声が聞こえたと思う。

 しかし、体の上の重しはなくならない。いやむしろ、益々きつく巻きついてくるような気さえする。見定めようにも視界も覆われているのだ。


「な……何これ?」

 

「気が付いたようだな……かなり痛いぞ……だがよかった……もう大丈夫だ」

 

「むぎゅう……だ、誰ですか?」

 

「リスル」

 

 急に視界が開けた。目の前にびっくりするほどの美男子がいる! 近い。近すぎて目が眩みそうだ。

 しかし、その顔は私のよく知るものだった。悔しいけど。

 

「……なぁんだ。閣下でしたか。敵かと思った」

 

「敵……気分はどうだ? 丸一日痺れ薬でうなされていた」

 

「ああそうか……」

 

 私は傷ついた指先を見た。丁寧に包帯が巻かれている。体内に入った毒は多くない筈だったが、かなりの劇薬だったのだろう。すぐに吸い出さなかったら、呼吸まで止まっていたに違いない。

 

「いっ……」

 

 そう言えば正気を保つために脇腹も自分で傷つけたのだった。

 

「大丈夫か!? 無茶をするなと約束したのに……自分の体を斬りつけるなどと……」

 

「……わかるんですか?」

 

「俺だって武人の端くれだ。傷の向きと、指先を見ただけでお前に何があったかすべて分かった。……まったく寿命が縮むとはこのことだ。無茶をしおって……」

 

 不意に声が途切れた。彼は黙って私の手を握り、頬に擦りつけている。その衝撃で、意識が急速に回復してきた。

 

「申し訳ありません。約束……破ってしまいましたか?」

 

「そうだ。お前は嘘つきだ……」

 

「申し訳ありません」

 

「嘘つきで……大した女だ……」

 

「……」

 

 彼は私の手を再び大きな両手で包み、唇を押し当てた。この感触は、眠っている間に幾度も感じたあの感覚に似ていて、私は言葉もなく伯爵を見上げた。美しい髪は艶を無くして乱れ、額に幾筋も落ちかかってている。秀麗な目元は黒ずみ、顔色も悪い。

 しつこいようだが、そんな様子でも彼は壮絶に美しかった。

 

「って……あ! こんな事してる場合じゃ!……証拠は、書類はどうなりましたか?……確かあの樹の洞に……」

 

「全く何を言い出すかと思えば……」

 

 彼が情けなさそうに文句を言った。しかもなんでそんなに哀しそうなんだろう? 元々私はその為にあの屋敷に忍び込んだのだ。仕事の結果を尋ねただけで、不満顔をされる意味が分からない。

 

「奴は今頃、枢密院に引き出され、陛下の御前で断罪されている頃だ。今までお前が集めてくれた書簡と、今回の書類が決定的な証拠になった。すべてお前のお蔭だ」

 

「閣下も証人でしょう? こんなところにいていいんですか?」

 

「大事な妻の一大事だ。そんなことはどうでもいい」

 

「妻って、とりあえずの口実じゃないですか」

 

「……まだわからないのか。シノビの癖にお前も相当鈍いな」

 

 大きな溜息が頬にかかる。くすぐったい。

 

「余計なお世話です。でもまぁ、お礼を申し上げます。あの時駆けつけてくださったのは閣下でしょう?」

 

「気づいていたか」

 

「ええ、すごい勢いでしたが、殺気がなかったですから。でもなんでそんな危険な事を……敵はかなりの数だってしょ? お怪我は?」

 

「あるかそんなもの! 見たらわかるだろう。彼らも立派な証人だからな。殺しはしないが数人には一生消えぬ傷を残してやった。俺だってやる時はやる」

 

「うわ~、鬼」

 

 使い込まれた長剣から彼の剣技がどのくらい凄いものかは想像はしていたが。私は敵ながら傷つけられた彼らが気の毒になった。

 どこにどういう傷をつけられたのか……想像したくない。

 

「何が鬼なものか! サンタンジェロもそうだが、俺の妻に害なすものには容赦はせん。大体自分がこんな目にあっているのに人の心配をしてどうする」

 

「だから誰が妻ですか?」

 

「お前に決まっている。言っておくが、俺は離縁する気は全くない」

 

「うわ! やっぱり鬼だ。鬼がここにいる!」

 

 なんだか一人称すら変わっているし。

 

「鬼でも悪魔でも構わん。リスル、お前を手放す気は毛頭ないからな。覚悟しておけ」

 

 口調の割に態度は控えめなのが却って怖い。この間からかなりこの人の態度は意味不明なのだ。

 

「ちょっ! それってもしかして一生タダ働きと言う事じゃないですか!?」

 

「ああ、タダ働きだとも。一生俺の傍で俺だけを見ていろ」

 

「ぎゃ~~! 人権侵害! 不当雇用反対!」

 

 私は寝台の上で主張した。ムシロ旗があったら振り回してやりたい。でもあれ? この部屋って私の部屋じゃない。すごく広いし、調度類も重厚である。

 

「……ああ、ああ! もうなんだっていい! お前にわかってもらうのは早々に諦めたからな。要するにそばにいれば……いてくれたらいいんだ。俺のリスル……」

 

 急に声が甘く掠れる。ああ、この低音、精神衛生によろしくない。

 

「ちょ……閣下!? いえ、伯爵様! なんですか、顔が、顔が近い!」

 

「ユージーンだ。もうそろそろ名前を呼んでくれてもいいだろう?」

 

 だから耳もとで囁かないでください。

 

「あ~……では、ユー……ユージーン様、私まだ怪我人です。無体なマネは……」

 

「さっきは思い切り脇腹に膝蹴りを入れたくせに。だが確かにお前の身は大事だ……今は口づけだけにする。暴れるな……傷に障る」

 

「クチヅケ! って、口づけですか!? そんな……ふむぅ」

 

「もう黙れ」

 

 伯爵は僅かに唇を浮かしてそう命じると、易々と私を腕の中に封じ込め、好き放題に乙女の唇を蹂躙してくれた。

 ……それは腹立たしいものではあったが、妙に親しんだ感覚でもあった。幾度も押し付けられる唇、絡められる濡れた塊は、私に何度も水を飲ませてくれたものだったからだ。

 

「……なんで……こんなこと……するんです?」

 

 私は息を上げて抗議した。涙目になっているのも悔しい。

 

「まだ分からないのか……お前が好きだからだ、リスル」

 

「……シノビが珍しくて、情婦にでもしようと言うのですか?」

 

「情婦だと? そんなものはいらん。俺が欲しいのは妻の心だけだ。すぐにとは言わん……俺が信じられないのも無理はない。お庭番の当主が女と知った時から、俺の妻にして王宮内を探らせとようと決めていたからな。だが勘違いされては困るとも思った。俺に取り入る女は多いし、この家の女主になりたい女も多いから。てっきりお前もそうだろうと思ってしまったんだ。酷い態度だった」

 

「それはもう謝ってもらったからいいです」

 

「だが、信じてくれ、身分や役割でお前を貶めた訳ではないんだ。お前と言う女を知らな過ぎたんだ」

 

「今だって知らないでしょう?」

 

「だが前よりは知っている。華美なものは嫌いだが、いい声の男が好きだろう?」

 

 伯爵は薄く笑って、又しても耳元で囁いた。そう言えば最近の服装は落ち着いたっ黒っぽいものばかりだった。でもなんでバレたんだろう?

 

「……私の好みに合うように努力したってんですか?」

 

「……言わせるな。それに、かつて遊び歩いたのは認めるが、この一月近く……俺は修道僧よりも清廉な生活態度だったぞ」

 

「……最初はそうではなかったじゃないですか」

 

「くそ! 知っていたか、アレは認めたくなかったからだ。お前に惹かれだしたのを……って、だから、皆まで白状させるな! くそ……その口」

 

「……ちょ」

 

「封じてやる……」

 

 再び彼は私の上で好きなように暴れまくった。今度は唇だけでない、髪を指で梳いたり、頬をなでたり、要するに首から上を好き放題なのだ。だが、決して傷に障らないようにしていた事を私は既に気づいてしまった。

 

「……」

 

 鼻を擦り合わせて彼は微笑む。

 

「そんなにじっと見ないでください。大した顔でも体でもありませんし」

 

「何故だ? 充分可愛いぞ。それにお前の体はもう知っている」

 

「へ? な、なんで?」

 

 嫌な予感がした。

 

「着替えさせたからな」

 

「み……見たんですか?」

 

「無論だ。恥ずかしがることはない。私は夫だぞ」

 

「夫でも何でも恥ずかしいに決まっているでしょう!」

 

「ってことは処女なんだな。うむ、なんだか異様に嬉しい」


 やつれた、それでも美しい顔が笑み崩れている。

 

「私は嬉しくありません! ……女らしくないし、貧相だったでしょう? 修行ばかりしてたから……」

 

「いや見蕩れたぞ。見事だった。贅沢になれきった女のようにふやけていないし、締まっているのに柔らかくて……ああ、抱きたい。抱いてしまいたい……早く怪我を直せ……」

 

 伯爵は布団の上からそっと私を抱きしめた。いつの間にか彼も寝台の上に横になっている。

 

「一生傍に置いてやる」

 

「やっぱりタダ働きじゃないですか」

 

「ああそうだ。俺だけのために……な」

 



 ユージーン様は満足そうに言って、私を檻に閉じ込めた――彼の腕の中に。

 

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それからどうしてこうなった 文野さと(街みさお) @satofumino

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