第7話
― 二十一日目 -
伯爵の調べた見取り図は完璧だ。主の私的な空間である三階の露台には誰の姿もなかったが、私は用心して少しずつ目指す書斎へと近づいた。
あの窓だ。
音も立てずに忍び入ると、その部屋は常夜灯もなく、窓にも厚い帳が引いてあるため室内は真の闇だった。中央に巨大な執務机が見える。しかしそれは囮で、部屋の隅に置かれた脇机の一番下の引き出しの奥に細工があり、その奥に重油な文書が隠してある筈なのだ。
私はその事をつい数日前の密談で聞いていた。例によって私は背景だったから、サンタンジェロと商人は遠慮なく、大がかりな収賄の相談をしていたのである。この国は貧しくはないが、それでも富める者とそうでない者はいる。私は政治や財政にまったく興味はないが、地位も財産も申し分のない立場の人間が、その膨らんだ財布をさらに広げようと、汚い真似をするのは確かによろしくないと思う。その意味では私も伯爵に感化されたのだ。
耳の後ろから針金を取り出し、引き出しの鍵穴に入れるとカチリと乾いた音がして引き出しが開いた。奥に手を伸ばす。指先が隠し引き出しの金具に触った。
「う……」
鋭い痛みが指に走る。罠が張ってあったのだ。引き出しを開けると、中からばね仕掛けの針が飛び出す仕組みになっていたとは、さすがに気が回らなかった。
血が滴るが、肝心なのはその事ではない。針にはおそらく毒が塗ってある。
私は迷うことなく書類を掴みだし、傷口を思い切り吸った。口腔に鉄の味が広がり、すぐに床に吐き出す。それを二三回繰り返したが、毒は強力な痺れ薬だったようで、急に指先の感覚が鈍り、視界が揺れた。
少し回ってしまったらしい。これ以上この場に止まるのは拙い。私は書類を懐に突っ込むと、よろよろと部屋を出た。流石にこの状態で窓から飛び降りるのは自殺行為だ。
急がなくてはならない。
何とか裏庭に下りられたが、ちょうど運悪く厚い雲が切れて月が出てしまった。更にそこを徘徊していた下男に見られてしまったのである。
この屋敷には番犬はいないが下男のようなごろつきのような輩は十名近くいる。公爵家にそぐわない人間たちだが、それだけ後ろ暗い仕事をしていると言う事なのだろう。
一人に見つかると後はもういけなかった。
「誰だ! 怪しいぞ! おい、皆起きろ!」
ばらばらと複数の足音が外へ飛び出す音がする。
私はよろよろと昏い庭を横切った。
「いたぞ! あそこだ」
「捕まえろ! 臨時収入だぜ」
「く……」
このままでは捕まる。さりとて、今の私に自分の背丈の倍以上ある塀を乗り越えることはできそうにない。近くに樹木もなかった。致し方ないが切り抜けるしか方法がないようだ。だが、どこまで持ちこたえられるだろうか?
背中の刀を抜いた。視界が狭まる。ここで崩れる訳にはいかない。とっさの判断で私は白く光る刃で脇腹を浅く傷つけた。痛みが鈍る感覚を少し呼び覚ましてくれる。そこへ男が切りかかった。
何とか躱して次を迎える。山のような大男だ。短剣と呼ぶのもおこがましい白刃を大きく振りかざし、襲いかかってくる。しかし、これは千載一遇の|機会(チャンス)だった。
振り下ろされる切っ先を体を沈めて避けると、私は大きく体を折った男の肩に飛び乗った。怒った男が勢いよく立ち上がる余勢を借りて、一気に塀の上に跳び乗った。
やった!
しかしぐらりと体が傾いだ。そのまま私は路上に落下した。
とっさに体を丸めたが、受け身はあまり成功せず、側面をしたたか石畳に打ち付ける。すぐに追っ手がかかるだろう。よろよろと立ち上がったわたしは、目印の樹まではと意を決して走り出した。
もう少し、もう少しだ。
書類を隠してしまえば、あの方に累は及ばないだろう。私一人の身の上など、どうにでもなる。追いつかれる前に辿り着かなければ――
ふらりと意識が遠のきかけ、私はさっき自分でつけた傷を上から思い切り叩いた。痛みでようやく気を失わずに済んでいる。しかし、無情にも背後に蹄の音が迫った。
最後の力を振り絞って、縋りつくように樹に辿り着くと、畳んだ書類を洞の奥に突っ込む。
振り返った瞬間、黒い影が迫った。
体が宙に浮き上がったが、抵抗することもできず、私はそのまま意識を失った。
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