鏡の向こう

任海 紗智

第1話

 ドアを開けると、その四角い空間にはまたドアがある。男は「またか」と溜息をついてドアを開ける。もう何十回、同じことを続けているのだろう。

 その空間は薄暗い照明が頼りなく灯るばかりで、空間の隅までははっきりと見てとることはできない。光によって空間が浮き出ているようだ。

 この空間にいると、男は何故か不安な気持ちに駆り立てられた。自分の悪事が全ての人にバレて復讐されているような気分。途方もない「永遠」に放り込まれたような気分。だが、不安になればなるほど、男の心にある希望の光は増していく。

「出なければならない」

男は呟いた。折角こんなに儲けたというのに使わないなんて勿体ない。この大金を手に入れる為にどれだけ苦労したことか。借金を返しても、ロレックスの時計やダイヤの指輪、イタリア製のスーツも手に入るのに。この大金さえあれば…この…この?

 男ははっとした。人を騙してせしめた大金入りのキャリーケースはその手になかった。男は来た道を戻り始めた。もう、どこが最初の空間なのかは分からない。ただ、同じような記憶だけを頼りに閉じたドアを開き続けた。


 キャリーケースは見つからない。男は冷や汗をかき始め、やがて蒸し暑くなってきてジャケットを脱いだ。男はもう、どちらが「前」でどちらが「後ろ」かも分からなくなったが、どちらかのドアを開け続けた。

 ふと、男は実験してみようと思う。

 ジャケットをわざと一つの空間に置いて、違う空間に入ってドアを閉める。しばらく時間を置いてジャケットを置いた空間に戻る。

 そこにジャケットはなかった。どこかに移動してしまったのだろうか。詳しく見えない四隅にでも追いやられているのか。ならば地面がローラーになっていて移動しているのだろうか。どこか空間に穴でもあるのだろうか。それとも、誰かが持ち去ったのだろうか。この空間自体、存在しないものなのだろうか。男は身に着けているものをほとんど使って実験を試みたが、結局全てなくなってしまった。

 肌着と靴下だけになった男は気が狂いそうだった。金はおそらく見つからない。外に出たって借金の取り立てが待っている。いや、その前にこんな所にいたら、いつか自分の体も消えてしまうのではないか…。

 大声を張り上げた瞬間、地面がなくなり、男は奈落の闇へと落ちていった。


 「大丈夫ですか?」

男はその声で目を覚ました。どうやら洗面所で倒れてしまったようだ。男は心底ほっとし、さっきだました男の優しい微笑みに答えた。だました男の視線がおもむろに鏡へ向く。男もつられて鏡を見た。

 合わせ鏡になった鏡の中には、いくつものドアが並ぶ。男の隣にはキャリーケースを奪還した男が不適に微笑み続けている。

「悪いことは、するもんじゃない」

キャリーケースを持った男がそう言うと、男は鏡の中に吸い込まれていった。二度と、出てこれない世界。開くか閉じるかしかないドアの中で、男の体はだんだんとちぎれていく。

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鏡の向こう 任海 紗智 @Toomi05

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