金曜日の追想 (後編)

    4


 話し終えると俺はひとつ息をついた。


 時計を見るともう四時半近い。思っていたより長く話し込んでしまった。日ももう暮れ始めていて、窓から斜めに射す陽光が眩しかった。相変わらず図書室には俺たち以外誰もいない。


 不意に由ヶ崎が言った。


「それで、どうなったの」


 俺は肩をすくめてみせる。


「どうもこうもない。あのあと学級会はなかったし、この話題が教室で出ることもなかった。あの日以来、クラスの連中の吉倉へのあたりは目に見えてきつくなったな。ほとんどが完全に無視するようになった。いわゆるいじめはなかったようだが――」


 ――陰口は、言われていたな。


 由ヶ崎は黙っている。その顔に表情はなかった。


「まあそうでなくてもクラスの雰囲気は最悪だった。部活に入ってるやつらの一部と入ってないやつらの一部で対立して、クラス全体がそれに巻き込まれてたから」


 きっと俺が知らないだけでほかにも対立構造はあったのだろう。あれ以降、あのクラスでは誰も彼もが疲弊していた。


 しばらく待ってみたが由ヶ崎が喋り出す様子はない。よくあることといえばよくあることなので、俺は文庫本に戻ろうとした。

 そこで唐突に由ヶ崎が言った。


「余計なことを言ってもいいかしら」


 ページを開こうとしていた俺の手が止まる。返事ができなかった。いやだと言えば、由ヶ崎は続けないだろう。だが俺にはそれができなかった。


 由ヶ崎は一息に言った。


「普通、ひとのものに悪意ある落書きをするのにシャープペンは使わない」


 、


「それに『ひと目ではわからないくらいには』消せそうだったのよね。……濃く書きなぐられていたにも関わらず」


 ………ああ。

 わからないように、言ったつもりだったのに。


「跡が残らないようにするには間に下敷きかなにか、かたいものを挟む必要がある。でもそんな面倒なこと、普通ひとの教科書に落書きするときしないでしょう。だいたい意味が分からないわ、悪意をもってする落書きなのだからむしろ跡を残そうとするほうが自然よ」


 俺は黙って聞いている。


「つまり犯人は、もともと落書きを消すつもりで書いたことになる」


 俺の目はもはや何を見てもいない。由ヶ崎もまたこちらを見ない。


「それから、その日の朝に芦原さんはトイレに行った、って言っていたわね。でもその間に落書きするのも無理ね」


 そう。あの日は俺が登校した時点でほとんどの生徒が教室にいた。ホームルームの直前なら尚更だろう。そんな大勢の人間がいるなかで落書きをするのは、実際的にというより心理的に不可能に近い。とすると、


「つまり、落書きは前日の理科の授業のあとから当日の登校前までにあったことになる」


 由ヶ崎はあくまで無表情だった。


「それで、賢木くん言っていたけれど、その落書きがあった前の日の時間割、全部主要五科目だったのよね」


 ……俺はそんなことを言っただろうか。言ったのだとしたら、ああもう、まったく。

 由ヶ崎は淡々と続ける。


「そうなら、その日教室には常に人が大勢いることになる。いなくなるとしたら移動教室だけど、中学校の主要五科目のなかであるとしたら理科でしょう。その理科の教科書に落書きされたのだから、その可能性はない。そうなると、前日の間の犯行は不可能。つまり、」


 そこで初めて、由ヶ崎はわずかに言いよどんだ。


「――落書きがあったのは、前日の放課後から当日の登校前まで。しかも芦原さんは部活に入っていなかったのだから前日の部活中も無理。だとすると、前日の芦原さんの下校中か、当日の登校中か、あるいは、」


 ため息は、たぶん俺の気のせいだったのだろう。由ヶ崎がため息をつく理由などないのだから。

 由ヶ崎は言う。


「――家で書くしかない」


 ――そして、その間に犯行可能な人間。それは、


「芦原さん本人だけよね」



 何の確証も、証拠もない。いまさら、確かめるすべも気も俺にはない。

 だが、あの事件の一番の被害者は誰なのだろうと考えると、俺にはそれが、吉倉に思える。


 なるほど確かにそれまでの関係も、決して友好とは言えなかったかもしれない。けれど平穏ではあったはずだ。それがあの一件をきっかけに、吉倉はクラス内で疎まれるどころか憎まれるようになった。


 そう考えたとき、犯人はおよそ一人しかいないように思われた。


 あのときまで芦原に対するあの手の嫌がらせは、少なくとも俺の知る限り一度もない。ということは、それまでそういったことが一切なかったか、あるいは俺の耳に入らない程度のものだったということだ。ところがあのときだけあんなにわかりやすく、言ってしまえば堂々とあったというのはおかしな話だ。


 つまりあの落書きは、それ自体が目的ではなかった。落書きがあったとより多くの人に知らしめることが目的だったのだ。


 だとすれば、俺と話しているときの妙に緊張したような芦原のあの表情にも納得できる。多くの人間に知らしめるには、まず誰かに落書きに気付いてもらわなければならない。計画がうまくいくかはそこにかかっていたのだ。


 最悪の場合自分から広めるつもりだったのだろうが、できれば他人に騒ぎ立ててもらう方がいい。そうすれば自作自演なのではないかという疑いが自然と薄れるからだ。


 そして、芦原の狙い通りに学級会が開かれた。

 いや芦原もことがあそこまで大きくなるとは思ってはいなかったのだろうが、学級会はまさに芦原の目的にはうってつけだったわけだ。


 そしてまさしく、学級会は劇的な効果を顕した。


 芦原は自分を被害者に見せかけることで、吉倉を加害者にしようとしたのだ。自分が嫌がらせを受ければ真っ先に疑われるのは吉倉だとわかっていたのだろう。


 けれど、俺は吉倉が芦原のことを嫌っていたとは思えない。芦原が一方的に吉倉を嫌っていたのではないか。一年生のとき、吉倉は本当にただ腹が立ったからという理由だけで、芦原に暴力を振るったのだろうか。


 あのとき芦原はボールペンを持っていたという。怪我をしたというのだから、当然ペン先は出ていたはずだ。だがよく考えてみればおかしな話だ。放課中に何の理由があってボールペンを使うのか。お絵描きでもしていたのなら、シャープペンか鉛筆を使えばいい。手すさびに触っていた、とでも言うのだろうか。


 そして吉倉は教科書を持っていた。腹が立って暴力を振るいにいくときに自分の教科書など持っていくわけがない。いったいあれは、だれの教科書だったのか。


 ここから先はただの当て推量だ。何の確証もない。だがどうしても俺は、この考えを否定できない。


 吉倉が芦原と揉み合いになったのは、もともと芦原が持っていたその教科書を奪うためだったのではないか。そしてその弾みで、たまたま突き飛ばすようなかたちになってしまったのではないだろうか。


 そして芦原はボールペンで何をしていたのか。

 由ヶ崎もさっき言っていた。普通ひとのものに悪意ある落書きをするのにシャープペンは使わない、と。


 シャープペンを使わないのなら何を使うのか。


 さらに言えば、吉倉は教師に理由を訊かれたときに、腹が立ったからと答えたのだ。それは芦原を庇うためではなかったのだろうか。理由を言えば、芦原がしていたことについても説明せざるを得なくなる。吉倉はそれを避けたかったのではないか。


 そしてもうひとつ。

 吉倉が芦原をではなく、芦原が吉倉を嫌っていると考えたとき、俺はこう思ったのだ。


 あのとき、うつむいた俺が見た、肩を震わせる芦原。

 あれは泣いていたのではなく、笑っていたのではないだろうか。



    5


 気がつけばもう時刻は五時をまわり、日も暮れていた。


 図書室の開館時間は五時までということになっている。おれと由ヶ崎は荷物をまとめ、戸締まりをすると図書室を出た。いつものように職員室で鍵を返却し、帰途につく。


 池の遊歩道を並んで歩く。日はもう沈んでいる。西の方はまだ明るいが、空の大半は夜が覆い始めている。まだ見えないが、しばらくすれば星も見えるだろう。

 あたりに遮るものはなく、風が俺の頬を撫でていく。今年もそろそろ雪が降るかもしれない。


 ぽつりと由ヶ崎が言った。それは風に吹き消されそうなほど小さな呟きで、だから聞こえなかったことにすることもできた。


「………あなたが、芦原さんが犯人だと気付いたのはいつだったのかしら」


 ………まったく。


 かすかな笑いとともに、小さくため息が漏れる。

 わからないふりぐらいしてくれよ、と思った。


 言ってもいいのだろうか、この先を。俺は由ヶ崎のこの問いに答えるべきなのだろうか。

 ここから先は、誰にでもしていい話ではない。俺もそれはわかっている。

 けれど、


 …………けれど、由ヶ崎にならいいのではないか?


 俺は言葉を選びながら、口を開く。


「何に失望したのかって話だったな、最初は」


 耳元で風がなる。俺はわずかに目を細める。由ヶ崎は消えつつある日暮れの残光を見ているようだった。


「俺は気づいていた。芦原から話を聞いたときに、こいつが落書きをしたことも、その理由も、ほぼわかっていたんだ。もっと言えば、どうするべきかもわかっていた。芦原にお前が犯人だと突き付けて、黙っておいてやるからもうやめろと言えばよかった」


 一息で言って、詰めていた息を吐く。ため息のようになってしまったことを少し恨めしく思った。


「わかっていて、でも俺はそれをしなかった」


 いまさらだ。ひどくいまさら。由ヶ崎に語ったところでどうにかなるものでもない。だからこれは、懺悔ですらない。ただの甘えだ。

 そして、そうと知りながらなお由ヶ崎に甘えている俺は、三年前から何ひとつとして変われていないのだろう。


 あのとき俺が覚えたのは恐怖だった。脅迫にも似たあの状況に、俺は恐怖していた。


 あのとき。

 真実に気付いていながら、本当のことを知っていながら、俺は告発をしなかった。

 そして、その結果があれだった。


「俺は自分に失望したんだ」



 俺は芦原を傷つけるのが怖かったのだ。恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。自分が誰かを傷つけることそのものに俺は恐怖していた。それは優しさからくるものではなかったと、今はっきりとわかる。


 吉倉はそうではなかった。守るべきと思ったものを守るためなら、そこに生じる犠牲を恐れていなかった。そしておそらく、芦原が疎んじたのは吉倉のその性格だったのだろう。


 だが俺は自分が誰かを傷つけるのなら、自分以外の何かが誰かを傷つけようともそれをただ見ているほうがまだましだとすら思っていた。そうすれば呵責から逃れられる。お前がお前がと指を差されるのではと手前勝手におびえることもない。

 ただ、他人が傷つくのを遠くから眺めていればいい。


 だがそれはまだよかった。


 なにも俺だって正義の御旗を振りかざして、独善的な正しさを人に押し付けようとは思っていない。俺とてそこまで傲慢ではないし、吉倉のように自分を信じることもできない。

 だから、俺が何よりも失望したのはそこではなかった。


 ――思うのは、あのとき俺が何を感じていたのかということ。

 ――俺がどうして迷っていたのかということ。


 いわれのない罪を被ろうとしている吉倉のため。

 芦原を一方的な加害者にしないため。

 その狭間で、


 ほんとうに? 

 



 ほんとうに俺は、



 

 思うのは、自分がどれほど愚かだったかということ。

 自分が、どれほど愚かなのかということ。





 いつの間にか道は池から離れ、俺たちは川沿いを歩いていた。川というより用水路と言ったほうが正しいであろうその川の底を、水が申し訳程度に流れている。このまま川に沿っていけばすぐに線路に突き当たる。そのあとは線路沿いにいけば皐倉駅はすぐだ。


「それにしてもよくわかったな」


 由ヶ崎は何のことかわからないらしく、俺のほうを見て怪訝そうに少し首を傾げてみせた。


「さっきのことだよ。わからせないよう言ったつもりだったんだがな」


 言って、自嘲気味に笑う。すると由ヶ崎は前を向き、


「あなたは、素直じゃないから、」


 実に冷ややかに、


「考えていることぐらい、わかるつもりよ」


 ………それはそれは。


 話しているうちにもう駅の近くまで来ていた。群青と言うには暗い空を背景にして踏切りが街灯に照らされている。俺と由ヶ崎はそこでわかれる。俺は左、由ヶ崎はこのまま真っ直ぐ。


 唐突に由ヶ崎が立ち止まり、口を開いた。


「ひとつ言わせてもらうわ」


 一呼吸、


「わたしは、あなたが失望に値するとは思わない」


 前を向いていた顔がこちらを向く。日が沈んであたりは暗く、その表情は見えなかった。


「身分不相応ってことよ」


 何事もなかったように、視線が戻る。

 俺が口を開こうとしたのを遮るように、そっぽを向いたまま由ヶ崎は言った。


「ありがとう。話してくれて、嬉しかったわ」

「ああ」


 気勢をそがれた俺は、そう言うことしかできない。


「じゃあまた明日、学校で」


 由ヶ崎はそう言い、踵を返そうとする。

 由ヶ崎にしては珍しい。少しだけ笑える。なぜか一矢報いることができたような気持ちで俺はこう返した。


「明日は土曜だ」


 振り返り、


「ああ、そうね。……じゃあまた月曜日に」


 そう言い残すと、由ヶ崎は返事も待たずにさっさと行ってしまった。

 取り残された俺は頭を掻く。


 ありがとう、か。どうも今日は、由ヶ崎に驚かされてばかりだ。


 ぼんやりとたたずむ踏切りのもとに取り残された俺は、いつの間にか星の見え始めていた空を見上げて、やはり話し込みすぎたなと思う。

 もう少し早めに切り上げていればあるいは――


 自然、俺は呟いていた。


「……やれやれ、まったく」



 礼を言うのは、こちらのほうだったな。

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金曜日の追想 弥生 久 @march-nine

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