キャンディ・ノベル

歌峰由子

キャンディ・ノベル





 幼馴染から貰ったその絵葉書は、デコレーションペンというのだろうか、ぷっくりと盛り上がる樹脂インキで描かれていた。


「ああ、まるでこれは煌めく夜空に零れる涙! とても美しいね!」


 そう大げさに評するあなたはまるで道化師だ。しかしその、持って回ったロマンチックな表現は、あなたの常日頃の研鑽の結果だ。それにくすりと笑って私は頷く。


「流れ星、ね。奇跡を……願っています、かな?」


「奇跡を起こしましょう、だよ遥香。僕たちは自らの意志で、手で、幸運の女神の前髪を掴むのだよ……!」


「前髪なの?」


「ほら、良く言うだろう? 幸運の神様には後ろ髪が無いと。だから躊躇っていてはいけないのだよ。迷わずこう、ぐっと!」


 そう気合を込めるあなたの大仰な口調に、だけど私は他の様子を思い浮かべてつい吹き出した。

「やだ……後頭部ツルッパゲの女神さま想像しちゃったじゃないの……! 怒られちゃう」


 哀れ幸運の女神。私の脳内の彼女は、前髪だけ残して綺麗に刈られた唐子のような髪型になった。


「大丈夫、今神界は空前のシノワズリブーム到来中だ。流行最前線の髪型で幸運の女神もイケイケだよ」


 相変わらず滑らかなあなたの舌は、意味不明で調子の良い言葉を途切れなく紡ぐ。それを軽薄と嫌う者も大仰と避ける者もいるのは知っているが、私にとってはとても大切なこの世界を紡ぐ糸だった。


 あなたに近づきたくて身じろぎすれば、キシリとベッドが不満を言った。気付いてあなたが抱き起してくれる。きっとこんな生活ともあと少しでお別れだ。大丈夫、と辮髪の女神さまを思い浮かべて私は自分に言い聞かせる。


 ふわりと触れるあなたの体温。大仰で飄々とした、軽くて掴みどころのない口調とは裏腹の、しっかりと私を支えてくれる腕。誰があなたを悪く言おうと、私はあなたが大好きだ。そんな想いを込めて、私を抱き起すあなたの胸に頬を寄せた。気遣うような、あなたの密やかな吐息が前髪をくすぐる。


 直接触れる、あなたの確かな鼓動と体温に安心して、私はもう一度心の中で呟く。大丈夫。


「ねえ、そっちは順調? 原稿進んでるの?」


 あなたは小説家の卵。現実、架空、世界のあらゆる物事を言葉に換える魔術師。あなたの語る滑らかで大仰で、そして豊かな世界を私は旅してきた。その素敵さは一番良く知っている。早く他の人たちにも知らせてあげて。あなたの紡ぐ美しい世界を。


「ううん、そうだねぇ。シャープペンシルで綴る愛憎模様にはいささか限界を感じていてね。少し心に新しい風を送り込もうと取り組んでいるところだよ」


「なあに、それ。行き詰ってるってこと?」


「いやいや、そんなことは」


 意地悪く尋ねれば、少し慌てた声。それにふふっと笑って、私は「じゃあ、」と小指を差し出した。


「私の手術が終わるまでに完成させてよ。手術が終わって、一番最初にあなたの小説が読みたいな」


 ええっ、と戸惑う声を無視して、ずいと小指を立てた右手を差し出す。


「約束。指切りしましょ、ウソついたら針千本!」


 すると根負けしたかのように、おずおずと少し太くて皮膚の硬い指が私の小指に絡んだ。


「分かったよ、約束しよう。必ず完成させるから、必ず読んでくれよ?」


「ええ、約束」


 約束だ。あなたも守って。私も守るから。手術を終えて、必ず自分であなたの小説を読むから。その想いと共に小指に力を込める。


 ああ、約束だ。


 そう吐息のように呟いたあなたの声の近さに、私はそっと顔を上向けた。柔らかい、優しいくちづけが降ってくる。その幸せと約束を胸に抱いて、私は今日、手術台へ向かう。



***



 明るく微笑む君にそっと触れたくちづけは、僕にとっては少し苦いものだ。その苦みを飲み込んでそっと啄み離れれば、満足げに君が笑う。大丈夫、まだ絡め合ったままの細い小指がそう言っている気がした。


 君は今日、人生を賭けた大手術に臨む。


 病で光を失った君が、もう一度自分の眼で輝く世界を見られるかどうかの大一番だ。成功率は三割、奇跡とまでは呼ばずとも幸運の女神の援護が欲しい。


 君が失明した数年前、僕はたしかに小説家を夢見る青二才だった。己の才能を信じ、驕る道化師だ。だけど今はもう、筆を折っている。そんなあてどの無い夢よりも君の方が大切だった。


 でも僕は、今でも君の前でだけは大作家の卵だ。光を失くした君の眼になるため、必死で言葉を尽してきた。僕が言葉に変換したこの世界の様子は、少しでも君に伝わっただろうか。もう、他の誰に届かなくてもいい。君にこの世界を届ける為だけに僕は言葉を紡ごうと思う。


 だけど君は、幸運の女神の辮髪をむしり取る気満々のようだね。


 僕に、もう何年もペンも握っていない僕に三日で小説を書き上げろだなんて。

 君の手術が終わって、その目の包帯が取れるまでは三日。それまでに僕は芥川も真っ青の名作を書き上げなければならない。ああ、そもそも僕はまだ文字が書けるだろうか。漢字なんて忘れてしまった。きっと元々酷い癖字が更に酷くなっている。


 だけど、書き上げなければね。


 君が約束してくれるなら。その目で、自分で、僕の書いた物語を読むと。


 失敗率は七割。一度失敗すれば次はない。もう二度と、君に光は戻らない。今で良いのか。もう少し待てばもっと良い技術が。いや、これ以上遅くなれば取り返しがつかない。迷いと焦りがじりじりと身を焦がし、その焦げた苦みが口に広がる。


 どうかこの苦さが、君に伝わっていませんように。願わくば、キャンディのような甘さだけ、君に伝わっていますように。


「題名はもう決まってるの?」


 今は世界を映さぬその目を閉じたまま、君が微笑んで尋ねる。そうだね、と僕は答えた。もちろん決まってなんかない。内容すらも。だけど――。


「『I like candies.』甘い、キャンディのようなお話の予定だよ」


 そう、焦げた苦みもカラメルの風味に変えてしまうような、甘い、甘い物語を、君と共に。そう願って僕も小指に力を込めた。





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ふへへ、伝わってればいいなぁ……上半分は、情景描写から視覚情報を抜いてます。不自然じゃない かつ 「失明している」と知ればなるほど…みたいなラインを目指しつつどんなもんでしたでしょうか。


(第七十六回フリーワンライ企画参加作)

使用お題:「シャープペンシルで綴る愛憎」「苦い口づけ、笑うキミ」「I like candies.」「絵葉書」「煌めく夜空に零れる涙」

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