log.23 遥か彼方

 大和郵船株式会社の外航船、石油タンカー『アサヒ』がテロリスト集団にシージャックされた事件。この事件では海上保安庁の特殊部隊、SSTが投入された。

 SSTの活躍によりシージャックされたタンカーは奪還された。人質とされた乗員が無事救助され、テロリスト側に協力していたとされる船長を除き、死傷者は一人もいなかった。

 テロリスト数名がSSTとの銃撃戦により死亡。他、大半のテロリストは現行犯逮捕された。

 構成員のほぼ全員が日本人であった。

 このSSTの活躍により、タンカーは奪還された。しかしタンカーの船長が死亡し、この事件に関わった民間人の中で唯一の犠牲者となった。

 タンカーを奪還し、テロリストグループが逮捕され、事件はようやく終息した。

 事件後、政府の公表の中で具志堅船長は唯一の犠牲者であるという以上の情報は明かされなかった。

 汐里たち乗組員は海上保安庁に身柄を保護された後、汐里たち一部の士官船員が会社の方針により記者会見に出、取材に応じた。この時も会見に参加した汐里たち船員は、記者に具志堅船長について尋ねられても、公開された以上の事を話す事はしなかった。

 事件を起こした犯人たちが沖縄の独立派であるという可能性を追究した者もいたが、政府は否定し、『琉球の海』という組織も存在しないものと断定した。

 今回の外航タンカー乗っ取りによるシージャック事件は、日本中を大いに騒がせたとも言える事件だったが、やがて時が過ぎるや、世間の関心はまた次の話題に移っていくようになった。



 事件後、汐里は検査やカウンセリングを受けるため地元に戻っていた。乗員の中で一番長く人質として拘束されていた間が長かった汐里の内外的な疲労は、汐里自身が思っていた以上に重く、専門家による療養が必要であった。

 その間、汐里の心身など気にも留めない記者たちが取材に尋ねてくる事もあったが、汐里はそれを毅然として断り続けた。

 そしてようやく落ち着いた頃、汐里は幼馴染の親友である渚と行きつけの喫茶店で顔を合した。

 「汐里、色々と大変だったね」

 「うん。でも、もう大丈夫。心配してくれてありがとう」

 「あんな事があったんだもん。本当に、無事に帰ってきてくれて良かったよ……」

 心の底から心配してくれていた親友に、汐里は感謝と申し訳なさで一杯になる。

 だが、彼女も辛気臭い空気も一瞬だけで、すぐにいつもの調子で汐里と接してくれた。

 「今日は私が奢りましょう。じゃんじゃん飲んでね」

 「ふふ、そんなに飲めないよ」

 そんな親友の気遣いが、ほんの少し温かくて、嬉しかった。



 昔から馴染みのあるコーヒーを、今回だけはいつもより多く嗜みながら、親友と笑っていると。

 懐にあった携帯(スマホ)が着信音を鳴らせた。

 「ちょっとごめんね」

 画面を覗き込むと、アプリがメッセージの着信を報せていた。開いてみると、ぴょこんと漫画の吹き出しのような中に短いメッセージが表示された。

 「……どったの?」

 「え? 何が?」

 首を傾げ、可笑しそうに口元を緩ませる渚に、汐里はきょとんとなる。

 「なんかちょっと嬉しそうな顔してたから」

 え、私そんな顔してた?

 やだ。

 汐里は羞恥というよりは屈辱のような顔色を浮かべた。

 そんな汐里の反応を見て、渚は確信したように笑う。

 「あはは、良かった。汐里、本当にもう大丈夫そうだね」

 「一体どうしたの、渚」

 「それはこっちの台詞だよ。でも、そっか。汐里」

 渚が、久しぶりに見るような、古い記憶にもある優しげな顔を向ける。

 「汐里もいよいよ女になってきたね」

 親友の発言に、汐里は口に入れたコーヒーを噴き出しそうになる。

 「誤解されそうな変な事、言わないで!」

 聞き慣れた笑い声が、店内に響いた。





 そして更に少しだけ時間が過ぎて。




 世間がシージャック事件を忘れかけていた頃。汐里はある場所へと向かった―――




 本州では見られない青々とした海が見渡せる丘陵に佇む墓前に、汐里は花束を抱いて訪れた。

 飛行機で乗り継いで空港に降り立ち、バスとタクシーを乗り継いで一時間。島の片隅にある墓地に訪れた汐里は、『具志堅家乃墓』と刻まれた墓石を探し当て、持参した花束を添えた後、祈るようにしゃがみこんだ。

 「船長、あの後も色々と大変でしたけど、ようやくここまで来れました。船長の故郷に初めて来ましたけど、とても素敵な場所ですね」

 墓前から目を上げると、視界の隅々に広がる遥かな海。ここが船長の生まれ育った場所なのだと、気持ちの良い風を浴びながら強く実感する。

 「この海を見て、船乗りになろうと思ったのかな」

 自分は父の背中を見て、船乗りになった。

 具志堅船長。貴方は、どうして船乗りになろうと決めたのですか。

 墓前に問いかけても、船長は答えない。

 「貴方が教えてくれるはずないか。きっと恥ずかしがって、意地になっても教えてくれなかったでしょうね」

 不愛想で頑固な船長。しかし若い船員たちに時折見せる事があったあの顔は、もしかしたら、あれが父親の顔だったのかもしれない。

 「でも、なんとなくわかった気がします」

 潮の香りと共に吹く風。それとは別の気配が風のように汐里の背中に触れた。

 振り返った汐里の目の前には、背広を着た初めて見る男性が立っていた。汐里が思わず立ち上がって頭を下げると、男の方も頭を下げた。そして呆然とする汐里の前に、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 男は墓前に添えられた花を一瞥すると、小さく微笑みながら汐里に語り掛けた。

 「初めまして。義父へお参りに来て下さった方ですね?」

 男の言葉に汐里は驚いた。

 「あの、失礼ですが。もしかして……」

 「僕は川上賢人と言います。具志堅考の娘、美香子の旦那です」




 同時刻。大阪――


 関西国際空港に隣接している大阪特殊警備基地が、SSTが配備されている唯一の基地である。その基地内にある専用の訓練設備。隊員たちが着替えをするロッカールームに、一人ベンチに座った三島が携帯の画面を覗いていた。

 「………………」

 「何を見てるのかな?」

 「!」

 背後から声が掛かった直後、目の前にあった携帯の画面がスッと上に引き抜かれた。振り返ると、同僚の吾妻が自分の携帯を奪っていた。

 「ふーむ、これは見過ごせませんな」

 「テメ、返せ!」

 三島の伸ばした手を、吾妻は難なく躱し続ける。それと並行しながら、吾妻は遠慮なく画面を覗き込む。

 「なになに、へぇ~。佐倉さん、沖縄に行ってるんだねぇ」

 「テメェ……」

 勝手に奪い取った自分の携帯を覗き、ニヨニヨと笑みを向けてくる同僚の顔を本気で殴りたくなる三島だった。

 吾妻がこれ見よがしにゆらゆらと泳がせる携帯の画面には、先ほどまでの相手とのメッセージのやり取りが表示されていた。

 「ちゃっかり自分だけ連絡先交換しちゃって。中々やるじゃないか、三島くん?」

 「いい加減にしないと、本気でぶん殴るぞ」

 「おお、怖い怖い」

 潮時と察したのか、吾妻は素直に携帯を三島の目の前に差し出す。三島はそれを強引に取り戻した。

 「しかしまともに女とも合コンで話が合わなかった三島くんが、連絡先を交換した上に、こんな頻繁にやり取りをするだなんて。いよいよ本物という事か」

 「テメェが俺の何を知ったような口を叩く。つーか、テメェ、さては以前から覗いてやがったな!?」

 「さて、知りませーん。というか、そんな事せずとも、ただでさえ携帯をあまり使わない人がそんなに画面を覗いてたら、誰でも……そりゃあどこかの岩泉とかだってわかっちゃうってものだよ」

 「………………」

 あの時、汐里が林蓮司の人質となり救命艇に連れられそうになった瞬間。その窮地を救ったのが三島であった。

 三島は林蓮司の隙を伺うためにずっと照準器を覗き続けていた。そして夏目ですら成し得なかった狙撃を、三島は見事に果たしてみせた。後に海保最強のスナイパーとして再評価される事になる、三島の狙撃は林蓮司の肩を撃ち抜き、一撃で無力化させた。

 三島の功績によって林蓮司は逮捕され、最後の人質となっていた汐里は無事に救出された。

 事件後、三島は汐里と再会していない。

 唯一、二人を繋いでいるのが、携帯でのやり取りだった。

 「佐倉さんに会いたい?」

 「……答える義理がないな」

 直後、クスリと笑った吾妻に、三島の鋭い視線が向けられる。

 「会えば良いじゃないの。きっと佐倉さんだって会いたがってるんじゃないかな」

 今度は怪訝な視線を向ける三島に、吾妻は意外そうな顔を浮かべる。

 「本気で言ってるのか?」

 「……そっちこそ。え、三島だってそうでしょ?」

 「馬鹿を言うな。俺は別にあいつなんか……」

 あいつ、ね。吾妻がぽそりと呟く。再び怪訝な視線を向ける三島に、吾妻は口元を緩ませた。

 「で、いい加減用件を言え。今日はお前、五管本部に出てたろ」

 「だから今帰ってきたんじゃないか。報せに来たんだよ」

 神戸にある第五管区本部に吾妻がわざわざ出向していた理由を、三島は既に察していた。当然、先のシージャック事件に関してだ。あの事件に最も深く介入していた三島たちは、特に事件解決の功労者としての存在感を海保内でも露にしていた。

 「公安に引き渡された林蓮司に関して。取調の結果、林蓮司は中国の諜報員である事が判明した。尖閣での侵犯については……関連性は、はっきりはしていない。だが、事実通りであろうという推測が出ている」

 三島はふん、と報告に対するように鼻息を鳴らした。

 シージャック事件と並行するように起こった尖閣諸島周辺での領海侵犯事案。中国海警局所属の船舶が接続水域から日本の領海内にまで侵入した。侵入した中国公船の船首部には30ミリ程の機関砲などの武装も確認され、巡視船の警告を無視した2隻が尖閣諸島に最も近付いた。

 事件の終息とほぼ同時に、領海内に侵入した中国公船団は2時間半領海内を航行した後、領海外へと引き返した。

 シージャック事件と中国公船の関係は未だ不明のままだ。

 だが、林蓮司が中国のスパイであるという事実。それだけで、ある程度の実態は推測できた。

 「林蓮司は残留三世として香港で生まれ育った後、工作員として訓練を受け、当初は留学生として日本に入国したようだ。その後も日本での活動を続け、その辺りは公安が張っていた通り、シージャックの計画を練るに至る」

 そしてそのシージャック計画に至る経緯として、川上美香子の死や具志堅の存在が絡むようになる。日本政府と米軍のスキャンダルを川上美香子に流し、その娘の死によって具志堅を計画に引き込んだ。だが、その内はそれだけではなかった。

 「どうやら船長は、林蓮司に脅迫されていたみたいだ」

 「何だと?」

 三島は事件当時、具志堅と政府のやり取りの記録を読んでいたので、その内容は知っていた。具志堅は自らの行動に関して、娘の復讐のため、自らの意志である事を政府に告げていた。勿論、林蓮司に何らかの脅迫を受け、言わされているという可能性はあった。事件唯一の犠牲者となった今、真実は林蓮司から供述を引き出すまでわからなかったが。

 「3年前に死亡した川上美香子の夫が、林蓮司によって人質に取られていた。具志堅船長が計画に協力する事になったのはそれが決定打だったみたいだな」

 「………………」

 三島は汐里の目の前で死んだ具志堅を思い出す。汐里は泣いていた。彼は死に行く直前、最後の最後で林蓮司に抵抗しようとして林蓮司に殺された。しかし具志堅が行動を起こしてくれたおかげで、救命艇に乗り込む瞬間が遅れ、三島に狙撃のタイミングを与えてくれたとも言える。

 具志堅の勇気ある行動によって、汐里は救われたのだ。

 確かに、彼の内に復讐心があったかもしれない。しかしそれ以上に、彼もまた守りたい者のために、人間としての気持ちを抱いていたのだ。

 「佐倉さん、沖縄に行ってるんだって? という事は……」

 吾妻が言わずとも、三島もわかっていた。

 「俺より先に、あいつには会わなくちゃいけない人間が居るって事だ」




 ここに訪れる人物として、汐里の中で浮かんでいた予想と同じであった。3年前に亡くなった川上美香子の夫。驚きを隠せない汐里を見て、川上賢人は納得したように頷いた。

 「その様子だと、美香子の事もご存じのようですね」

 「……はい。あの……」

 「気になさらないでください。僕も、全て知っています」

 その発言は汐里を驚かせるだけでなく、様々な感情を混ぜ合わせるのに十分なものだった。何か言いたいのに、言葉が見つからない。川上賢人はまるで独り言のように語った。事件の事は警察――正確には公安――から全て聞いた事。そして自らも話をするよう言われ、知っている限りの事を話した事。

 そして汐里は彼の口から全てを聞いた。彼が林蓮司の人質になっていた事。彼を餌に、林蓮司は具志堅を脅迫し、計画に協力させた事。

 「そんな……」

 汐里は再び、墓前の方に視線を向けた。船長、と震えそうになった声が漏れた。

 「貴女にはそれを知ってもらいたかった。義父は決して、人間らしい部分を失っていなかったという事を」

 でも、と。優しげのようで、寂しそうにも見える微笑が、汐里の網膜に焼き付いた。

 「僕が話さずとも、貴女は義父の事を知っていたようですね。僕の杞憂だったようです。でも真実を話せただけでも本当に良かった」

 「……ありがとうございます。話して頂いて」

 汐里は感謝した。彼もまた人質となっていた。しかも義理の父を犯罪に関わらせる原因として。彼は何も悪くない。だが、何も思っていないはずがない。それでも自分にそれを話してくれた彼の心中を汐里は察する。

 汐里は二人で並んで、墓前に線香をあげた。線香の煙が、風に乗って蒼穹の海と空の狭間へと流れていく。


 汽笛が聞こえた。遥か彼方に続く蒼い海に、一隻のタンカーが浮かんでいた。

 

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シップガード 伊東椋 @Ryoito

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