log.22 結末

 沖縄近海にある尖閣諸島周辺の海域は、島の領有権を争う日中両国にとっては最前線の海であった。日に日に対立の様相は増していき、挑発を繰り返す中国側に対し、日本の海上保安庁はこの海域を警備するための専従部隊を編成した。

 その部隊の先鋒である巡視船『くにがみ』は、『アサヒ』の占拠に伴う犯行声明が投稿されてからほぼ同じ時間帯に、領海外側に当たる接続水域で航行する中国海警の公船を発見していた。『くにがみ』と他巡視船は暫く侵犯を警戒して見張っていたが、その公船団が、日本の領海に突然接近を始めたのである。『くにがみ』は直ちに、中国の公船に対し、領海に近付かないよう警告を発した。


 「こちらは日本国海上保安庁である。貴船は日本国の領海に接近している。直ちに当海域より退去せよ」


 巡視船『くにがみ』は日本語と中国語で警告を発するが、中国海警局側も同様に返答した。


 「釣魚島は古来、中国固有の領土だ。周辺12浬は中国の領海である」


 相変わらずの返し文句だったが、『くにがみ』が確認した海警局の船は4隻。内、2隻が接続水域から日本の領海に最も近付いていた。その距離は徐々に縮まっており、意図的に領海へ近付こうとしているのがわかった。

 「沖縄の近海ではテロリストがタンカーを乗っ取ったって言うのに、どうしてこのタイミングで」

 現場にいた誰もが、まさか、と抱いていた想像はあった。だが、誰も口に出そうとはしなかった。




 沖縄近海で『アサヒ』制圧が完遂されようとしていた所で、林蓮司は救命艇を使って人質と共に船から脱出する旨を乗り込んできた隊員たちに伝えてきた。

 今まで人質に危害が及ばずに敵だけを掃討してきたSST隊員も、この時ばかりは手も足も出ない状態だった。

 狙撃しようにも目標と人質との距離が短すぎて、誤射の危険性があった。

 そしてこの状況を衛星を通じて見守っていた政府内では、別方面から舞い込んできた情報に翻弄されていた。

 尖閣諸島に中国の公船が接近中。これだけなら、日中双方が互いに領有権を主張し合う尖閣の海域では日常茶飯事だ。しかし問題はタイミングであった。

 「林蓮司の行動と、中国海警の船。この二つは関係があると思いますか?」

 政府内ではほぼ同時期に起こった二つの情報が繋がっているのではないかという憶測が流れていた。

 「林蓮司は船を出た後、どこに向かうつもりなんだ」

 「日本への上陸はあり得ないでしょう。となると、国外への逃亡として考えると……おそらく、大陸方面。領海外に向かうつもりでしょう」

 「まさか……」

 野々村はスクリーンの横に表示された現場海域を含む東シナ海の地図を見た。林蓮司の逃亡ルートが予測される。コンピューターの予測は尖閣諸島を指していた。

 「確証はありません。中国海警の件は全くの偶然であるという可能性もあります」

 「だが、どちらにしろ領海外に逃げられたら。いや、あんな所に逃げられた時点で、中国と面倒な事が起きかねない」

 仮に林蓮司が本当にスパイだったとしたら、中国船にみすみす引き渡すような形になりかねない。尖閣との距離は離れているとしても行けない事はない。手も出せないまま、領海外に出て行くのを黙って見送るような事は絶対にあってはならない。

 「総理。本当に手は出すのを禁止されますか」

 名塚は迫った。野々村は名塚に直視され、無言を返す事しか出来なかった。苦悩。野々村はどんな判断が正しいのかわからなくなりそうだった。

 「下手をすれば、我が国の国民が、そのまま敵国の手に渡ってしまうのですよ」

 普段なら不適切と非難されてもおかしくない言葉の選び方にも指摘している場合ではなかった。人質の救出。国民をみすみす敵の手に捕まったまま見逃しても本当に良いのか。

 野々村が苦渋の決断を下そうとした時、現場で動きがあった。


 


 救命艇に乗り込もうとした瞬間、林蓮司は動きを止める他なかった。何故なら、自分の背中に拳銃の銃口を押し付けられたからだ。

 林蓮司の頭部に照準を定めていた夏目も、引き金を引こうとしていた指を止めた。

 周囲の視線が、じっとその状況を見守る。

 「どういうつもりだ?」

 「………………」

 驚きを隠せない汐里の目に映っているのは、林蓮司に銃口を向けた具志堅の姿だった。

 「船長、まさかここで俺を裏切る気か」

 「俺はもう二度と、娘を失いたくない」

 そんな事を言った具志堅の目は、一瞬、汐里の方を見た。汐里は久しぶりに具志堅の目を見たような気がした。

 具志堅は林蓮司の思惑を見抜いていた。救命艇に乗り込んで日本の網から抜け出した後、人質としての利用価値を失った汐里は用無しとして処分されるのは目に見えていた。

 彼の祖国に連れ去られた汐里の末路を、具志堅は危惧したのだ。

 3年前に失った娘と歳が近い彼女を、具志堅は死なせたくないと思っていた。

 復讐心からこの計画に関わったのは嘘ではない。しかしこの時点で、彼の内には復讐心よりも娘の面影を重ねた汐里を救いたいという気持ちが勝っていた。

 「もう終わりだ。お前も、そして俺も……」

 「ああ、確かに終わりだ」

 林蓮司が両手を上げた。次の瞬間だった。

 押し付けられた銃口から躱すように身を捻らせた林蓮司は、一瞬の内に具志堅の手に打撃を与えると、素早い動作で具志堅の懐に衝突した。具志堅の懐に入り込むような形で体を押し付けていた林蓮司は、不敵な笑いを漏らした。

 林蓮司の手には、鋭利な短刀が握られていた。それはどっぷりと具志堅の横腹に深々と突き刺さっており、赤黒い血が柄を伝って滴り落ちていた。

 目の前で起こった状況に、汐里は悲鳴を上げた。刺された具志堅が声も上げずに、その場に崩れ落ちた。

 同じく状況を見守っていた海上保安官たちが、一斉に銃を構える。

 だが、彼らが発砲するより少し早く、林蓮司は呆然と立ちすくむ汐里の腕を掴んでいた。

 捕まえた汐里を自分の前に引き寄せた林蓮司は、具志堅から奪った拳銃の先を、周りの海上保安官たちに見せ付けるように汐里の頭に押し付けた。

 「こっちに来るな! 少しでも動けば、この女の命はないぞ」

 再び人質を危険に晒され、隊員たちはどうする事も出来ない。夏目も再び林蓮司に照準を定めようとするが、人質に当たる危険性があったために中々狙いが定まらなかった。

 そうこうしている内に、林蓮司は汐里を盾にしながら、救命艇に乗り込もうとする。

 林蓮司が今正に救命艇に乗り込もうとした時だった。

 「――ぐあっ!?」

 「きゃあ!!」

 汐里は一瞬、耳元で何かが切れるような「ヒュッ」という音を聞いた。その直後、1秒とも満たない程の後。正に直後であった。生暖かい液体が汐里の顔、右半分を覆った。それは林蓮司の血である事を、汐里はすぐ傍で倒れこんだ林蓮司の姿を見てようやく気付いたのだった。

 林蓮司は肩を撃たれ、悶え苦しんでいた。肩から出血した血が汐里の体を含め、周囲に散乱していた。その中で呆然と立ち尽くしていた汐里は、駆け込んできた吾妻によってその場から離された。

 「被疑者確保ぉッ!」

 直後、何人もの隊員が群がるように、狙撃を受け倒れた林蓮司を拘束した。

 「放开フォンカイ!  我日你ウォリ゛ーニー!」

 拘束された林蓮司は日本語ではない言語で、まるで赤子のように喚いていた。

 そんな状況を呆然と眺めていた汐里は、ハッと思い出したかのように倒れた具志堅の方を見た。そこには岩泉が具志堅の容態を確認している所だった。

 「船長……」

 汐里はふらふらと、倒れている具志堅の方に歩み寄った。顔を覗き込む汐里に気付いた具志堅が、ゆっくりと、光が弱々しくなった瞳を向けた。

 「……すまなかったな、怖い……思いを、させて……」

 「船長、しっかりしてください! 死んでは駄目です!」

 「俺は……お前に、美香子を重ねていたんだ……。美香子のように、お前まで死なせたくはなかった……」

 具志堅は涙を流す汐里の顔を、まるで父親のような目で、じっと見詰めていた。

 汐里はそれが死んだ父と同じ目だとわかった。

 この男もまた、一人の父親だったのだ。

 「俺は、最低の父親だ……」

 「そんな事ない! 船長、貴方は私を守ってくれました……!」

 何も抵抗できないまま救命艇の中に連れ込まれそうになった汐里を助けたのは確かに具志堅であった。汐里は具志堅の手を握り締める。大きな手だったが、体温の暖かさがまるで抜けていくようだった。

 「……美香子、俺は……本当に、お前の自慢の、お父さんでいられたのかな……」

 汐里はハッと気付いた。既に具志堅の目に、光はほとんど無かった。墨のように真っ黒になった具志堅の目が何を見ているのか、それはその微かに震える口から出た言葉が物語っていた。

 「うん、お父さん。お父さんは私の自慢のお父さんだよ」

 声の震えを抑えながら、汐里は父に話しかけるように言った。

 具志堅もまた、愛しい娘と会話するように、微かに笑った。

 「――――」

 微かに笑いながら、何か言葉を紡ぐように口を動かす。

 だが、その声は届かなかったけど。

 汐里には確かに、具志堅の父としての最期の言葉を聴いていた。

 糸が切れたように項垂れた具志堅の様子を見ていた岩泉が、吾妻に首を横に振ってみせる。

 動かなくなった具志堅の傍らで、汐里は静かに涙を流した。

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