log.21 動揺

 船橋に夏目たちが駆け付けた時には、既に林蓮司の姿はどこにもなかった。テロリストたちを倒し、船橋に辿り着いたSSTの隊員たちは人質となっていた船員たちを解放、その中の一人、マルコと名乗るフィリピン人が、人質一人を連れて船長と共にエレベーターで下りていったと告げた。

 「奴め、この船上で逃げ切れるとは思えないが」

 解放した船員から林蓮司たちの行方を聞いた夏目は、三島たちに連絡を取った。今の所、人質には一人も犠牲者、あるいは負傷者も出ていない。だが最後の人質である一等航海士の日本人女性が未だテロリストの手の内にある。

 「三島、聞こえるか――」



 タンカーを占拠した『琉球の海』側はSSTの強襲を受けた事で大半の人員が逮捕、又は殺害された。ヘリから隊員が降下し、甲板から大挙して押し寄せる光景を目の当たりにした林蓮司は、具志堅と共に人質の汐里を連れて船橋から脱出した。

 階下にエレベーターで下ると、林蓮司は汐里を押しながら居住区の廊下を進んだ。二人の前には具志堅が先導していた。

 「痛い、放して……ッ」

 汐里の抗議を無視しながら、林蓮司は具志堅を先導させ、船内を歩く。汐里の両手首を掴みながら、林蓮司は前後を警戒していた。

 汐里は前を歩く具志堅の背中を見詰めた。彼は一向に汐里の方を見ようとはしなかった。この船が乗っ取られてから、今の今まで。汐里は具志堅と目を合わせていない。

 汐里は自分たちがどこに向かっているのか、頭の中でこの先の経路を思い浮かべた。そして気付いた。汐里は思わず叫んでいた。

 「船長、駄目です!」

 しかし汐里の呼びかけに応じず、具志堅はただ前を歩く。

 後ろから林蓮司の笑う気配がした。

 「諦めろ。既にこの男はお前の知る船長ではない」

 そんな言葉に憤りを覚える。黙ってて。今度は汐里が無視をする番だった。

 確かに不愛想で、ちょっとムカツク所もあったけど。こんな事をするのが未だに信じられないような、そんな船長が自分たちの知る船長だった。

 だけど。何故だろう、その背中がどこか寂しく見えるのは。

 本当にこれは貴方の本意なのですか、船長。

 この船が貴方の嫌いな戦場になっている事に、何の疑問も悲しみも抱かないのですか。

 汐里はあらゆる問いを、心の中で膨らませた。

 しかし口には出なかった。

 出せなかった。

 光が注いだ。同時に潮の香りが漂う。とうとう外に出たのだった。




 「――あっ! 人が出てきたぞ!」

 対策本部のスクリーンには、衛星が捉えた『アサヒ』の状況が映し出されていた。戦闘が始まって十数分。『アサヒ』の舷側に動きを捉えた衛星のカメラが、その位置に向かってズームアップされた。映像には人質と思われる女船員と、テロリストが映っていた。

 「林蓮司です。人質と……あれは、船長もいます!」

 ガタッと、誰かが立ち上がった。固唾を呑む閣僚たちの視線がスクリーンに注がれる。最悪だ。あと一人、最後の人質がテロリストのリーダーに捕らえられている。

 「直ちに人質を助けろ!」

 簡単に言うな、と赤池は思った。あの状況で人質を救うのは至難の業だ。船長もテロリストの仲間である疑いがある以上、容易に手を出せる状態ではない。林蓮司たちの位置に隊員たちが急行する。だが、隊員たちに向かって林蓮司が何かを言っていた。

 「何を言っているんだ……?」

 野々村は現場と連絡を常時取り合っているオペレーターに目を配った。やがて、司令船『やしま』から事情を聞いたオペレーターが、状況を伝える。

 「敵は船から脱出する模様。妨害すれば人質を殺害すると言っています!」

 「馬鹿な。あそこからどうやって逃げるつもりだ」

 「救命艇です」

 名塚が言った。名塚の言う通り、林蓮司たちは船に備え付けられている救命艇の方へ向かっていた。

 タンカーには救命設備の一つとして、災害に見舞われた船から海上に脱出できるように救命艇が備え付けられている。林蓮司たちが利用しようとしているのは、船尾にある耐火型自由降下式の救命艇であった。

 艇内からの離脱操作により船尾の架台から海面めがけて飛び込む事が出来る種類だ。耐火性に優れ、中に入ればどんな攻撃からも身を守れる。

 「あんな物で逃げるつもりか」

 「しかし向こうには人質がいる」

 所詮は救命艇だ。普通に考えれば巡視船からは逃げられるわけがないが、人質がいるとなれば話は別だ。あのような狭い空間に人質が同行していればこちらは手も足も出せない。

 「今は敵の言う事に従おう。海保には手を出すなと伝えてください」

 野々村は決断した。船からの脱出は敵の要求に従い、その後は隙を見て人質を救出させよう。そう考えていた野々村に、名塚が海保から新たな情報を聞いて声を上げていた。

 「何だって!?」

 驚愕に満ちた名塚の声は、室内に大きく響いた。誰もが名塚に視線を向ける。野々村は「どうしました?」と、顔を青ざめた名塚に問いかけた。

 「……総理、たった今。巡視船『くにがみ』から報告がありました」

 現場海域とは別であるが、ある特定の海域を警備中の巡視船の名である事を、野々村たちは知らない。だが、その船からの報告は対策本部の面々を戦慄させるには十分なものだった。

 「――中国の海警局の船が、尖閣諸島に向かっています」

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