愛欲

 少しの間、沈黙が続いた。少女は首をかしげたままだったが、やがて微笑んで言った。

「…それで?」

 彼は身動きをしなかった。また少し沈黙が続いた。


『…少女よ…お前は…私が恐ろしくないのか…?』

 少女はゆっくり彼の元へと近付くと身体にしなだれかかった。そして、薄目を開けて彼の巨大なウロコを優しくなでながら笑んだ。彼は何も言えなくなって沈黙した。


 彼の鼓動は人よりは圧倒的に遅いとはいえ、心なしか早くなっていた。

(ドキドキしてくれてるのかしら…?)

 少女は頬を染めながらそんな事を考えていた。


『…私は怖い…』

 厳かな声音が少女の脳内に響く。少女は微笑んで聞いた。

「何がですか…?」


『お前を…失う事がだ…』

「……」

 少女はそれを聞いてさらに頬を赤くした。


『…人間という生き物は五感の内…多くを視覚に依存している…』

 彼の不安げな様子を感じ取って少女はまた彼の身体をなでる。

『五感それぞれから得られる情報を100とした時…視覚から得られる情報は実に87%にもなる…』


 少女は首をかしげて言った。

「…どういう事ですか…?」

『…お前が…視覚を取り戻して…私を見た時…私の元を去ってしまうのではないかと…怖いのだ…』


 少女は微笑むと、彼のとてつもなく巨大な体躯の表面に唇を押し当て、

そっと舌を這わせた。彼が巨大な身体を少し揺らす。

「…あなたの味がする…」


 少女は恍惚とした表情で笑んでいた。彼は沈黙していたが、少女は彼の巨大な身体を抱き締めるようにして言った。

「私…あなたの姿を見たいです…」


 彼はいまだに沈黙していた。じっと身動きも取れないような様子だった。

「あなたの姿を見て…あなたを怖がるなんて…そんなわけありません…」

『お前が今抱き締め…舌を這わせたのは…私の首だ…』


 少女が一層頬を赤くし、息を心なしか荒くする。

「あなたの…首…」

『分かるか…?私とお前は…似ても似つかない…』


 少女は興奮しているのか、肩を上下させながら、さらに力を入れて彼の身体を抱き締める。少女の手に硬く大きなウロコの冷たい感触がにじむ。

『…どうして…』

 彼の恐怖とも喜びとも付かない響きが少女の脳に染みる。


 少女の真っ暗だった視界が開き、ぼんやりと彼の身体を捉える。少女はゆっくりと彼から離れると、彼の頭部を見上げてほぅっとため息をついて、恍惚とした表情で笑んだ。彼はそれを見下ろして、焦点の合っている様子の少女の目を見て、複雑そうな表情をした。


『見えるように…なったのか…』

 少女はゆっくりとまた近付くと、彼の圧倒的に長く太い巨木のような首をそっと抱き締めて、絞り出すようにか細い声で答えた。

「…ええ…」


 彼はたまらず少女を優しくゆるく、長い首で抱き締めた。少女は嗚咽の混じるような声で言った。

「あなたさま…もっと…もっと強く…!」


 二つの荒い吐息の音が、限りなく広い部屋にゆっくりと吸い込まれていった。



 勇者は広い王宮の中を走っていた。泥も拭わずに来たので赤い絨毯に足跡がついている。

「王様!」

 勇者が駆け付けた時には、既に国王は巨大な食卓に突っ伏すように事切れていた。


 食事を作った料理人たちが手錠を付けられて、後ろから兵に小突かれつつ歩いていく。

「嘘じゃない!本当だ!毒なんか混ぜちゃあいない!」

 王子はさも鬱陶しそうに手で合図して、強引に兵士によって料理人達が連れて行かれる。


「一緒にご同席されていた王子様が、ご無事だったのが何よりです」

 同席していたらしい長老は、嫌味ったらしく苦笑しつつそう言った。

「…いや、もう国王様…とお呼びするべきでしたな、これは失敬…」


 王子はふん、と片頬を吊り上げて笑うと言った。

「そうだな、これからはそう呼んでくれ。もうお前とは、そんなに長い付き合いにもならなさそうなのが残念だがな」

 王子もまた嫌味ったらしくそう答えた。ピリピリとした空気が辺りに漂っている。

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この世でもっとも恐ろしいもの 不二式 @Fujishiki

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