流転し樹

 一歩、また一歩と慎重に地面をしっかり踏みしめてゆっくりと鬼は近づいてきた。

 鬼は恐れていた、僕の手の中で震える猫のように。

「昨日はごめんね」

 僕は笑顔で話しかける。鬼の目が驚いたように大きく見開かれる。

 そして手の届くところまでやってきた。鬼は右手を弱々しく出してきた。

 そっとその手は黒猫の頭に触れた。

「やさしくね」

 その言葉に鬼はまた無言で僕を見つめてうなずくと黒猫を撫で始めた。

 黒猫は恐る恐る顔をあげる。

 二人のぎこちない目線が交錯する。僕は苦笑い、触れ合えば逃げ出すほどのことではない。

 そう、何もわからないことほど怖いことはない。何もしらないことほど恐ろしいことはない。

 だから知ってしまえば以外と簡単なことは多い、それまでが本当に大変なんだ。


 一陣の風が突き抜けた。光輝く青、それが世界を包んでいる。

 肺一杯に新鮮などこまでもどこまでも澄んだ空気を吸い込む。

 僕はさきほどから釘付けになっている。金縛りにあったように体を動かせないでいる。

 呼吸と心臓だけが木霊してかろうじてここに繋ぎとめているようだった。

 意識は鬼にでも黒猫にでもないものへ向けられて離れることが出来ない。

 僕の目線は鬼の肩越し、遥か後方を見つめている。異質な共感覚によってそこのみが拡大されたような拡張視覚を感じた。

 風が荒んだ、雲の流れは早く、黒雲が太陽を隠して丘は闇が多くなり、ざわめきがここら一帯を包んでいる。

 あらゆるものがその者の出現を許容していない。ここに来るはずのない者、ここにいてはいけない者。

 かの者は形容しがたく、語られることがない。

 奥歯をかみ締めて重く硬くなった体を必死の思いで動かした。

 僕は子鬼に黒猫を押し付けて、小鬼と猫がしっかり背後に隠れるようにその異質なものと対峙した。

 息を深く吐くと僕は睨みつけた。いつからそこにいたのか、どこから来たのかわからない。

「惚けているな、……意識」

 突然放たれた痛みにも似た電子音のような声が脳に直接響いてきた、語られざるかの者は続ける。

「強制的に……介入して、いるのでうまく話せない」

 語られざるかの者は背中の大剣に手をかけ素早く抜きすさんだ。

「剣で、語るのみ!」

 金切り声の様な言葉は絶なる咆哮と同じ姿で空間を揺らし地面は振動した。

 僕は反射的に身構える。丸腰では心もとない、それでも今持っているものといえば昨日拾った黒光りする小刀のみ。

 ゆっくりと無駄のない動きで殺気を決して相手には悟られぬように新聞紙の封印を解く。新聞紙は捨てずに胸に仕舞った。

 そして左手に刀を持ち力を込めた。祈るように、剣に意思を流し込む。

 だか此れは黒である、思う様には宿らない。辛うじて黒い火を出せる程度である。

 非情にもかの者は待ってはくれなかった。

 疾駆する最初の一撃が僕に届くまでに1秒もかからなかった。

 こんなに動きが素早いとは思っていなかった、僕はかの者を舐めてかかっていたし、たしかに惚けていた。

 斬撃をとっさの反応で小刀で受けたが重い打撃によって後ろに吹っ飛ばされた。

 小鬼と黒猫を庇うような位置取りが挟むような形になってしまう。一瞬の間、意識が覚醒すると緊張が一気に高まりかの者へ向かって走った。

 語られざるかの者の一瞥、邪気は無いように感じられた、そして殺意も感じられなかった。それでもこの場では排除あるのみ。

 大剣相手に間合いでは勝てない、辛うじて宿った黒い火を手数、つまり連撃で放つ。

 黒火はいくつもの風になって飛んでいった。そしてかの者に当たる。たしかにそれは確認したが気配と予感が危険を察知し距離を取るべく後方に下がった。

 さっきまで立っていた場所は暗がりに身を潜め、空間は歪み、暗黒が広がっていた。そこにかの者は音もなく立っていた。

 僕はこの一瞬でこの小刀では勝てないと思った、思い込んでいた。

 頼っていた過去の自分。

 語られざるかの者はそこをついてくる。どこにいても予期せぬことはやってくる。この世界は少なくとも安全で優しい世界だと思っていた。でもそれが崩れて不安にかられている。

 そしていつもなら強大なる頼れるものが全てをだいたい何とかしていたが、今はない。

 今はこの頼りなく黒光りする短刀のみ。

 だから僕は大きな炎を灯せないでいた。

 かの者の斬撃は空間ごと持っていった。寸手のところでかわすのが精一杯、防戦一方で手も足もでない。当たればただではすまぬ、恐らく体ごと持っていかれるだろう。

 久しぶりに感じた恐怖だった。でもどこか懐かしい、この感覚を最後に経験したのはいつだっただろう。

 かの者は震え出し咆哮を放った、金切り声に似た不快な極振動は僕の散漫な意識を一瞬でも完全にかの者からそらすには十分だった。

 それはわずかに右手にかすめただけだった。痛みはない、しかし右腕を肘あたりまで持っていかれた。

 黒い靄のようなものが半身を侵食しはじめている、恐らく虚空の彼方へ位相変換されいずれは飲み込まれるだろう。

 現実を受け入れたくなくて意識が飛びそうな感覚に襲われた。視界の端で黒猫が鬼の腕から逃れようと暴れていた。

 この状況、逃げてくれと思った。小鬼は無表情でこちらを見つめている。黒猫の拘束は解かれた。彼女だけでも逃げ延びて欲しい。僕はそう願った。

 しかしそうはならなかった。僕の傲慢な思い込みだった。

 彼女は猫の俊敏さで僕のとこへ駆けよると飛び込んで小刀に溶け込んだ。小刀だったものは生き物のようにうねり増殖し細身の長剣への変化した。

 空間が歪み不気味に吸い込まれそうな深遠なる闇を奥底にたたえていた。

 黒猫は僕のために剣の中に消えていった、僕の身を案じてくれているのが嬉しかった。そして彼女は元にもどるのか。その考えはどのみち僕が負ければ意味消失してしまう。

 後はない、覚悟を決めた、この期に及んでもまだ僕は惚けていたのだ。だけど世界を壊すかもしれない覚悟を決めた。

 位相空間に固定しておいた呼び出せるものをありったけ呼び出した。白い外套、小手に胸当て、靴、その他もろもろ。右手に嵌るはずだった小手は地面に落ちる。

 纏うはずだった鎧を全て分解しありったけの白をこの黒に込めた。

 このわずかな時間を稼ぐために位相壁を何重にもかの者との間に張り巡らし位置情報を秘匿した。

 混ざり合う白と黒、それは僕の弱さ、強大なる質量がないと戦えない、今までもそうしてきたように。

 歪な形への成長した大剣を肩越しに構え、右手はなくとも右肩を前に出しいつもの構えで空間を捻じ切る。そして目の前の景色は螺旋状に歪んでいく。

 障壁となる位相を全て解除すると語られざるかの者は正面にいた。待っていたとばかりの余裕の立ち姿。

「直線的な攻撃など」

 不快な叫び声とともに語られざるかの者は左右に瞬時に移動しながら距離を詰めてきた。

 時空間の歪みの中心を気持ち上方に向けて牙突する。

 遥か彼方まで光子の矢が突き抜け、あとから反作用による爆発が追従する。

 その重い突きを向かって右側に軽くかわしたかの者の刃はその間に喉元まで迫る。

 たしかに最初の一撃目は直線を突き通して一掃する。もともとは巨大で愚鈍な”敵”用に使う技である。

 それ以降はその範疇ではない。時空間の作用反作用を刃に転移させかの者=”敵”の目視出来る右を薙ぎ払い用心のため左も同じようにした。

 土砂の様に時空は散り散りになり元に戻ろうとする力は莫大な破壊力で全てを微塵にする。更に重力子転換の応用により効果を限定させることも出来る。

 この技に小鬼を巻き込まないためにも使用した。

 語られざる者、その幻影は右より消えて少し離れた左側から声が雑音の様に聞こえた。

 与質量子の霧が晴れたとき語られざる者はそこにいた。

「今日はこのくらいにしておこう」

 その声は不快ではなくはっきりと人の声のように聞こえた。そして蜃気楼になって消えた。

 右手はもとの場所に収まっている。暗黒の空間は消えたが草が新緑に美しく茂り白岩が点在する丘は見る影もなく荒んでいた。

 僕が荒らしたんだ。

 退けたが、黒猫はいない、どこにもいない、……この世界にはもうどこにもいない。

 小鬼は泣いていた、何度も目をこすりながら、小刻みに体を震わせている。

「本当は仲良くなりたかったんだね」

 僕は駆け寄ってやさしく二本の小さな角の間を撫でてやる。

 それでも小鬼は泣き止まない。

 ふと強い風が吹き僕は思わず目をつぶってしまった、頭を撫でていた感触がなくなった。

 顔を上げる、小鬼は僕の目線の先で泣いていた。

 まただ、この距離の離れ方は出会ったときと全く逆である。

 僕は一歩踏み出した、小鬼との距離も一歩遠くなる。

 また一歩また一歩と歩みを強めるが距離が縮まるどころかどんどん離されていく。

 駆け出す、追いつくことが出来ない距離、まだ間に合うはずだ、なぜ、なぜ。

 小鬼はただ泣いているだけなのに。

「さようなら」

 僕は走るのをあきらめ小さくつぶやいた。

 雲が波打ちうねりをあげ空が赤く茶色く、紫とそして青い黒に変わっていった。


 目の前は崖だった、その先にはもう誰もいない、眼下には巨大な水溜りが広がっている。

 振り返ると大きな大きな黒い塔が夕焼けに染まった空へと伸びていた、どこまでもどこまでも続くその塔は先が見えない。

 その先の小さな起伏の上に木が一本生えていた、こちらはそんなに大きくはない、僕の背丈の2倍くらいで横に葉が大きく傘のように広がっている。

 ここからでもはっきりわかる、真っ黒な猫が丸まって眠っている。

 左手に持っていた剣はいつの間にか小刀に戻っていた、僕は服と胸の間からくしゃくしゃになった新聞紙を取り出してまた包んだ。

 木がある丘の先からは夕闇が迫っていた、そろそろ帰らなきゃ。

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新約⌒捌ノ神話目碌、 黒い木の中の世界 シウタ @Lagarun

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