境界の守人

襟川竜

第1話

飛んでいった物が何か、僕は知らない。

知りたくもない。


ただただ、苦しかった。

重たいし、息がつまりそうだし、体中がベトベトでぬるぬるして、嫌だった。


見えたのは、ほんの少しだけ。

赤く染まった白い羽根と黒い羽根、武器を振り回す腕。

そして、


飛んでいく何か……。


※ ※ ※


この世界は、三種族によって領域が定められている。


遥かなる昔。

この世界を作り出した神は、「善」と「悪」に心を分け、二つの種族を創り出した。

善の心を持つ種族は「天使」、悪の心を持つ種族は「悪魔」と呼ばれ、両種族は争いを繰り返してきた。


世界の覇権を賭け、互いに理解し合おうともせず。


慈愛の心を持った天使と、邪な心を持った悪魔は、何もかもが違っていた。

性格、思考、外見…。

あまりにも違い過ぎたが故に、両種族は互いを認め合う事が出来なかった。


やがて、天使でも悪魔でもない種族が生まれた。

どちらでもない存在は「人間」と呼ばれた。

天使の心と悪魔の心を持ち、それ故に天使と悪魔の力の糧となった。


ある時、激化した争いの中で人間が滅びかけた。

人間が滅ぶことを危惧した天使と悪魔の長は、人間の長と協力して「境界」を定めた。

太陽が照らし、光り輝く南東の空を天使が、太陽が沈み、闇が支配する北西の空を悪魔が、それぞれ領域として支配した。

そして、地上は人間の領域となった。


争いは突如として終わりを告げ、世界は平穏を手に入れた。

天使と悪魔が勝手に人間界にいかないように、今なお長の手によって結界が張られている。

長に反発し、人間界に行こうとする者がいるからだ。


そして、人間界は「境界師」と呼ばれる者が、代々境界を守り続けていた。


※ ※ ※


大きな屋敷。

書斎には沢山の人が折り重なるように……いや、無造作に積み上げられていた。

書斎は荒れ放題で、豪華な絨毯は血を吸い、どす黒く変色している。

積み上げられている人々はみな血まみれで、腕や足、首が無い者もいる。

胴体から切り離された、あるいは引きちぎられた一部は、床に転がっている。

血や内臓は壁一面に飛び散り、あたかも赤いペンキと飾りで部屋を飾りつけたかのようだ。


「は…はは……ははははは!やった…ついに、やった!これで境界は消えた!ははっ……ははは……ふははははははは!」

握りしめていた剣を床へ落とし、血まみれの男は狂った笑い声を上げる。

血で赤く染まった両腕を上へとかざし、男は天井を見上げた。

だが、その瞳は天井ではなく、ここではないどこかを見ている。

男の顔も服も、何もかもが赤い。

全て男が浴びた返り血だ。

「しっかし、呆気なかったなァ」

床に転がっていた頭部を見つけ、黒い羽根を持つ男は、無造作に髪の毛を引っ掴み頭部を持ちあげる。

切られた首の断面からは、まだ少し血が流れていた。

髪の長さと顔のつくりから見て、元は美しい女性だったのだということが推測できる。

しかしながらその表情は、恐怖に目を見開いたまま固まっていた。

「やり過ぎのような気もしますが…」

辺りの惨状に眉をしかめているのは、赤い羽根を持つ男。

いや、赤い羽根ではない。

白い羽根が血を浴び、赤くなっているのだ。

「なーに言ってるんだよ、天使サマ。今さらだぜ?」

黒い羽根の男は、白い羽根の男へと血濡れの笑顔を向ける。


黒い羽根を持つ男は、悪魔。

白い羽根を持つ男は、天使。

そして、部屋の中央で狂気の笑いをあげているのは、人間。


争いを好む悪魔が人間をそそのかし、殺人などの惨事を引き起こす事はある。

しかし、そこに天使が入る事は滅多にない。

天使は悪魔を見下しており、一緒に何かをするという事は、あり得ないと言っても過言ではないのだ。

その天使が、こうして血にまみれて悪魔と行動しているという事は、彼は境界をなくそうとしている過激派なのかもしれない。


天界と魔界には、「過激派」なる者が存在している。

境界を敷き、領域を定めた長に反発しているグループだ。

彼等は境界をなくして、互いの領域を侵す事が目的だ。

天使は悪魔を、悪魔は天使を滅ぼし、人間が放つ心の力を独占する為に。


境界を消し去るのに一番簡単な方法は、「長を消しさる事」。

長の力で存在している境界は、長が消えれば無くなるのだ。

天界と魔界の長は現在行方をくらましている。

人間は両種族と違い、とても寿命が短い。

長は代々「境界師」としてその力を受け継いでいる。


彼等が血で汚(けが)した屋敷は、境界師の住む屋敷だった。

そこに住む者は、女子供であろうと容赦なく手にかけた。

最後に閉じこもった書斎も、たった今、制圧し終えたところだ。


境界は、三領域の物がそろって、初めて最大の効果が出る。

境界師一族が皆殺しにされた今、人間界の境界は無くなったも同然だった。


「さぁて、残りの長はでてくるかねェ」

悪魔は唇をぺろりと舐め、持ち上げていた頭部を無造作に後ろへと放り投げた。

「そういう、死者を冒涜する行為はやめてください」

「ああ……失礼しました、天使サマ」

顔を顰める天使に、悪魔はわざとらしく謝る。

「アンタも、いつまでも笑ってないで、次行こうぜ」

「次……ああ、そうだな。…ふふ、ふはははは……。次は誰だ?悪魔か?天使か?誰を斬らせてくれるんだ?」

狂気の瞳はどこを映しているのかわからない。

男は剣を拾い上げると、落ちていたクッションで刀身の血脂を拭った。

淡い水色のクッションは血を吸い上げて、徐々にどす黒く変色していく。

「ほらほらァ。行こうぜ、天使サマ」

悪魔は天使の肩に腕を回し、軽く寄りかかる。

「貴方達とは協力しますが、慣れ合うつもりはありません」

天使は悪魔の腕を振り払うと、さっさと部屋から出ていってしまった。

「獲物……次の獲物……」

その後に男が続く。

「協力、ねェ。最後はオレの餌にならないように気をつけろよ?天使サマ」

聞こえないとわかっていながらも、悪魔はニヤリと笑いながら部屋を出た。


※ ※ ※


しんと静まり返った書斎。

血の匂いが充満している。

僕は、自分の上に覆いかぶさっている誰かを必死に押し上げる。

いつもは柔らかく温かいはずの体が、固く、冷たくなっている。

ぬるぬると滑るのは、血のせいだ。


だめだ、重すぎる。

這いだしたくても、幾重にも重なった死体の中から出るのは、かなりの重労働みたい。

でも、だからといっていつまでもここにいたら、圧死してしまう。

あいつらは僕に気付かなかった。

僕は、生きている。


たった一人ぼっちで……。


不意に足音が聞こえてきた。

廊下からだ。

あいつらが戻ってきたのかな?

怖くなって、僕は死体を押し上げるのを止めて、息をひそめる。

重なり合い、山となっている死体の隙間から、じっと外を見つめた。


足音は近づいてくる。

狭い視界じゃ、少ししか見えない。

足音の主は書斎に入ってきた。

見えるのは、スーツの一部。

足の部分だけ。

スーツを着た誰かが、僕に、積み重ねられた死体の山に近づいてくる。

誰だろう。

あいつらじゃないみたいだけど……。


不意に、僕にかかっている重みが和らいだ。

押しつぶされる苦しさが薄くなっていく。

誰かが重なり合った死体を寄せているんだ。

どうしよう、このままだと見つかっちゃう。

僕も、殺される…!


僕はギュッと目を閉じた。

死んだふりをしよう。

そうすれば、助かるかもしれない。


すぐ上にあった重みが消えた。

死んだふりだ、死んだふり…。


「スイ様」


声をかけられたと同時に、体を揺さぶられた。

低いけれど、どこか心地よい声。


「しぐ…れ?」


僕は目を開けて、声の主を探す。

主は、探さなくてもすぐ目の前にいた。

「よかった……生きていてくれて…」

時雨は、僕を見て安堵の表情を浮かべていた。

でも、すぐにその顔が歪んでいく。

僕の頬を、何かが伝う。


ああ…。

僕ってば、泣いてるんだ。


「スイ様、お怪我はありませんか?」

「だい…じょ…ぶ」

大丈夫という言葉が、ちゃんと言えない。


「しぐ…れ……しぐれ……しぐれぇぇぇぇ」

僕は死体の山の上でもがく。

時雨はそんな僕を抱き寄せてくれた。

「よかった……本当に、よかった」

「しぐれ、しぐれぇぇぇ。…かった、怖かった、怖かったよぉぉぉ」

「もう大丈夫ですよ。私が傍にいます」

「うん…うん!」


怖くて、どうしようもなくて…。

時雨に会えた喜びと、目の前でみんなが殺された恐怖とが混ざり合って、僕はただ……時雨に抱きしめられたまま、泣き続けるしかできなかった。

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境界の守人 襟川竜 @project-STORIA-

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