R-18のラーメン屋
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R-18のラーメン屋
『18歳未満入店お断り』
同僚の水科に誘われて、伊勢宮町での飲み会帰りに寄ったラーメン屋の入口に貼られた一枚の紙を、私はしげしげと眺めていた。
これは、どういう意味なんだろうか。酒でも出すのか、それとも怪しい店なのか。
首を傾げる私に、「おかしいだろ、でもな、味は確かだぜ」と言いながら水科が入口の扉を横に開く。
次の瞬間。
私と水科の横を、巨大な影が転がっていった。
「ガキは来るなって書いてあんだろ! 失せな!」
ぽかんと口を開けて地面に転がる男を見て、そして店内へと動かした視線の先で。
「ふん、おっさん二人か」
視線の先で、調理師帽に割烹着姿の若い女性が胡散臭そうに私と水科を眺めていた。
「水科」「ああ。でも、味は確かだぜ?」
【R-18のラーメン屋】
次の日。
『18歳未満入店お断り』
残業を終えて家路へと向かう私の目に、チラシの裏に書きなぐったその貼り紙が飛び込んできた。昨日は飲み過ぎて覚えてなかったが、「18禁のラーメン屋」は、私の通勤路の途中にあったらしい。
今日も入ってみるか。
暫し立ち止まったあと、私は立て付けの悪い扉を横に引いた。
「ガキは来るなって書いてあんだろうが!」
私の傍らを影が転がっていく。今日は二つだ。
「なんでラーメン食っちゃいけないんだ」
「食わせろよ、美味いって言ってやってんだぜ」
店内から放り出された若い男の抗議に、調理師帽に割烹着の店主が中華包丁片手に飛び出してくる。
「ガキに用事はねえんだ、刺すぞお前ら!」
包丁を振り回す彼女の剣幕に、彼らは這々の体で夜の街へと消えていった。
「ちっ、前に食わせちまったか」
ぼりぼりと頭をかいていた彼女が「ん?」と私を見た。
「あんた、昨日も来てたかい?」
ああ、と答えると「……まあいいか、おっさんだしな」と言いながら彼女は店の中へと姿を消していく。
なんなんだ、ここは。
「なんだ? 食わないなら扉を閉めて帰ってくれよ」と手をひらひらと振る彼女を、私は棒立ちで見るばかりだった。
カウンターだけの狭い店内は、昨日と違って客が誰もいなかった。
水科は「いつも混んでるんだぜ」と言っていたが。そんなことを思いつつ私は隅の席に腰を下ろす。
つまらなさそうに麺を茹で始めた彼女から、私は所在ない視線を店内の棚の上に置かれた小さなテレビに移すことにした。スポーツニュースでは今日の野球の結果が流れている。
「野球好きなのかい?」
厨房から流れてきた声の先では、彼女が仏頂面で同じくテレビを眺めていた。
「いや別に」と答えると、「そうかい」と言って彼女は麺の湯切りを始める。
「旨かったかい?」
「何が?」「うちのラーメンだよ。あんた、うちのラーメン気に入りそうなんでね」
そんなことを言いながら、彼女は丼にスープを注ぎ、麺を入れ、馴れた手つきで具を並べていく。
「はいよ」
仏頂面のまま私の前にラーメンを差し出すと、彼女は小さなテレビを眺めながら、どこからか取り出した煙草に火を点けた。私のことはすでに眼中にないらしい。
私はラーメンを食べ終えると、カウンターに代金を置いて席を立つ。「ここはこういう支払いなんだ」と水科が言っていたので、たぶんこれでいいのだろう。
「うちのラーメン、旨かったかい?」
そのまま扉を開ける私の背に、ぶっきらぼうな声がかかった。
「旨かったら、二度と来るんじゃないよ」
それだけ言うと、後はテレビの音が聞こえてくるばかりだった。
『18禁のラーメン屋』に、私はそれからも通っていた。
店主は私の顔を見ると『やれやれ』といった表情をしてみせたが、店はいつも大繁盛で、あの日のように彼女と二人で話すようなことはなかった。いや、あの日も別に会話をしたという感じではなかったが。
店の客はよく見る顔が八割という感じだった。常連だった客がぱたりと姿を見せなくなるということがあったが、そんな中で、水科にはよく会った。というよりも、水科は毎日足繁くこの店に通っているようだった。
「ここのラーメン旨いんだよな、病みつきだよ俺」
「毎日ラーメン食ってたら成人病まっしぐらだぞお前」「お前もそうだろ」水科はそんなことを言って笑ったものだった。
そして。
「ガキはお呼びじゃねえんだよ!」
あの日のように、怒声とともに彼女が客を叩き出す光景も何度か見た。親子連れが来た時は、「こんなところにガキを連れてくるんじゃねえ!」と家族まとめて追い出されていた。ラーメン屋に家族連れで来てはいけない理由があるんだろうか。
そんなことを水科に尋ねると、「さあな。俺はここのラーメンが食えればそれでいいよ」と麺を啜っていた。
そして、時々。
「今日はお前らに食わせるラーメンはねえよ。出て行きな」
私たちも彼女に追い出される時があった。
抗議の声を上げる客もいたが、常連たちは「しゃあないな」と素直に帰った。よくあることらしいと知ったのは、何度かそんなことがあってからだ。
そんな日が続いたある日。
水科が会社に来なかった。昼になっても連絡が入らず、私は上司と一緒に彼の自宅に行った。
水科は、死んでいた。
乱雑なワンルームの中で、一人で。
「ああ、あんたか」
立て付けの悪いドアを開いた先で、厨房からテレビを眺めていた彼女が私を見て小さく息を吐いた。
店内には珍しく彼女一人だった。
今日は『追い出しの日』だったかと思い退散しようかと考える私に、「……まあいいか、食べていくんだろう?」と彼女が麺を茹でる準備を始める。どういう風の吹き回しかと思いながら、私はカウンターの隅に腰掛け、いつものように小さな古いテレビを眺めた。
「あんたの友達どうした? 顔見なかったけど」
その言葉に私は驚いていた。彼女が客のことを気にしているとは、正直思っていなかったのだ。
返事に詰まっている私をちらりと見て、彼女はぽつりと呟いた。「そうか、死んじまったか」
そして。
彼女は私を見たまま、短く言った。
「あんたも、じきに死ぬよ。私のラーメンを食ってたらね」
固まった私の前に、いつものラーメンがことりと置かれた。
次の日。
いつものように立て付けの悪い扉を開いて店に入ってきた私を見て、彼女は驚いたようだった。
「あんた、また来たのかい」
客ですし詰めになったカウンターの一席に潜り込んだ私の前に、いつものラーメンを置いた彼女がぽつりと呟いた。その言葉に、私も両隣の常連客もぽかんと口を開けた。
「友達、死んだんだろ。ここのラーメン食って」
彼女の言葉に、割り箸を手にして固まっていた私は、少ししてから「ラーメンで人は死なないだろう」と答えた。
「死ぬさ」「そうだろうか」
「ああ、もう何人も殺してるからね」
薄い笑みを浮かべると、彼女は厨房を出た。入口で待つ客たちを「今日はこれで仕舞いだ、帰りな」と追い払っていく。
食べ終えた客たちが店を出ていく中、私も代金を置いて席を立った。
「ラーメン、旨かったかい?」
背中にかけられた店主の声に、私は曖昧に頭を下げて店を出た。
「呆れたもんだね」
次の日。いつもと同じように店を訪れた私に、店内で一人煙草をくゆらせていた彼女が呟いた。
小さく頭を下げて席につく私に、「今日は仕舞いにするつもりだったけど」と言いながら、彼女が麺を茹で始める。
古びたテレビからは今日も、野球の結果を告げるニュースが流れていて、麺のあがりを待つ彼女が、仏頂面で画面を眺めていた。
「野球、好きなのかい?」
その言葉に、彼女は驚いたように私を振り返った。
私も驚いていた。彼女のその表情にではなく、そんな言葉を口に出した自分に。
「いや別に」
それだけ言うと、彼女はしかし、小さく笑って見せた。
「母親が好きだったけどな。また家族で見に行きたいってね」
そうか、と答えて、私は再びテレビを見た。彼女も首を動かし、小さな画面を見る。
「あんた、ここにはもう来ない方がいいよ」
テレビを向いたまま、彼女はそう言葉を続けた。
黙って、けれど彼女を見た私に構わず、彼女はテレビを見ながら言った。
「このままうちのラーメン食ってたら、あんたも死ぬよ。あんたの友達のように。あたしの、母親みたいにね」と。
テレビを見ながら彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
三人家族だったこと。父親がラーメン屋だったこと。厨房に立つ父親と手伝う母親と、家のラーメンが大好きだったこと。
「学校の友達が時々来てさ、うめえうめえと食べるんだよ、あれも嬉しかったなあ」
そして彼女は言葉を続けた。
父親が賭博狂いだったと。ある日いなくなったと。多額の借金を抱えていた、と。
「母親がラーメンを作り始めたんだけど、まるきり味オンチでね。食えたもんじゃなかった」
客足は遠ざかり、店に来るのは借金取りだけになったある日、彼女はこっそりと厨房に忍び込み、できそこないのスープの入った鍋の前に立った。
そして。
「色んなものを鍋にぶちまけてやったんだ、回りに転がっていた食材や調味料、脂も何もかも。もう、うんざりだったんだよ」
もうたくさんだった。くたびれた母の顔も、借金を返せと凄む男たちも、父の面影を思い起こさせるこの店も。全てなくなってしまったらいいと、彼女はスープにありとあらゆる材料と感情を放り込んだのだった。
そして、次の日。
スープの前で目を覚ました彼女の前には、母親がいた。
「ねえ、どうしたのこれ、美味しいよ」
彼女はひたすらにラーメンを啜っていた。
そんな、と恐る恐るスープに口をつけて、彼女は言葉を失った。
そのスープは、旨かった。彼女好みの、とびきりの味だった。
彼女はそのラーメンを食べてもらうために必死で働いた。まずは学校の友人に来てもらい、次に親に来てもらい、そして親の知り合いに来てもらった。
彼女のラーメンに対する評価は極端だった。口には出さないが二度と来ないか、もしくは、次の日から毎日来るか、そのどちらかだった。
「分かる人には分かるのよね」と、彼女のラーメンを毎日嬉しそうに食べながら母親はいつもそんなことを言っていた。
やがて狭い店内はいつも客で賑わうようになっていた。父親が厨房に立っていた頃よりも。
「よかったじゃないか」、と言う私に、彼女は顔をテレビに向けたまま「まあね」と答えた。
「まあね。あたしもその頃はそう思っていたよ。その頃はね」
テレビではすでにスポーツニュースは終わり、麺はとうの昔に茹で上がっている中、彼女は言葉を続けた。
そんな中、彼女の母親が死んだと。
死因はよく覚えていなかったが、理由は単純だった。偏食だ。
「母親はさ、私のラーメンしか食ってなかったんだ。毎日三食、ラーメン漬けでさ。それに」
彼女は立ち上がると厨房の奥に引っ込んで、そして、両手一杯に抱えたものを私の前に並べた。
それは、大量の化学調味料や、ラードを初めとした脂、そして私が見たこともないような食材だった。
「こんなもんをぎゅうぎゅうに詰め込んだ汁と、後は麺とチャーシューに卵とネギ。そんなものしか食わなければ人間はダメになっちまうよ。当たり前だろう? だから、母親は死んじまった」
そして、母親に続いて、彼女の友達も死んだ。
「毎日両親と来るヤツがいたんだ。うまいうまいってみんな言ってたけど、死んだよ」
親のどっちかでも不味いと思ってくれればなあ、と彼女は煙草に火を点けた。
「分かったかい? ここのラーメンには毒があるんだ。好きな奴にはたまらない、毎日食べたくなる毒があるんだ。旨い旨いって言ってるうちに、死んじまうんだよ」
「まさか」「そう思うかい、でも、あんたの友達も死んでるだろ?」
彼女の吐く紫煙が、狭い店内に漂った。
「それとな、ここのラーメンを好きな奴はさ、大体同じなんだ。くたびれて、擦り切れた、ぼろ雑巾になったようなヤツに、ここのラーメンは効いちまうんだ。そういうヤツはもうダメだ。どうしたって食べちまう。だからアタシも止めない。けどな、ガキはダメだ。あいつらは何も分かってない。ガキはそういう味を勘違いして食べちまう。だからアタシは追い出すのさ、こんな屑みたいなものを食うんじゃねえ、もっとまともなものを食えってな」
それだけ言うと、彼女は煙草を灰皿に押しつけ、頭を何度もかいた。
「そういうことだよ。つまらない話をしちまったな。今日は仕舞いだ」
「いや。まだラーメンを頂いてないんだが」
「な」
驚いた顔で振り返る彼女に、「まだかな?」と私はお冷やに口をつける。
「あんた、アタシの話を聞いてなかったのかい?」
「聞かせてもらったが、それとこれは別だろう。それに」
それに、と私は言葉を続けた。
「こんなことを言うのはなんだが、ここのラーメン。そんなに好きじゃないんだ」
「―――なんだ、って?」
絶句する彼女の前で、私はもう一度、お冷やに口をつけた。
水科の誘いでここでラーメンを食べた時、正直言って「不味いな」と思っていた。スープも麺も、それぞれの強さばかりを主張していて、食べられるものじゃなかった。
ただ、店主のことが気になった。
いきなり客を叩き出していたその勢いには驚いたし、厨房での仏頂面や無愛想な言い方も客商売とは思えない振る舞いだった。その辺りに少し興味を持って、私はちょくちょくこの店に来るようになった。怖いもの見たさというやつだったのかもしれない。
しかし、この店に通い、格別旨いとも思わないラーメンを食べ、時々店主と二言三言話をする中で。
彼女に対する私の印象は、少しずつ変わっていっていた。
『あんた、今日も来たのかい?』『あの客、来なくなっちまったか』『……あんたも、来ない方がいい』
仏頂面で、無愛想な言葉で、そんな中で、彼女は一人一人の客を見て、顔を覚えていた。客との掛け合いも交流も求めず求められず、けれども彼女はいつも、店に来る彼彼女のことを、ずっと見ていたのだった。
そのことに気づいた時、私はこの店の持つ、奇妙な雰囲気を気に入っている自分がいることを知った。
そして、仕事と一人暮らしの部屋との往復の途中にあるこの店の、ここの店主の存在は、私の生活の中で、いつしか欠かせないものとなっていた。
だから。
「……旨くないのに、毒だっていうのに、食うのかい?」
彼女の言葉に私は黙って頷く。
この空間に、この場所に私がいるためには、それは必要不可欠のものなのだから。
「おっさんは、馬鹿だな。救いようのない、馬鹿だ」
首を何度も横に振る彼女に、私は「ああ、それともう一つ」と言葉を続ける。
「俺の同僚は異動して名古屋に転勤になったんだ、勝手に殺さないでくれ」
「……本当かい?」「本当さ。さ、早く旨くないラーメンをくれないか」
「ひでえ客だな」と言いながら、彼女は私に背を向ける。鼻を啜る音が聞こえたような気もしたが、私は黙ってテレビに目を向けた。
「できたよ。さっさと食って帰りな」
目の前に置かれたラーメンに、私は割り箸を手にして軽くいただきますをする。箸とレンゲを使って啜った麺とスープは、いつもどおりの、好みとは言いづらい味だった。
「どうだい、旨くないかい?」
顔を上げた私の前には、カウンターに頬杖をついた彼女がいた。
「ああ、旨いとは言えないな」
「でも、明日も来るんだろう?」
ああ、と頷く私に、「馬鹿だね、本当に」と彼女は溜め息をついた。
「……馬鹿のために、馬鹿好みの味を作ってみるか」
彼女は伸びをすると、厨房へと戻っていく。
「味が変わったら客も離れちまうかもなあ」
「それでも毎日来るさ」
私の言葉に、彼女は頭を何度かかいてみせた。
「……馬鹿だよ、あんたは本当に」
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