第五話 「どうか勘弁してください」

 煙草旨えなあ。

紗枝の旦那である藤澤師信(ふじさわもろのぶ)は、液晶上に開かれたワードソフトを放り出して、一服ついていた。なんで煙草っつうのは気分を極楽にさせるんだろ。さすが先人の知恵ってやつだな。まるで百年を超えた知己みてえだ。指先にこの直径1センチ位の筒は妙に馴染むし、煙はガキの頃の味噌汁みてえに何の違和感もない。生まれてからずっと吸ってたみてえな気分だ。そういやよくよく考えて見れば、母親のあれにも太さが似てるし、まんざらこの感じも間違いじゃねえのかな。などなどと思いながら。

 こほん。

紗枝が師信の背後まで来て、彼に自分の存在を気づいてもらうために、口元に手を当てながら、わざとらしく咳してみせる。

「ごーはーん、ですよ?」

椅子をぐるりと回してみると、眉間は寄って、こめかみの辺りにうっすら筋を浮かべた紗栄がそこには立っていた。口元のにこやかさと、切れ上がった目つきの対比が非情にアンバランスでよろしくない。これは相当ご立腹だな、と師信はかんねんした。

「すまん、ごめん、悪気はなかったんだ。この通りだ」

手を合わせて、いかにも申し訳無さそうなふうを装う。演技だと知れていても、こうでもしておかないと、あとのお説教タイムに、それと同じくらいのロスタイムが加わることになるので、師信はそれを回避するために必死に立ち振る舞う。それを阻止するために紗栄の前に土下座をするという醜態さえ晒したことがあった。情けないことである。その態度を見た紗栄は、「もう、しょうがないわね、この人は」とでも言うかのごとく、諦めたようにため息をひとつ吐き、

「もう冷めちゃったから温めて直しておきますから、早く来てくださいね?」

そう言い加えると、軽く師信の頭頂を小突き、ぱたぱたとスリッパの足音を立てて階段を降りていった。

 師信はほっと胸を撫で下ろす。そして椅子をぐるっと回してパソコンの前に向き直すと、書きかけの文章を上書き保存してパソコンの電源をオフにした。

(いつの間に階段登ってきたんだろう、紗栄は。適わなかったり謎だったり、本当に不思議なやつだなあ。結婚してても未だに分からないことだらけだよ、あいつは)

師信はそう胸の中で思ってから、さあ急がないとまた怒られちまうぞ、と鼓舞して重い腰を上げ、書斎を出た。

 《師信は隠れ肥満というやつで、服を脱がないと意外と分からないのだ。おかげで動作が逐一遅い。》

 そうして師信は、やれやれ、と思いながら、身重しているような腹を揺らし、ドタドタと階段を賑やかしながら、1階へと降りていくのだった。

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