第3話

 どれほどの時間が経っただろうか。

 僕は、まだ女泣岬の先端に居る。何故だか涙が溢れてとまらない。

 本当に…本当に、本当は僕は……僕は…。


「死にたく…ないんでしょ。」

 脳裏に、ヤエコさんの声が響いてくる。冷たいけれど、表情豊かな笑顔で。

「あたしには、わかるの。」

 そうだ、きっと彼女はお見通しだった。

「あなたね、綺麗な目をしてる。」

 そうかな…ありがとう。


「だから、迷う事はないのよ?」

 不意に足音がした。思わず振り返った僕が見たものは…。

「ヤエコ、さん…?」

 暗い遊歩道の森の切れ目から、ヤエコさんが姿を現した。白いシャツに黒いパンツ、すっきりした美貌が月明かりに良く映えていた。

「ヤエコさん、あの、あ…。」

 そう。突如現れたヤエコさんの身体は、しっかりと厚みを持っていた。バラバラになった身体中のパーツが元通りくっ付いているだけではなく、満月の光を浴びて肌が青白く染まっているのだ。さっきまでは透き通った身体に、変幻自在のパーツだったはず。僕は戸惑い、彼女を恐れた。

「そ、そんな…」

「さっきはごめんなさいね。驚かせちゃったでしょ。」

 ヤエコさんはそう言いながら、ゆっくりと僕のほうに近付いてくる。その顔は美しく、立ち姿は爽やかで、足取りは確かなものだった。そして僕には、やはりそれがひどく恐ろしかった。不可解である事はもちろん、まるで僕の気持ちを見透かされていたようで。

 僕はついさっきまで、この社会に絶望してやってきた多くの者と同じ、本日の自殺志願者その1に過ぎなかった。だけども今はどうだ、人生の終わりにするはずの数分間で偶然出会ったばかりの彼女…しかも麗しき地縛霊の事で心の奥底までいっぱいで、美しいままの彼女に、また会いたいと強く願った。それも病気も何にもないあの世ではなく、このクズ溜めのような現世の片隅の、文字通りの崖っぷちで。

「あなたにね、どうしても伝えたい事があったの。ううん、きっと間に合うってわかってた。だってあなたは、本当は自殺なんてしたくないはず、自殺なんて出来ない人だもの。」

 目の前に、さっきまで哀れな骸を晒していた亡霊が、完全な美貌で立ちはだかっている。僕の胸は激しく高鳴って、顔が少しぼうっと熱くなるのを感じた。きっとヤエコさんにも、すっかり気付かれているのだろう。

 僕はもう、死にたくなんてなかった。死にたいという気持ちが、この数分間ですっかり消えうせていた。そして代わりに芽生えた想いは…。


「あなたがね、あたしを見つけてくれた時…すごく嬉しかった。」

 さあっ、と、済んだ夜風が吹きぬけた。冷たい、凛とした空気が僕とヤエコさんの僅かな距離を近くしたり、遠くしたりする。

「あたし…ずっと、そう、4年も。ひとりぼっちだった。あそこでずっとよ。そこで沢山、自殺しに行く人を見てた。何度も何度も、あたしの目の前を通り過ぎて、そのまま帰ってこなかった。あなたが見た、あの沢山居た影たちは、もう何十年、何百年も前の人たちなの。薄れかかった魂や情念だけが、かろうじてあそこに留まっているのよ。」

 僕はまばたきも忘れて、ヤエコさんの顔を見ていた。語られる悲しみと不思議な調和を見せる、綺麗な顔。

「あたしもいつか、こういう風になっちゃうんだ…そう思ってね、毎晩、あの外灯の前を通る人を待ってた。誰かが、きっと見つけてくれるって思って。でも、それももう諦めそうだった。自分が死んでみて、霊ってホントに居て、心や気持ちもあるんだってわかったけど、それは生きている人たちには届かないんだって事にも気づいたわ。変な幽霊でしょ?でも、あたしはもう恨みやつらみなんて捨てちゃったから…そんな風に悩んだりするのかも。」

 ヤエコさんの声が、少し潤んできていた。半泣きの幽霊も、実に可愛い。いま僕は、心から彼女が愛おしかった。

「僕…あの、僕じゃ、ダメですか?」

 彼女の目線がふい、と上がって、僕を真っ直ぐ見つめた。

「僕なら、ヤエコさんを見つけられたし…僕も…その、ヤエコさんとなら、生きていけると思うんですっ。僕と、僕と一緒にやり直してくれませんか?」

 ヤエコさんの目から、とうとう大粒の涙がこぼれだした。ぽろぽろと流れた涙が夜風に乗って、暗い海へと吸い込まれてゆく。

「…馬鹿ね。死人を口説いてどうするのよ。馬鹿ね……。」

 ヤエコさんは泣きながら毒づいた。そう言いながらも、僕のほうにゆっくりと歩み寄ってきた。僕も、崖の先端から歩き出した。海から吹きぬける風が僕の背中を一瞬、強く押した。

 

 僕とヤエコさんは身体を寄せ合い、僕は彼女を強く抱きしめた。

 本当に透き通らなかった。ヤエコさんは確かに、僕の腕の中に居た。背丈は僕より少し低くて、ふんわりいいにおいがした。

「あたし…あなたに死んで欲しくなかった。自殺なんかしちゃ嫌だった。あたしを見つけてくれたのに、あたしを見ても驚かなくて、逃げ出さなかった。あたしを美人だと言ってくれた。だからつい、あたし、あなたをからかうつもりで…脅かしてしまった…ごめんなさい…お願い、嫌いにならないで…。」

 小刻みに震えるヤエコさんの身体を抱きながら、僕は背中の手にぎゅっと力を入れて言った。

「僕も、あなたにまた会いたかった。あなたに会えるなら、死んでもいいと思いました。だけど…だけど僕は、やっぱり生きて、あなたと一緒に過ごしたい…です。さっきは驚いたけど、大丈夫です。僕は…あなたが好きです。」

 気が付くと、僕も熱い涙をこぼしていた。気持ちが高ぶってしまって、それ以上は言葉が出てこなかった。饒舌だったヤエコさんも、今はじっと震えている。

「ありがと。」

 しばらくの沈黙のあと、かすれるような声でヤエコさんは言った。僕の背中越しに涙を拭う仕草を感じて、なびいた髪の毛からまたいい匂いがした。

「こんなところで、こんなときに…ごめんね。エイジくん。ありがとう。」

「僕のほうこそ…ヤエコさんが居てくれたから、ヤエコさんが待っててくれたから…また生きようって思えたんです。ありがとう、ヤエコさん。」


 僕たちは手を繋いで歩き出した。

 真夜中の遊歩道は賑やかで、色んな動物や虫の鳴き声がした。けれど、この世のものならぬ者たちの気配を感じる事はもうなかった。二人で並んで歩きながら、あまりに思いがけない展開に少しだけ自分で笑った。

「この先どうしよっか。」

 ヤエコさんがぽつりと切り出した。

「あたしは4年も前から居ない人間だし、この先生きてくのはいいけど…どうやって暮らそう?」

 彼女はすっかり落ち着いた様子で、妙に現実的なことを言った。

「僕だってそうですよ。もう身寄りも居ないし、仕事も貯金も無いし…。」

「困ったわね。」

「困りました。」

 僕たちは顔を見合わせて、少しの間笑いあった。ひどく満ち足りた気分で、じっとりとまとわりつく不安な気持ちがどんどんほぐれていくような気がした。

「あそうだ!ねえ、外国へ行っちゃわない!?」

「えっ?」

 あまりに突拍子もない提案に、僕はポカンとしてしまった。

「だってそれなら関係ないわよ。そうよ、そうしましょっ。あたし行ってみたかったのよ、カンボジア!」

 行き先まで決まってしまった。

「ねっ。いいじゃない。どうせ死んだと思ってさ。あたしとなら、生きていけるんでしょ?」

 言ってることはムチャクチャだが妙な説得力がある…そうか…もう何も気にしなくてもいいんだし…悪くないか。ただ、僕はここで致命的な問題に気がついてしまった。旅費はどうにか捻出するにしても…四年も前に亡くなった人間がパスポートなんか取得できるのだろうか、と。

「あの、ヤエコさん…?」

「ん?」

 すっかり乗り気のヤエコさんが上機嫌で振り返った。

「その、ヤエコさん、どうするんですか?パスポートとか…。」

 ヤエコさんの表情が、予想を裏切ってにぱっと明るくなった。そしてわざとおどろおどろしい顔をしてニヤっと笑ってこう言った。

「だーいじょうぶ。あのね、言わなきゃいけないなとは思ってたんだけど…。」

 なんだなんだ?

「エイジくんも不思議だったでしょ?バラバラ死体のあたしが元通りになって出てきて。」

 そういえばそうだ。僕もそれは聞きたかった。

「…怒らない?」

「え、だ、大丈夫ですけど…何かマズイんですか?」

「うん、実は…実はね、この身体。あたしのじゃないのよ。」

「へ?」

「………あなたの後からね、もう一人…ちょうど若い女の子が、その…あたしの前を通ったの。ああ自殺するんだって思って…それで…。」

「まさか…。」

「あ、違うのよ。彼女は飛び降りなかったの。あたしがいた外灯の側にベンチがあったでしょ?そこに座って…何か薬を飲んだらしいわ。それで…そのまま起きてこなかった。」

「でもやっぱり」

 ヤエコさんは僕をさえぎって言った。

「そ。もらっちゃったの。エイジくんいつまでも帰ってこないし…あたしは死んだ状態じゃ、あそこから離れる事はできないの。だから…ごめんなさい。」

 いやまあ謝ってもらっても、僕にだってどうしようもない。僕は気を取り直して、さらに質問をした。

「でも、どうして外見がヤエコさんのままなんですか?」

「それはあたしにもわからないわ。別に、もう一度エイジくんに会えるなら、他人の身体になったって構わなかったんだけど…不思議ねえ。」

 あんたが言うな。

「でも、この人のパスポートやら貯金があれば、大丈夫なんじゃない?」

「そ、それって泥棒じゃ…。」

「魂が入れ替わっただけよ。」

「でもパスポートの顔が変わっちゃったらダメなんじゃないですか?」

 だんだん順応してしまう自分が滑稽だ。

「そんなの申請しなおせばいいじゃない。なんとかなるわよ。とりあえず、この人の記憶は大体把握したわ。まずは彼女のアパートに向かいましょ。」

「あ、はい…」


 僕はヤエコさんにすっかり圧倒されて、森の中を歩いていった。こうして並んでみると、背は僕より少し低くて、すっきりした美貌によく似合う黒い髪の毛が素敵だ。気の強そうな目と意思の固そうな唇。それに綺麗に生え揃った眉が彼女の性格をそのまま現しているようだった。

「ほら、エイジくん。」

 ヤエコさんが指を刺したのは、照らす人をなくした空っぽの外灯。僕とヤエコさんが出会った場所。数時間前まで、僕らは他人どころかあの世とこの世に暮らしていたのに。

「人生ってわからないわねえ。まさか死んでから恋が実るなんて。落ちるなら崖より恋に限るわね!」

 ヤエコさん…笑えないよ、それ。

「あ、そうだ。」

 すっと前に進み出たヤエコさんが、外灯の下に立った。そしてあたりを見渡して、少し低い綺麗な声を潤ませた。

「みんな、長い間、ありがとう。お先に。また、必ずまた来るからね。」

ずっと一緒に居た皆さんにお礼を言っているようだ。ヤエコさんが話し終わると、ざあっと強く風が吹いた。そして


 うおおおおおおおおん!!


 地の底から湧いたようなうめき声が十重二十重に響き渡ってきた。木立の暗がりから濃淡様々な影が現れては消え、そして僕たちを取り囲んだ。すっかり陰のようになった者ばかりだったが、中には頭に弓矢の刺さった落ち武者や、姿が見えていても身体の一部または大部分が欠けた者、目玉や鼻の無い者も多かった。そして地面からは、さっき僕の脚を掴んだ無数の泥や血まみれの手、手、手、手。


 うおおおおおおおおおん!

 うおおおおおおおおおん!


 うめき声はますます増えて、まるで森全体が地獄の奥底で蠢いている巨大な亡霊のようだった。僕は恐怖のあまり硬直して、思わず蘇生したヤエコさんの身体にしがみついた。だが、こんな状況にも関わらずヤエコさんは動じなかった。

「ありがとう…みんな、本当にありがとう。」

 涙をぽろぽろこぼしながら、ヤエコさんは現世を彷徨う幾千の魂たちに何度も頭を下げた。この場所に4年間も立っていたのだ。彼女達にしかわからない世界で。

「うん。うん。ありがとう。じゃあ、またね。」

 ヤエコさんは意を決して振り返ると、僕の手をぎゅっと繋いで歩き出した。

 遊歩道を出る頃には、満月はだいぶ空の片隅に傾いていた。


 彼女の一人暮らしのアパートは、随分遠い街にあった。

始発の時間まで駅前のネカフェで時間を潰し、来たときとは逆方向に向かってローカル線と新幹線、さらにその駅から路面電車にまで揺られてようやくたどり着いたのは、小さな可愛らしいアパートの二階の角部屋だった。

 そしてなんの迷いも躊躇いもなく植木鉢の下から合鍵を探し出したヤエコさんが、部屋のドアをがちゃっと開けた。


 うおおおおおおおおおおおおおおん!!!


 聞き覚えのある無数のうめき声が部屋中から響き渡った。

「ゴメンね、着いてきちゃったみたい。」

 ヤエコさんは僕にそう言って、ぺろっと舌を出して笑った。ピンク色の玄関マットの上から生えてきた数本の手が、おいでおいでをしている。


 あれから2年。

 僕たちはどうにかお金を溜めてアパートを引き払い、今はタイとカンボジアの国境の小さな町にいる。ヤエコさんは東南アジアを放浪するのが夢だったらしく、貧乏旅行だけど毎日楽しそうだ。

 アパートまでついてきた影たちは、いつのまにか少しずつ居なくなっていった。ひょっとしたら見えなくなっただけなのかも知れないけど、ヤエコさんがある日

「みんな帰っちゃったわね」

 と寂しそうにぽつりと言ったので、きっとまたあの森の中に帰ったのだと思う。


 僕は、どうしてもヤエコさんに聞けないことがひとつだけある。

 こんなに美人で、明るくて、度胸の据わった彼女が、なぜ自殺をしなければならなかったのか…ということだ。そもそも、彼女は本当に自殺をしたのだろうか。もし自殺だとしたら、彼女の抱えていた苦しみはいかほどのものだったのか。今もって聞けないままでいる。


 黄色い街並みの中にすっかり溶け込んだヤエコさんが、薄汚れてきたTシャツから日焼けした腕をのぞかせてくるくると手を振った。

「ほらほら!この焼きソバ美味しいよ!」

 彼女は今、全力で生きている。止まっていた4年間の時間を取り戻すように。僕は彼女を愛して、彼女は僕を愛してくれている。僕はそれだけでよかった。そう思っていたはずだった。だけど…どうしてもそれだけは、聞いてはいけないような気がして。


 それでもやっぱり、僕は彼女が好きだ。

 雑踏に埋もれるようにひしゃげた屋台で、賑わう人々に混じった彼女がいそいそと席に着いて僕を待っている。目の前に運ばれてきた、大盛りの焼きソバと何のお肉か分からない串焼きをキラキラした目で見つめながら。


 あの日僕らが出会った女泣岬には、結局あれから一度も訪れていない。


 おしまい。

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満月の夜は崖の上で ダイナマイト・キッド @kid

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