第2話

「ほら、あなた。聞こえてるでしょ。」

 突然、少し低くて柔らかな、落ち着いた声が聞こえてきた。だけど、僕の両耳には何も響かない。どこから聞こえてくるんだろう。そして、この声は…やはり目の前に立っている彼女のものなのだろうか。

 僕は一瞬のうちに頭をフル回転させて考えた。どうにも納得いかないが、やはり彼女が僕に語りかけているのだ。さて、どうするべきか…。

 僕はどうにか平静を装って、だけどやっとの思いで口を開いた。

「あ、あの…あなたは…」目の前に佇んでいた女性は、再びこちらに眼差しを浴びせて僕の言葉を遮り、ふわりと笑いながら言った。

「あなた、死ぬんでしょ。」

「え、あ、まあ…」

「そう。でも、やめたほうがいいわよ?」


 僕は彼女に釘付けになってしまっていた。というより、目線が離せない。身体が硬直してしまったようで、指先ひとつ満足に動かせないでいる。だけど、相変わらず何故だか恐怖を感じる事はなかった。

「崖から飛び込むとね、後で必ず後悔するから。あたしみたいに、ね。」

 そういうと彼女は、半透明の身体の左腕で右腕を掴むと、肘関節を反対側にねじり上げた。ぽこん、と軽い音がしそうな呆気なさで、彼女の右腕は肘から折れて千切れてしまった。さらにわき腹の辺りを左手で叩くと、肋骨がばらばらと飛び出して地面に転がった。

「ほら、ほーらほら!」

 彼女は笑いながら左手で自分の首を掴み

「よいしょっと!」

 と掛け声をして、根元から引っこ抜いてしまった。

「あ、あ…」

 呆然とする僕の目の前に居る彼女は、半透明で、バラバラで、でもちゃんと立って、楽しそうに僕と会話をしている。僕は頭がクラクラしてきた。なんだってこんな光景を見ているんだろう。僕は今、いったい何をしているんだろう…困惑する僕をよそに、彼女は左手で自分の首を抱えながら喋り出した。

「あの崖から飛び降りたら、岩場に激突しちゃったのよあたし。それで即死。さらに波に飲まれてね…死体も見つからなかったらしいわ。だから死んでもまだ、身体はバラバラなの。」

「や、やっぱり」

「そ。トビオリジサツ。まあ色々あったのよ。」

 その割には随分アッサリしている。

「ねえ、あたしが怖い?」

「い、いや…怖くはないけど…その。」

「あら?どうしたの?」

「その…すごく、び、美人だと…。」

 彼女は笑った。朗らかでよく通るステキな声で笑った。その笑い声はきっと、僕の脳裏にだけ聞こえているのだろう。だけど僕には、闇夜を裂いて走る月光のように、彼女の笑い声が森の中にこだましているように聞こえた。

「ありがと。驚かなかった人も初めてだけれど、死んでから褒められたのも初めてだわ。」

 確かにそうだろうなあ。と僕も思った。でも、確かに彼女は美人だ。今は体中バラバラで、しかも自分の頭を左手で抱えているけれど。肌の色こそ青白いが、くりっとした二重の瞳と整った鼻筋、小さいが肉厚の唇、それに少しつんとしたあぎと。正直言って僕好みの顔だった。

「でもね。」

 彼女は悪戯っぽく笑うと、突然右目をでろん、と垂らして見せた。

「死んでるのよね、あたし。残念ながら。」

「ああ…」

 気が付くと心底残念がっている自分が、なんだか滑稽に思えた。


 少しの間、気まずい沈黙が訪れた。もとより死ぬために来た手前、あまり話しをするような気分でもなかった。けれど、目線だけは相変わらず彼女に釘付けだった。

「あ、あの!」

 自分でも意外だったが、沈黙を破ったのは僕だった。

「お、お名前は…。」

 バカな事を…死んだ人に名前なんか聞いたってしょうがないじゃないか!


「ヤエコ。」

「えっ?」

「ヤ・エ・コ!クラハシヤエコよ。」

 少し古めかしいけど、和風美人の彼女に良く似合った名前だ。

「で?」

 ヤエコさんは半透明の顔をかしげて、こちらをじっと見た。

「あなたは?」

「ぼ、僕?」

「死人に名前を聞いておいて、自分は名乗らない気?」

「あ、ああ!あの、僕は」

 彼女は…ヤエコさんは、左手に持った首のくりくりした左目(右目はまだ垂れ下がったままだ)をこちらにじっと向けて、興味深そうに僕を見つめている。


「タ、タチバナです!タチバナエイジです。」

「ふうん。よろしくね、エイジくんっ。」

 彼女はそう言うと、首の無い胴体でちょこんとお辞儀した。

「あ、はい…でも、よろしくだなんてちょっとヘンですね。」

「あら?あなた死ぬんでしょ?だったらお仲間じゃない。」

 そりゃまあそうか、と思ったけれど、それは言えなかった。僕は今から身投げをするのだ。あの断崖絶壁から飛び降りて、身も心も砕け散ってしまおう。そう決めて、僕はこんなところまでやって来たのだから。

「自殺なんかしたら、成仏できないわよお?あたしなんかもう随分ココにいるんだから。」

「え、ど、どのぐらいですか?」

「さあ…飛び降りた日、何時だったかしら。確か2007年の…。」

「4年前ですね。」

「あらそんなに!?でもちっとも老けてないわよあたし。化けて出るのも悪くないわねえ。」

 でもバラバラじゃないか。

「エイジくん?」

「は、はい。」

「本当に、本当に自殺するの?」

「………ええ。」

「そう。じゃあ、あたしが待っててあげる。」

「………」

「だから死んだら、きっとココへ戻ってきてね。約束っ。」

「は、はい………」

「あたしには分かるの。あなた、寂しかったんでしょ。でも、もう大丈夫よ。」

「………」

「ここには、沢山お仲間がいるんだから。」

 くすり、とヤエコさんが笑うと、突然無数の人影が月夜に照らされて浮かび上がってきた。


 うおおおおおおおおおんんんん………!


「わわ、わああああああ!」

 僕はあまりの恐怖に尻餅を付いて後ずさりした。先ほどまでの静寂を突如引き裂いた無数の雄たけびは尚も低く、確かに月夜に響き渡っている。

「あらあら。怖がりなのね。でも心配しなくていいのよ。」

うおおおん…うおおおおおん…!

 はっ!?僕の右手を誰かが掴んだ。反射的に顔を向けると、褐色の地面から無数の半透明の腕が次々に伸びてきて、僕の右手に絡まりついてきた。

「うっふふ。大丈夫。みんな寂しいの。あなたとおんなじ。」

うおおおおおん……!

「ずっと、ずっと寂しかったのよ…だから、さあ。エイジくん。」

ヤエコさんの左手から、音もなく彼女の首が転がり落ちた。そしてゆっくりと地面を転がって、尻餅をついた僕の両脚の間にやって来てこう言った。

「あなたも…早く来てね?」


 わああああああああああ!!

 僕は辛抱溜まらず駆け出した。目の前だけを見て、無我夢中で走った。すると残りの遊歩道はわずかだったらしく、すぐに女泣岬へとたどり着いた。夜の海は穏やかだったが、崖の下に打ち付ける波頭は激しかった。


 僕はいったん立ち止まって呼吸を整えると、崖の先端までゆっくりと歩いていった。ひょう、と吹く風が冷たかった。心地良い雰囲気とは裏腹に、僕の心は大きく乱れていた。この崖から、闇夜の回廊に一歩踏み出せば…もうこの世とはおさらばだ。何も考えなくていい。何も悩まなくていい。あとは僕の死体が残るだけ…もう、こんな世界はゴメンだった。28年間生きてきて、この半年ほど悩み苦しんだ事はなかった。僕の負けだ…なにもかも終わりだ。僕さえ消えてしまえばいいんだ。もう誰も悲しまないし、僕を探すひとも居ないだろう。

 さあ、行くんだ…!


 スニーカーが土くれを踏みしめて、足元で乾いた音を立てた。

 満月の青白い光に照らされた、真夜中の海は美しかった。




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