満月の夜は崖の上で

ダイナマイト・キッド

第1話

 平安時代から続くという亜馬神社の広い境内を見渡すと、鳥居から向かって右手に小さな売店や御神籤の販売所などがある。左側には鬱蒼とした森が広がっていて、こんもりと生い茂る深い森のど真ん中を突っ切るように白く美しい砂利の遊歩道がくねくねと伸びてゆくのが見える。この遊歩道の先は紺碧の日本海へと続いているのだが、風情のある磯や長閑な砂浜などではなく恐ろしい角度で切り立った断崖絶壁だ。その下に渦巻く潮の流れは複雑で、人間が沈むと二度と浮かんでくることは無いという。

 この崖には亜馬岬という立派な名前があったが地元の人間はおろかこの場所を知るほとんどの人は、決してその名前では呼ばなかった。

 

 別名「女泣岬(おんなきみさき)」。


 ここは自殺の名所として古くから知られているためか、数々の怪奇現象や心霊の類が目撃されており、いつしかその名がついたと言われている。そして僕も、今からその岬へと向かう途中だというわけだ。

目的は、名所見物でも肝試しでも、ない。


 これまでの僕には、裕福とは言えずとも温かな家庭と、長年付き合っていた恋人、勤めていた会社、少ないながら預金残高もあった。28年間、まあなんとか順調に歩んできた人生だった。だが半年前、些細な事がきっかけでその歯車は軋み、ゆがみ、遂にはてんでばらばらに崩れていってしまった。まるで喜劇王の映画のように、一度狂った歯車はどんなにもがいても元通りにはならなかった。

 細かな経緯は思い出すのも辛いので割愛するが、要するに僕は全てを失ってしまった。そしてとうとう生きる気力と望みさえも失くした末にこの岬へ向かう事を決めたのだった。

 

 前もって場所を調べたうえで朝早くに家を出て、わざわざ遠出して身投げするなどというのは妙な気分だった。地元の駅ではつい特急列車の往復切符を買ってしまい、一人で苦笑いしたりもした。途中、車窓から見る景色は格別に感じた。最早コレで見納めかと思うと、どんよりとした故郷の空も、駅前の薄汚れた雑居ビルも、色あせた政治ポスターも、県道沿いのありふれた自動車販売店や回転寿司のチェーン店さえも美しく見えた。

 全ての営みは現世に繚乱する花々のようだ。そして僕は、今日潔く散ってしまおう…そう決めて、指定席の柔らかな座席で目を閉じた。


 特急が停まる大きな駅からさらに私鉄とバスを乗り継ぎ、岬のたもとにある小さな町に着いたのは夕方を少し過ぎた黄昏時だった。分厚くて濃い灰色をした雲の間から夕陽が細長く伸びて、辺りの影を一層濃くする。昼と夜の間、影と光の間、僕の一番好きな時間で、一番憂鬱な時間でもあった。昨日までは、とにかく明日が来るのが苦痛だったからだ。


 バス停では数人の地元民らしき人間と一緒に下車した。みな一様に疲れた顔をして、白いイヤホンでぎゅっと耳を塞いだ退屈そうな女子高生も、黄色い農協のキャップを被った日焼け中年オヤジも、色褪せてヨレたピンクのポロシャツを着た化粧くさいオバサンも、バスを降りると散り散りに去っていった。岬へ向かうのは僕だけのようだ。アスファルトに響く足音が、ずっぱずっぺずっぱずっぺ、と重い足取りを表していた。死ぬのが怖いわけじゃない。ただなんとなく…死んだらどうなっちゃうんだろう、と考えた。また、自分が死んでも泣くような親兄弟や恋人、友人なんてものがもう居ないという事にふと空しさを覚えた。しかし幾ら考えても決意だけは固く、僕は躊躇うことも迷う事もなく亜馬神社へと到着したのだった。


 それからしばらくの間、茂みと木立に紛れて身を隠していた。まだ辺りにはまばらな人影が見える。僅かながらの観光客や、店じまいをする売店の老婆、それに地元の老人達が3人ほど固まって、件の絶壁について話をしているところだった。

 いま崖の方へ向かったら、訝しがられてしまうかも知れない。もし気付かれて思い留まれなどと言われたらなんと説明したら良いかわからないし、ひたすら面倒だ。

僕は通りと境内からちょうど死角になった大きな杉の木の幹にもたれかかって目を閉じた。思えば色んな事があった人生だったが、果たしてそれは満足行くものであっただろうか。少なくともこの半年は、まるで悪夢のような日々だったけれど。そんな風に今までの自分に思いをめぐらせていると、長旅の疲れかいつの間にか僕は眠ってしまっていた。


 目が覚めると、時刻は午前1時を回っていた。自堕落な生活が続いていたせいで、思いのほか身体が疲れていたのだろう。草むらや木々の濃厚な緑の香りが心地よく、関節がやや痛むものの目覚めは良かった。いわゆる心霊スポットの真っ只中に居るわけだが、不思議と恐怖は感じなかった。考えてみれば僕は今から身投げするのだ。いわば幽霊予備軍が幽霊を怖がっても仕方が無い。


 用意の懐中電灯で丸く照らされた夜の砂利道をざっざざっざと踏みしめて歩く。道なりに北へと向かえば崖だ。僕はなるべく何も考えず、わき目も振らずに歩き続けた。遊歩道は2キロほど曲がりくねって続いている。時おりベンチや便所に東屋がある位で、灯りもまばらだ。芝生や茂みのフェンス、ポツンと立っている外灯、便所の壁など至るところに自殺者を思い留まらせるための電話番号つきの張り紙がされている。この崖には監視小屋もあり、職員が巡回に来る事もあるそうだ。


 遊歩道が100メートルほど真っ直ぐに伸びた辺りに差し掛かって、その先に外灯が立っているのが見えた。いや、立っているのは外灯だけじゃない。その灯りの足元に、白い服に黒いズボンを穿いた女性が立っている。やはり自殺志願者だろうか…

僕は一瞬ためらった。彼女の目の前を通過しなくては、崖にたどり着くことはできない。だが、あのように俯いて青い顔をして立ち尽くす女性を無視して歩き去るのも気が引けた。かといって僕に彼女を救えるアテもない。僕だって死ぬためにココへきたのだ。説得して助けた所で責任は持てないし、見ず知らずの女性と心中なんてするつもりもない。


 しかし逡巡する思いとは裏腹に、僕の足は確実に前へ前へ…まるで吸い寄せられるように留まることなく進んでいった。外灯が、呆然とした女性が、じわじわと近付いてくる。段々と服装も髪型もはっきり見えるようになってきた。白い長袖のシャツに、黒いスリムなパンツ。背はさほど高くないがすらっとした体形によく似合っていた。そのまま40メートル、30メートル、20メートル。そして10メートルほど手前に差し掛かったとき、異変が起こった。

 笑ったのだ。女性はゆっくりとこちらを向いて、にこり、と透き通るような冷たい微笑を浮かべた。その顔は、表情は、肌の色は、思わずぞくっとするような美しさだった。


 その時。夜空を覆っていた雲が切れて、青白い月の光が差してきた。みるみる流れて行く雲がすっかり東の方へ飛び去ってしまうと、その月は見事な満月だった。ひとすじの月光が真っ直ぐに降り注ぐと、外灯の下にいる女性を、闇夜に浮かび上がらせるように照らし出す、はずだった。だが、この女性が青白い月光を浴びる事はなかった。僕の足は5メートルまで近付いた。そして僕は気付いたのだ。この女性の頭上に立っている外灯の光さえ、彼女を照らす事は出来ないのだと。

 透き通るような微笑を浮かべたこの女性は、文字通り透き通っていた。不自然な痣か腫れ物のように見えた顔の色合いは、彼女の後ろに広がる景色だったのだ。その段になって漸く、僕の足は止まった。すぐ目の前に、半透明の女性が笑顔を見せて佇んでいる。


「何見てるの?」

えっ!?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る