涙くん、また会う日まで
高江はそれからサワーを2杯飲んだ。
僕が弱いんだからやめとけって言っても聞かずにそれを飲みきった。だからお会計のときにはもうベロベロで、机に突っ伏して眠りこけていた。しょうがないから僕が全額払っておいた。
「おい、高江。もう行くぞ、起きろ」
肩を掴んで身体を揺すると高江の薄い瞼がそっと持ち上がる。それから机に上半身を預けたまま、僕を黙ってじっと見つめた。つやつや潤んで光る高江の目。酔っているからだと分かっていてもその光にはらはらする。
「無理、立てない、抱っこ」
高江はそう言って両手を僕に伸ばす。僕はため息を大きく吐いて、高江の片腕だけを手に取って僕の肩に回させた。
「お前な、”抱っこ”なんて言うんじゃないよ。恋人と間違えてんじゃないの」
よいしょ、と彼女の肩を支えて高江を立たせる。高江はそれに不服そうに僕の腕を振り払って自分ひとりで立ってみせた。
「あんたは田片!私は恋人にこんな事言わない!」
「あー、もう、うるさいうるさい。大声ださないでよ」
「お会計!」
「もう払ったから」
「何勝手なことしてんの!半分払う!」
「もういいって、結婚祝いってことで奢るからさ」
僕がそう言うと高江は目を見開き、ぐっと下唇を噛んでこちらを思いっきり睨んだ。やっと黙ったかとほっとしたのも束の間、高江は「ばか!」と叫んで焼き鳥屋から飛び出して行ってしまう。馬鹿ってなんだよ、馬鹿。僕は店の中にいる訝しげにこちらを見ていたお客さんと店の人に「すみません」と頭を下げてから高江の後を追った。
高江はふらふらと商店街を歩いていた。まさに千鳥足って風貌である。僕はその数歩後ろに付け、「転ぶなよ」「どこに行くんだ」なんて声を掛けながら後を追って歩いた。高江は僕の言葉を無視したり、「うるさい」って怒ったり、それでもたまにこちらを振り返ってあのかまぼこ型の目で笑ったりしながら前へ前へ足を進める。焼鳥屋に入ってから数時間が経っていた。明るかった辺りには少し夜の気配が漂い始め、商店街の蜘蛛の巣が貼った街頭はせっかちにももう既にその明かりを灯していた。その光は高江の姿をほのかに照らし、彼女がふらふら歩く度にその髪の毛の一本一本が反射してキラキラと光った。このままずっと歩いていられたらどんなにいいか。高江の後ろ姿を見て、何度も何度もそう思った。けれどそんな事はあり得ないって本当は分かってしまっていた。
高江が足を止めたのは商店街から抜け出したすぐ近くにある小さな小さな神社だった。ふらふらと境内に入り、危なっかしく手を洗う。口を清めようと手に水を満たしてから唇を寄せた横顔。きれいだなって思った。とても自然に、恥ずかしくなる余裕もないくらいにそう思った。高江はすこし顔を下げるから、髪の毛が重力でさらさらと落ちてきてしまう。僕はそっと手を伸ばしてその髪を彼女の耳にかけてやる。高江はびくりと体を硬くして、僕と目が合うとふわりと微笑んだ。僕はすぐに目を逸らし、誤魔化すように急いで手を洗って口を濯いだ。
高江は賽銭箱に二枚小銭を入れた。
「ほら、田片の分も入れたから祈って」
「え?こういうのって自分のお金じゃないと……」
「さっきの代金、これでチャラね」
どう考えても値段が違いすぎやしないか。そう思ったけど僕は何も言わなかった。二礼二拍手、一礼。お願い事はしなかった。高江はぼくが全て終えてもまだ手を合わせ、目を閉じたままでいた。
「私、高校の時にもここに来たんだ」
高江は姿勢を変えずに口だけを動かす。
「いつものあの店で田片と喋った後、ひとりでここに来てお祈りした」
あなたは忘れたかもしれないけど。高江はそう続けて少し笑った。
「私、涙くんにプロポーズされたんだよ」
高江はあはは、と声を出して笑い、その後は上がった口角をゆるゆると下げて一の字に結んだ。
忘れるはずがなかった。今の今まで、忘れたことなんかなかった。
「世界が終わるらしいんだ」
その日の僕は高江に言った。たしかマヤの予言だか何だかがあって、夜のテレビでそれを知った僕はしばらくずっとずっと不安だったんだ。馬鹿らしいと自分でもわかってはいた。けれど、本当のことなんか誰にもわからないから。
「知ってるよ、もうすぐだよね」
制服を着た、今より幼い高江は真面目にそう言った。僕はちょっと驚いて、だって馬鹿にして笑うと思ってたから、そうやって笑い飛ばされるのを少し期待していたから、ますます不安になってしまったんだ。
「どうすればいいんだろう」
「どうしようもないよ、きっと」
そう言った高江はちょっと大人に見えて。僕が黙り込んでしまうと高江は「でも」と言葉を繋げた。
「いいことしてたら、神様も考え直してくれるかもしれないよ。終わらすのはもったいないって、思ってくれるかも」
高江の目はつやつやとしていた。光が差していた。冗談めかして笑うかまぼこ型の目。でもその奥には本気の色が見えた。
「そうかも」
だから僕も割と本気になれて、そう言えたんだ。
「田片さ、その世界が終わるかもしれない日の次の日、何の日か知ってる?」
「……さあ。何?なぞなぞ?」
僕がそう言うと高江は笑う。「ばか」って一言口にして。
「私の誕生日だよ」
それから高江は塩辛いポテトをがじがじとした。僕もそれに習ってがじがじとやる。
「そうなんだ、16歳になるね。結婚できるよ」
「……そうだね」
冷え切って硬くなったポテトはお世辞にも美味しいとは言えない。けれども変な中毒性があって、僕たちは手を伸ばし続けた。
「じゃあさ、」
僕は指に付いた塩を親指と人差し指でぐりぐり弄び、その半透明な粒の輝きを見ながら口を開いた。
「世界が終わらなかったら、結婚しようか」
言ったら口が急に乾いた。僕は水滴まみれのドリンクカップに手を伸ばし、慌ててその中の液体をストローで吸い込んだ。手に付いた塩は容器の周りの水滴に溶けて消えていく。少しの沈黙の後、あは、と高江が中途半端に笑うのが聞こえた。
「……そうだね」
その時顔を上げて見た高江の笑顔を、僕はずっとずっと、呪いのように忘れられずにいる。
「涙くん、その後泣いたんだよ。私もうびっくりしちゃって、なんか私がひどいこと言ったみたいになっちゃってて、すっごい焦ったんだから」
今の高江。もう制服は似合わないくらいに大人になった。
「それで、全然泣き止まないから私も腹が立ってきて、先に店からでてっちゃったんだよね」
きっと僕ももう制服は似合わない。
「その後ここに来たんだよ。ここに来て、お祈りしたの。世界が終わりませんようにって……」
高江の合わせた手は微かに震えていた。口角も無理矢理に上げようとするから痙攣して、ひどく不細工に見えた。
「覚えてるよ」
僕がやっと口にした言葉も震えていた。
「ずっとずっと、覚えてたよ」
そう言うと高江は瞼を開いて、つやつやとした目で僕を見た。その目には光が差している。僕の胸まで届いて焦げつくような光だ。
「……だから、ごめん、幸せになってよ」
君の選んだ人はきっと優しい。
昔を振り返るばかりじゃない。君とこれから前をまっすぐ見て過ごして、何十年かたったらそっと振り返って笑いあえる人だ。制服姿の呪縛から逃げれないような、僕みたいな人ではないはずだ。
だから、僕たちはきっともう会わないね。
もう会えない方がいいね、なんて本当は思ってもないけれど。
そうやって騙し騙し微笑む。
「……いくじなし」
高江はそう言って、笑った。かまぼこ型の目。少し歪んだ口。僕を呪ったあの笑顔だった。
帰りのバスは行きよりも客がまばらだった。僕たちは再び一番後ろの席に陣取って、いろんな話をした。昔のこと、これからのこと。色々。でもそのどれもが何だか非現実的に思えた。高江が僕側によろけることも何度かあった。高江の温度を感じる度、僕はその腕を引っ張って何処かへ逃げてしまいたくなった。けど、そんなことしたってもうどうしようもないこと、大人の僕には分かってしまっていた。「いくじなし」、何度も何度も高江の声が聞こえた。
あの時世界が終わっていたら。18になってちゃんと高江を迎えに行けていたら。僕が君を連れて全てから逃げていたら。今頃どうなっていたのだろう。
そんなことを考えているうちにも、バスは確実に進んでいく。僕が降りる停留所の名前が録音テープで呼ばれる。なかなかボタンを押せない僕に代わって、高江がボタンを押した。ピン、ポーン。独特の間で電子音が鳴り響く。
「涙くん、」
緩やかにスピードを落とすバスの中、高江はそっと僕の手の甲を握った。
「また、ね」
僕も高江の手の上に自分のを重ねて、ぎゅっと強く握った。それから優しく彼女の手をどけ、立ち上がる。
またね。
僕は口にせず、その姿に背を向けた。
バスから降りると、行きで出会った制服姿の男女が僕の後から降りてきた。「塾大変だね」「でも一緒に同じとこ行けたらいいね」なんてお喋りをして僕の横をすり抜けていく。バスの明かりも届かない暗闇で、2人はそっと隠れるように手を握った。彼らが歩くのはあの小径の上。そうか、あれはもう僕の跡ではなくなっていたのか。
出発するバスの中、高江は泣きそうな顔でこちらを見ていた。だから僕は腹に力を入れて満面の笑みを浮かべてやる。本当は泣きたかったけれど、最後まで涙くんじゃカッコ悪い。
高江は僕を見て吹き出すように笑った。「ばか」そう彼女の口が動くと、バスは走り去っていった。
橋の上を渡り、その白い車体が小さくなって消えるまで僕はそこから動かなかった。
さよなら。
僕はこっそり呟いて、暗い夜道をひとりで歩く。そろそろあっちで住む場所を探そう。ここよりももっと好きになれそうな場所。そう思いを巡らして、とても楽しい気持ちになれたのに、なぜだろう。涙が一粒だけ頬を伝った。
涙くん、さよなら 加科タオ @ka47
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