涙くん、さよなら

加科タオ

涙くん、ただいま

 バスの停留所はまだ誰かが手入れをしているようだった。放っておくと腰ほどの高さになる雑草も根元から切られて、その断面が地面から近いところに咲いていた。


 制服を着ていた頃に雑草を踏み分け作った小径の跡は不思議とうっすら残っていて。僕はその地面がうっすら覗く上を辿るように足を進めた。バスダイヤの書かれた看板の横に立つ。1時間一本だけの表示。本数は変わりない。ただ、その看板自体は新しくなって、見慣れない、目にチカチカとする色に全体が変わっていた。


 普段はカラカラの地面が広がるけれど、雨が降ると途端にごうごうと濁流が流れる川。その上に作られたコンクリート製の橋の向こうに目をこらす。バスはあっちからやってくる。到着時間はいつも時刻表より早まったり遅まったりする。電車に慣れきったいつもの僕ならイラつくその誤差が、このバスに限っては穏やかな気持ちで許すことができた。そして昔からの白い車体が見えた時、なんだか少しどきどきするのだ。


 ガタガタと音を立てて開く扉から乗り込み、あっかんべをしたように四角い機械から垂れる整理券を引っ張る。と同時にインクが滲んだ「9」の文字が印刷され、なんだかとても懐かしいと思った。


 僕の他に乗客は2人しかいない。1人席に座り、背中を小さく丸めたおばあちゃん。そして一番後ろの席に陣取るのは、何年か振りの高江たかえだった。


「ただいま、田片たかた

「おかえり、高江」


 僕たちはお決まりの挨拶を交わし、お互いに少し照れたように笑う。それから僕が高江の横に座るとバスはゆっくりゆっくりと発車した。


「最近どう、仕事とか忙しい?」


 高江は目尻をきゅっと細めて笑う。そうやると高江の目は少し横に伸ばした半円状、かまぼこみたいな形になる。その目だけは昔からずっとずっとかわらない。


「まあまあ、ぼちぼちだよ」

「ここから通うの大変でしょ、バスも1時間に一本あればいいような田舎なんだから。あっちに住もうと思わないの」


 そう高江が言い切るか切らないかの時に道は大きなカーブに差し掛かり、バスが曲がった反動で僕は少し横によろける。高江も「うわ」とかなんとか言って僕側に体を倒した。僕の腕に高江の腕が押し付けられる。柔らかくって温かい。そういえばまだ僕たちが制服を着ていた頃もこうやっていた。バスが曲がると思うと僕は踏ん張って、高江はそのままよろけて僕にもたれる。その度なんだか僕は嬉しくって、高江の温度にどきどきしたものだった。そしてそれが離れるとちょっと寂しくって。バス、曲がれ、曲がれっていつも念じていた。


「……そうだね、いつかはここを離れるんだろうな、とは思ってるよ」


 僕がそう言うと高江はまた笑う。すこしお尻を上げて座り直す。と同時にあの温度は僕から離れていった。


「なにそれ、ひとごとみたいな言い方」


 高江がそうやって笑うから、僕も笑った。


 最初は田んぼと広い広い空だけだった窓の外も徐々に建物が多くなってくる。そうするとバスが停留所に止まる回数も比例して増えていき、中は満席とはいかないがまあまあの混み具合になってきた。


 僕らの母校の前にもバスは止まった。そこから制服姿の男女が1組乗り込んでくる。僕が仕事場へ行く途中で見る都会の高校生に比べれば地味で野暮ったい雰囲気の2人だった。しかし2人とも笑っていて、その素朴な笑顔になんだか胸が苦しくなった。


「カップルかな」


 高江がにやにやしながらその2人をこっそり指差す。


「男女だからってそうとは限らないだろ。中学生みたいなこと言うなよ」

「うーん、まあそうだね。私たちもあんな感じで一緒にいたけど、べつにそんなんじゃなかったもんね」


 言い終わると高江は一瞬ふっと笑顔を消した。それからまた僕に向き直って笑いかける。「懐かしいね」って。だから僕も「うん」って笑っておいた。


 僕たちは中、高と学校が一緒だった。仲良くなりだしたのは高校の時。2人とも通学手段が今乗っている路線バスで、自然と顔をお互い覚え、挨拶をするようになり、親しくなった。卒業して、別々の所へ進んでもたまに連絡を取り合い、今の今まで関係は続いている。


 大学もすこし遠くに行って、就職はもっと遠くまで行ってしまった高江とは対象的に、僕はずっとこの地に留まっている。だから彼女は地元に帰ってくると必ず僕を誘った。いつもいつもこの路線バスに乗り、ここら一帯では栄えた方の町まで一緒に行くのだった。


 目的の停留所の名前が録音テープで呼ばれると、高江は待ってましたとばかりにすぐに停車ボタンを押した。ピン、ポーン。独特の間を持って電子音が車内に鳴り響く。高江はまた「懐かしいね」って笑った。僕もまた「うん」って笑った。


 昔、目一杯のオシャレをしてすこし緊張しながら歩いた商店街。あの頃の僕には一番の都会だったこの景色。今では古いところばかりに目がいってしまって、あの頃のキラキラとした町ではなくなった。


「ここ、よく一緒にきたよね」


 高江が指差すのはどこにでもあるファーストフードのチェーン店。大した娯楽もないこの田舎で若い僕たちには行くところがなく、結局いつもいつも最後はここでだべって過ごした。人工的な甘さのオレンジジュース、たくさん入った氷が溶けて元々少ない果汁、その割合がさらに低くなっても構わずに喋り続けた。塩辛いポテトで少しかゆくなった口で言葉にするのは今ではどれも非現実的なことばかりで。今日もその店は若者であふれている。今の僕たちには入る隙がなくって、2人ともちょっと微笑んでから黙って足を進めた。


 僕たちが選んだ店は看板の文字が所々剥げ落ちたような焼き鳥屋だった。そこで早すぎる夕食をとることに決めた。


「さっきの店とは大違い」


 高江はそう言ってあははと声を出して笑う。そこにすこしの寂しさが滲んでいることはすぐに分かったけれど、僕は何も言わずに微笑んだ。


 ささみ、ぼんじり、レバーにしいたけ。生ビールの中。

 雛串、皮、砂肝とレバー。玉ねぎと生ビールの中。


 お互い好きに注文して、すぐに出てきたビールで乾杯する。オレンジジュースよりも今はこっちの方が美味しくなった。そんなに強くない高江はジョッキを半分空けたぐらいですでににやにやとご機嫌そうだった。


「涙くん、涙くん」


 ああ、もう出来上がってきてる。高江は酔うといつも僕のことをそう呼んだ。


「合唱コンクールで優勝して、感動してひとり号泣してた涙くん。泣きすぎてみんなに引かれてたの知ってた?」

「知ってる知ってる、お前が酒飲むと毎回毎回言うからもう知ってる知ってる」


「クラスのマドンナに彼氏が出来て、しかもそれがあんまりお似合いで悔しくて泣いてた涙くん。あの子今さっき見た私たちの学校の先生らしいよ、今度会いに行きなよ」

「うるさいな、大人の男がひとりで母校に行くなんて気持ち悪いだろ」


「卒業式、制服のボタン全部残ってたから私がもらってあげるって言ったら泣いてありがとうっていった涙くん。あれ、私まだちゃんと取ってあるんだよ」

「……あー、はいはい、ありがとう」


「涙くん、涙くん」


 高江はにやにやしていた顔を急にくしゃりと歪めて僕を見た。


「私ね、結婚するの」


 それから高江はすこし泣いた。俯いて、焼き鳥を時々がじがじと齧りながら。


 僕はしばらく何にも言えずにいた。全身の力が抜けて、急にジョッキが重く感じた。だから高江に習って焼き鳥をがじがじとした。レバー串は口の中の水分を奪って胃の中へと消えていく。


「おめでとう」


 やっといったその一言はレバーのせいかひどく掠れていて、悲しかった。

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