第4話 アニバーサル・スタジオ・オブ・異世界(下)
クマは危険な動物である。森に入る際には、見つけても絶対に手を出してはいけないと、よく言い聞かされたものだった。そのクマが、あろうことかすぐ傍まで迫っており、しかも人の言葉を喋っている。
そのことに、サリーは思わず声を上げそうになるが、すんでのところで踏みとどまった。何のことはない。なにせここは、サリーの夢の中なのだから。クマが喋ることくらい、大した問題ではないのだ。問題というならそれこそ、そびえ立つ巨大建造物の方が問題だ。
先ほど感じたような凄みはもうないが、それでもあれだけの大きさのものは、見ているだけでどうにも気押されてしまう。
サリーは大きく両手を広げると、ふぅーと息を吐いた。
深呼吸をして乱れた鼓動を整える。
改めて近くで見ると、そのクマは本物ではないことがよく分かった。全身を覆う体毛はいかにも作り物めいており、野生の動物が持つ特有の生々しさはまるで感じられない。言うなれば王都に住んでいた頃に持っていた、ぬいぐるみのようなものである。
そのクマは、サリーが落ち着くのを見計らって口を開いた。
「とりあえず、何から説明しよっか。お嬢ちゃん、昨日送った手紙は見た?」
クマが話しかけてきたが、サリーはそれを完全に無視した。眉一つ動かさず、微動だにしない。夢の中の登場人物に返事をするというのも、なんだか滑稽である。
サリーはその場にごろんと寝転がると、両の瞼を閉じた。そして、どうすれば夢が醒めるのかな、などと考え始める。
「アカン。この子、現実逃避するタイプや」
「……」
「もしもーし。もしもーし!」
「……」
「ていうか、そもそもなんで白クマがしゃべってんの? とか、ここはどこ? とか、何も思わへんワケ?」
「……」
一向に目を開ける気配のないサリー。両者の間に、短い沈黙が広がる。
「頼む! いや、頼んますお嬢ちゃん! 起きて! 起きて下さい! このままじゃワイがエレナに殺される!」
「……」
「おーーーい! お嬢ちゃ……」
「もう! うるさいです! なんなんですか!」
しつこく催促するクマに、とうとうサリーの方が折れた。もう一度眠ればきっとこの夢も醒める。そう思い、ちょうどウトウトし始めていたところだっただけに、サリーの機嫌はすこぶる悪い。安眠妨害の恨みは怖いのだ。
「手紙。見ましたけど。それがどうかしたんですか?」
目の前のクマを睨み付け、刺々しい口調でサリーはそう言った。
「えーと。あれは僕達からの招待状や。そんでもって、お嬢ちゃんはここに招待された。今からワイがこのパーク内を案内する。OK?」
「いや、全然」
「要するに、ここは娯楽施設で。今からお嬢ちゃんとワイで、パーク内を遊んで回ろうって話や」
「遊んで回る……。どうやってですか?」
「そりゃ、もちろん。歩いて回るけど?」
ギリギリと、サリーは奥歯を噛み締めた。まるで馬鹿にされた気分だ。それが出来ないから、サリーは苦しんでいるというのに。そして、さも当然のことのように言った彼の姿に、何より腹が立った。
「ふざけないでよっ!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。こんなに大きな声を出したのは、いつ以来だろうか。
あの地獄の日々が始まってから、サリーが怒ったり泣いたりすることは滅多になくなった。何をしても無駄だと、そう悟ったからだ。心を閉ざし、頭の中を空っぽにする。そうすれば、少しだけ心が楽になった気がしたからだ。
それなのに、この陽気なクマの前では、なぜか感情の歯止めの効かなくなる自分がいる。そのことが素直に不思議だった。
サリーは、相手が夢の中の登場人物であることも忘れて激昂した。
「歩いて回る? それが出来ないから悩んでいるんじゃない! 苦しんでるんじゃない! 人の傷口を抉るようなことを言わないで! わかったような口を利かないでよ! あなたみたいな五体満足の人には、私の気持ちなんて絶対にわからない!」
「……」
「何よ! さっきからずっと黙っちゃって! 何か言いたいことでもあるんですか? あるんなら……」
「……ごめんな」
「ッ!」
心底申し訳なさそうに、クマはそう言った。
素直に謝られたのが想定外だったのか、サリーはそれっきり口をつぐんでしまう。両者の間に、再び短い沈黙が訪れる。
「ごめんな。ちょっと気配りできてなかったみたいや」
再度、クマはそう言った。
「……謝らないでよ。夢の中のキャラクターのくせに。……なんだか調子が狂います」
「何度も言うとるが、ここは夢の中とちゃうで」
「はいはい。分かりましたから、もうその話はいいです」
急速に冷めていく怒りを実感しながら、こんなところで自分は一体何をしているのだろうと、サリーは思った。夢のキャラクターに言われた言葉に激昂して、喚きちらし、謝られて。よく、夢は本人の望みを写すと言われる。それじゃあ、このよく分からないやり取りがサリーの望みだというのだろうか。この夢は、一体どこに向かっているのだろうか。
しかし、そんなサリーの思いは、白クマの次の言葉によって根こそぎ吹き飛ばされた。
「まいいや。とりあえずその足治すから、サリーちゃん、そこに座って」
「…………へ?」
こいつは一体何を言ってるのか。サリーがその言葉を飲み込み、理解するまで、数秒の時間を要した。
「治すって、治るわけないじゃない。何言ってるんですか」
「正確には治すわけやない。ロボット使って動くようにするだけや。それもこのパーク限定で」
「……言ってることの意味が分からないんですけど」
「まぁ、黙って見とき」
そう言って、クマは懐から小さな板を取り出すと、突然、空に向かって話し始めた。誰かと会話しているような口ぶりだが、辺りにはサリーとクマ以外誰も見当たらない。
気でもふれたのではないかとサリーは思った。所詮は夢の中だし、クマ畜生である。そんなこともあるだろう。
「はい。はい。ごめんなさい。マジでごめん。はい。ごめんなさい」
先程から、クマはしきりに誰かに謝っているようだ。ふと、わずかにだが何かの声がすることに気付いた。若い女の子の声である。サリーはそっと耳を澄ませてみる。
『まったく! そもそも、マスターが接客したいって言い始めたんですよね! それなのに、お客さんの予習するの忘れてたとか、どういうことなんですかーーっ!!』
「いや、ごめんなさい。マジでごめんなさい」
『マスター。まさかとは思いますが、知らずに足悪いことに触れて、お客さん傷つけたりなんかしてませんよね?』
「えーと……。な、なんのことかなー。あは、あははは」
『こらーーーーっ!! もう! 何やってるんですかーーっ!!』
「いや、これには深いわけが……」
『言い訳何て聞きません! もういいです! 今から私がそっちに行きます!!』
「え、いやちょっと待って!それだけは……」
『マスター。覚悟して待っていてください』
「お、落ち着けエレ……」
ツゥーツゥーと、間延びした音が聞こえる。
しばらくの間、心ここに非ずといった様子で突っ立っていたクマであったが、やがて板を懐に戻すと、石畳の上に座ってガタガタと震え始めた。
「やばい。終わった……」
何事かとサリーが横目で見ると、ぬいぐるみのくせに顔を真っ青にして、この世の終わりとでも言わんばかりの顔をしていた。月明かりを反射して、クマの眼頭に溜まった涙が輝く。
「ふわああああん! お母さん! 俺まだ死にたくない!」
関わることなかれ。ガンガンと地面を叩きながら転げまわるクマの姿を見て、サリーは素直にそう思った。
しかし、先程までの陽気な態度とは打って変わって、ボロボロと涙を流すその姿を見ていると、何とも自分が可哀想なことをしている気がしてくる。
「え、えっと……」
別にサリーは悪くないのだが、どうにもいたたまれなくなったサリーは、先程の思いも忘れてベリーに話しかけた。
「あ、あの。大丈夫……ですか?」
大声を上げ、ドバドバと涙を流す白いクマ。彼は、サリーが声をかけるとピタリと静止した。
しばらくの間、クマは石畳の上で仰向けに倒れて震えていたが、やがて顔を上げると。
「……ププッ」
「え?」
「ぶあーはっはっはっは!! へっへー! 騙されてやがんの!」
「…………」
「俺泣いちゃってるって思った? ちょっと可愛そうやなって思った? 思ったやろ! ぬはははは!!」
こういう気持ちを何と呼ぶのだったか。
今、サリーの胸の中は、目の前で涙を流してゲラゲラと転がりまわっている白クマを張り倒したい気持ちでいっぱいになっている。
心配したというわけではないが、せっかく気遣ってあげたのに、この仕打ちである。
一発くらいぶん殴ってやってもバチは当たらないのではないだろうか。
と、サリーがそんなことを考えていると。
「この……」
「あほんだらあああああああ!」
「!?」
突然、どこからか女の子の声が聞こえたかと思うと、ゴオオンという派手な音を立てて、空から光の柱が降ってきた。
ちょうど白クマ一匹分くらいの太さを持つその柱は、まるで狙っていたかのように、地面で転げまわっている白クマに直撃した。
「キャッ!?」
直撃の瞬間、すさまじい爆風とともに、辺り一面が光に包まれる。地面が揺れ、辺りを熱気が覆い尽くした。
やがて、立ち上る煙の中からプスプスと音を立てて出てきた白クマの毛は、所々が真っ黒にちぢれていた。
よく見ると、煙の中にはクマの他にもう一つ人影がある。クマは背後からにゅっと伸びてきた手にからめ捕られ、羽交い絞めにされていた。
「うおおおっ。ギブギブ! マジで助けて! ぎゃああ!」
徐々に辺りを覆い尽くしていた煙が晴れ、視界がクリアになる。
ベリーを羽交い絞めにしているのは、サリーと同い年くらいの小さな少女だった。しかし華奢な体とは裏腹に、その顔は活力に満ち溢れている。何とも負けん気の強そうな子だ。
おそらくは先ほどの声の主であろう彼女の服には、”ASI・スタッフ”と書かれている。
「痛ったいなあぁ。なにすんだよ、エレナ……」
「なにすんだよ、じゃないですよマス……ベリーさん!! お客様に何てことしてるんですか!!」
「いや、俺はだな。緊張してるサリーちゃんをほぐそうとして……」
「なにがほぐそうとして……ですか! 完全に馬鹿にして遊んでただけじゃないですか!」
「まぁ、お前にはわからんやろうなぁ。実はだな、これは高度な心理せ……ボグヘェッ!」
言い訳をしようとしたベリーの顔面に、文字通り少女の拳がめり込んだ。
「い い か ら 謝 る の ! !」
「ご、ごめんなさい。調子に乗りました。スンマセン、サリーさん」
「まったくベリーさんは! 最近、なんか変なアバター作ってるなって思ったら、突然俺も接客する! とか言い出すし。しかも全然テキトーだし!」
「うっ!」
「さっきの喋り方とかトンさんの真似だろうけど、全然似てないし! ていうか、悪意しか感じないし! お客様を傷つけるし! おまけに遅刻してるし!」
「グサッ!」
「おっといけない! こんなとこでゴミクマをdisってる場合じゃなかった! ごめんね、サリーさん!」
「おいエレナ! 誰がゴミク……」
「はじめまして! 私の名前はエレナ!」
エレナという少女はベリーの言葉を遮ると、サリーの方を振り向き、片手を胸の前に差し出して、華麗に一礼した。
「あなたに魔法を掛けに来ました」
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