第11話 バスツール鉄道の盗賊


バスツール鉄道は、50メートルほどの「幅」がある。

レールの幅である。だから、その上を走る列車は超巨大。

それは五階建てのビルに相当する高さを持つ。

そんな巨大な車両が、いくつも連なって、大陸を横断していくのだから、壮観である。


モランジ国とへゼス国を繋ぐ交易路は、これが唯一のものだ。

だから、膨大な交易品が乗せられる。

中には高級な美術品や、女奴隷も。


シファは女奴隷ではなかったが、それに近い境遇だった。

身寄りがないし、切符も持っていなかった。

それなのに、異国へ向かうこの列車に乗り込んでしまったのだ。

どうせ、どこにいたって私の安心できる場所などないと思っていた。

だったら、どこに居たって同じじゃないか。

どうせ自棄になるなら、列車に乗って思う存分、窓の外の景色を観てみたいと思った。

シファが救いようのない貧民街で生まれてから、一度も瞳に映したことのなかった光景を。


シファの体は柔らかいから、とても人が入れるとは思えないような壷の中に身を隠すことができた。息苦しい想いはしたが、その価値はあったと思う。

列車が動き始めたときをシファは忘れることができない。

もうどうしたって、この列車は出ていくんだ。

私を連れて。


一度潜り込んでしまえば、この列車の中には隠れ場所なんていくらでもあるのだった。ガタゴト軋む音で四六時中うるさいから、物音を立てても目立たないし、金持ちの食い残しも探せば見つけられた。惨めだけど、覚悟はしていたことだ。


駅を出てから三日。

シファはまだ誰にも見つかっていない。

それに、窓の外の山脈がゆっくりと流れていく様子も見ることができた。

山脈の向こうに何があるのか、幼い頃からずっと気になっていたのだ。

列車の最上階の窓から見下ろす大地は、壮大だった。

草原に風が吹くと、見えない巨人が皮をなめしているように見えた。

人間はなんてちっぽけなんだ。

そう思った。


警笛が鳴り響いた。

モランジ国のアブレスカ駅を出発してから最初の駅に到着しようとしている。

一度停車すると、再び動き始めるのに半日はかかる。

その間に目まぐるしく人が行き交い、交易品を運び出し、また別の商品を積み込むことになる。

シファのねぐらにしていた美術品の保管庫にも人が来るに違いない。

いちおうの準備はしておいたつもりだ。

つまり、棚と棚の間に隙間を作って、そこに隠れられるようにしておいたのだ。

半日も隠れているのは辛いが、見つかればどんな罰を課せられるか分からないのだから、耐えなくてはと思う。


果たして、列車が完全停止すると程なくして人の話し声がするようになった。


「モランジは、ヘク教とバーサ教がいよいよ戦争になりそうって話です。今のうちに運び出しておいて正解ですよ」

「嫌な世の中になったもんだよ。戦争は好まん」

「それはまぁ、皆さんそうでしょうよ。でも、引っ込みがつかんのでしょうな」

「だから、ここにある美術品はしばらく親戚の家に預けておくつもりじゃが、私は仕事があるからモランジに戻らなきゃならん」

「くれぐれも用心して下さいよ」

「ああ」


弱った声を出しながら、主人と連れの男は去っていった。


貧民街で育ったシファにとっては、縁遠い話のように思えた。

ここにある美術品一つで、どれほどの服や食料を買えるのだろうか。

金持ちは金持ちで、それを守るのに必死なようだ。


私は身軽だ。とシファは思った。

服だって、今着ている一着しかない。

荷物なんて持ってくる余裕はなかったんだから。

でも、やっぱり金持ちは羨ましい。

なんとかして、ここにある美術品の一つでも自分のものにできないだろうか。

ついそんなことを思ってしまう。


しかし、シファはまた思うのだった。

無賃乗車をして、モランジから逃げ出したことを、正直あまり悪いことだとは思っていない。

だけど、美術品を盗むのは、「とても悪いこと」だ。

犯罪者の自分が、何を今さら言っているのだろう。妙な理屈を捏ねている自分が恥ずかしく思われた。


シファの目の前には、高価な皿があった。微細な装飾が映える色鮮やかな皿だ。素人にだって、これに価値があるってことは分かる。手を伸ばせば触れられる。


シファ、あなたはこれからどうやって生きていくの?


自問した。

答えは出なかった。

ただ、一枚の皿をひたすら見詰めていた。その装飾の細部まで脳裏に焼き付けた。

貧民街にいたら、一生見ることがなかったはずだ。

誰がこの皿を作ったのだろう。

どんな人が。


バスツール鉄道が四つ目の駅に差し掛かった頃、シファはついに耐えられなくなった。とにかく列車から降りたい。ここではない場所へ行きたいと思ったのだ。

しかし、切符がない。

シファには、いい考えが思い浮かばなかった。


だから走った。

とにかく走って、改札を飛び越えて、走って、走って、逃げまくった。

一か八かの勝負だった。


駅の衛兵はもちろん追ってきた。

しかし、小川を越えて、森に逃げ込むと、もう追ってこなかった。

体力の問題ではない。何かを恐れて引き返した。そんなふうに見えた。


でも、シファにはこの森の危険性がわからない。

恐ろしい猛獣がいるのか、山賊が出るのか。とにかく衛兵が追ってこないくらいだから、よほど危険な場所なのだ。


それでもシファには、もうこの森の中へ進んでいくことしか選択肢はなかったのだ。

だから、神経質に耳を澄ませながら、奥へ奥へと分け入った。

ちょっとした物音、動物の鳴き声に、体を縮み上がらせた。


やがて、物が焼ける匂いが漂ってきた。

火を扱えるのは人間だけだ。

だから、この近くに人間がいるに違いないとシファは思った。

それからはゆっくりと辺りを見渡しながら、慎重に匂いを辿った。


結局、独りで生きていくことなどできない。

どんな目に遭わされるかわからないけど、猛獣と人間だったら、まだ人間のほうがいい。

シファは、木の裏に隠れて、煙の出ている納屋を見つめた。

やっぱり、ここに誰か住んでいるのだ。

でも、どんな人間か見定めないと。


シファがじっと待っていると、納屋の中から若い男たちが数人出てきた。

見たところ悪そうな連中には見えないが、そんなのわかったものじゃない。

だが、そのうちの一人が、大きな皿を抱えているのを見たとき、シファはなぜだか救われた気がした。


あの皿の柄を知っている。

私はあの皿の柄を見たことがある。


名前も知らない土地で、ただそれだけのこと。

だけど、シファは救われた。


そうして、誘われるように納屋のほうへ歩いていったのだ。

その様子に驚いたのは若い男たちのほうである。

ボロ切れのような服を着た女が、突然現れて、こちらへ歩いてくる。

それでいて、その女は一点、皿だけを凝視しているのである。


「美しいわ」


シファは取憑かれたようにそう言った。

いや、そのとき実際に彼女は取憑かれていたのである。


「この皿の作り方を教えて」


その言葉には、妖艶な鬼気迫るものがあり、男たちは、そこにただならぬ狂気を見た。


それから、このどこから来たのかもわからない、素性のわからぬ女は、工房での仕事を学び、皿絵師となった。それ以外のことには、一切の興味を示さなかった。

彼女の作品は、天才だった。


ある日、一人の金持ちが、皿を買い付けに工房を訪れた。

その工房は危険な場所にあり、護衛の兵士を従えなくては訪れることができない。

しかし、そこには、名品に必要な土、水、塗料があるのだ。

だから、危険を冒して訪れる。


その金持ちは、シファの作った皿を見た。

思わず唸り声を出す。


「天に選ばれし名品である」


買いたいと名乗り出た。

シファは、この男の声に聞き覚えがあった。

そして、この男に皿を売った。


もし、シファが盗人になっていたら、絶対に手にすることができなかったであろう、大金だった。

シファは想い出す。


バスツール鉄道の中で、皿を盗もうかと思っていた自分を。

どうせ自分は犯罪者だ。だったらもう、とことん悪いことをしてしまえ。

この皿を盗んで逃げよう。


でもシファは、耐えた。

我慢した。


今、彼女の前には大金があった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

極楽浄土に行ってみた @gokuraku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ