第10話 森の不思議時間


この世界にあるもの。


森 林 山 泉 川 湖 崖 谷 原 丘


この空にあるもの。


雲 虹 月 星 日 風 光 雷 



言葉は美しい。



深い森。

湿った空気。

樹木は静かに呼吸をしている。

老獪な幹の表皮には、人跡の届かぬ生命の奪い合いの歴史が刻まれている。

私はそこに新たな痕跡を残すべきではない。そう思った。


それをして良いのは、この森の霊魂を体に宿した者だけだ。

だが私の体には、アスファルトや、コンクリートや、プラスチックの匂いが染み付いていて、それは火傷の痕が残り続けるように、永遠に消えることはないのだ。

そのことに私は気づいてしまった。


私は森を還るべき場所だと本能的に求めていたのだ。

ところが、人道を逸れて土の匂いが鼻につくようになってから、私はとにかく余所者であった。


本当は死を覚悟していた。


独りで正しく死にたいと思ったのだ。

まっとうな、死への憧憬。

だが、そんなに甘くはないのだということを胸に焼き付けられた。

私はあまり考えずに、ここへ来てしまった。


独りになりたかった。

誰もいない森へ行って独りで死にたかった。


鳥の鳴き声が聴こえた。

都会では聞き慣れない鳴き声だ。

それは私の知らない言語だった。

彼らにとって何か重要な言葉なのかもしれないが、私には伝わらないし、そのことが私を追い詰めた。


やっぱり独りは嫌だと思った。

やっぱり畳の上で死にたい。

たとえその部屋に誰もいなくても、そこには私の知っている言葉たちが会話をしているのだ。


私は森の中で無駄な時間を過ごして、またアスファルトに舗装された道へ出てきたのだった。

溜息が出る。


私はどうすればいいのだろうか。


アスファルトの上に手のひらを置いて、じっくりと撫でてみた。

こんなふうに地面を真近に視るのは、幼少時の頃ぶりだろう。

私にも、そんな頃があったのだ。


あの頃、マンションの屋根の向こうに見た空と、大して変わらない空を見ているはず。

いったい何が変わったというのか。

なぜ私はこんなに追い詰められているのか。


私は道路の上に大の字になって、瞳を閉じた。

後頭部に硬い地面を感じる。


バカだな。

どうしてこういう無意味なことをしたがるのだろう。


私は元来た道をどうやって戻ればいいだろうかと考え始めていた。

でも、その後のプランは白紙だ。


私は森で感じた不思議な時間を記憶した。

あるいは、それが故に生きる意味はあるのかもしれないと思うような、不思議な何かが漂う。

森から追い出された。

私は道を歩く。








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