みぎり散る桜はらはら

機杜賢治

彼女が死んで……。

 桜が咲いている。風に吹かれ花びらが散っている。僕の悲しみを千切り、どこに飛んでいくのか。


「さらば、さらば」


 ……涙も出なかった。

 彼女があれほど見たかった桜を目の前にしても僕はただの虚ろだった。

 夢を見ているかのよう、本当によくできた夢だ。

 欠けた月が空に傾き、生ぬるい夜風が桜の枝葉を揺らしている。

 僕の前髪も揺れた。


 ここは街から離れた丘の上で、てっぺんには大きな桜が一本咲いていた。

 周囲には何も無く芝生が広がっている。

 彼女が好きだった場所、ここで僕はひとり、彼女を思う。

 もう二度と触れること叶わず、遠い遠い存在となってしまった彼女のことを思う。


 僕と彼女は付き合っていた、わけではない。

 僕は彼女のことが好きだったが、彼女のほうは僕のことをどう思っていたのか、自信がない。

 彼女は気持ちを言葉にしない人だった。

 恥ずかしがり屋で、出会ったころはなかなか心を開いてくれなかった。


 だから僕はいまだに自信がない。

 よく二人で出かけるようになったのもごく最近になってからのことだ。

 僕が誘えば彼女は焦らしながらも応じた。

 ようやくそういう関係になった。


 今回も僕のほうから誘った。

 春の連休、僕は彼女をバイクに乗せツーリングに出かけた。

 目的地はとある湿原で、珍しい植物が自生している観光名所だった。

 フルフェイスを被り、排気量四〇〇のレプリカで山道を走る。

 車の量がとても多かった。

 温暖な風が気持ちよかった。


 休憩を入れながら走り、湿原まであと少しのところで、僕は急カーブを曲がった。

 バイクを倒す。

 トラックがオレンジの車線を大幅に越え、僕たちの前方を塞いだ。

 僕はバイクを傾け、かわそうとしたが、間に合わなかった。

 トラックにぶつかり、道路の脇にある白いガードレールまで吹き飛ばされた。

 僕は彼女共々、落ちた、崖下に……。

 そこからの記憶がない。


 目を覚ましたのは一週間後のことだった。

 場所は病院の集中治療室、機械に囲まれたベッドに横たわっていた。

 体はぴくりとも動かせず、瞬きと、プラスチックのマスクに覆われて行う弱々しい唇の開閉、喉の奥から漏れる声にならない空気の放出だけが僕の自由だった。


 その限られた自由な世界で、水色の予防衣を着た人間たちを眺める。

 皆、帽子を被り、白いマスクをしていた。

 顔はわからなかったが、彼らの中に僕の両親がまざっているのだけは何となくわかった。

 泣いている女性が母親で、彼女が死んだと教えてくれた男性が父親だ。


 そうか、死んだのか。

 これが僕の率直な感想だった。


 脚の骨折、割れたフルフェイスのカバーが顔面に突き刺さるなど、僕は重傷を負ったが順調に回復し、一般病室に移った。

 時間はかかったものの、何とか退院することができた。

 すでに春は終わろうとしていた。


 僕は父に連れられ、彼女の家族に会いにいった。

 彼女の父親も母親も、彼女によく似た妹も僕に線香を上げさせてくれた。

 そして、もう二度と来ないでくれと言われた。

 僕は何も言わずうなずき、父は土下座して謝った。


 街を歩く父の背中は小さかった。

 僕は父の後ろを歩き、なぜ自分は死んでいないのか、なぜ彼女が死ななければならなかったのか考えた。

 ……父が立ち止まり僕を呼んだ。

 痛いところはないか、腹が減ってないか、聞いてくる。


 僕はたまらず一人になりたいと告げ、脚を引きずりながら脇の道に入った。

 買ったばかりの黒いスーツで人の流れに身を任せる。

 人の肩にぶつかった。

 僕は頭を下げた。

 右目に眼帯をしているせいか、よく人の肩にぶつかり、その度に僕は頭を下げる。

 なかには怒鳴る人もいたが僕の全身に巻かれた包帯を見て、舌打ちして去っていく者もいた。


 それから何度目かの謝罪だった。

 頭を下げたとき、僕は自分の上着が汚れていることに気がついた。

 白い粉のようなものが付いている。

 大陸から飛来した黄砂だった。


 僕は頭を下げたまま動けなくなった。

 何もかも不自由だ。何かに寄らねば生きていけないのか。

 体に馴染んでいない黒いスーツ、落ちるべくして落ちた黄砂、脚のギプス、何もかもが無様と自分を責め立てる。

 好きになるんではなかった。

 あのとき勇気を出して声をかけなければよかった。

 僕と関わらなければ彼女は死なずに済んだのに……。


 はらり、ピンク色の花びらが回転しながら、僕の視界に入ってきて、つま先に落ちた。

 腰を伸ばし、辺りを見回すと桜が咲いていた。街の通りに一定間隔で植えられている。

 僕は丘の桜を思い出した。あの桜は今、咲いているだろうか。


 この街でデートしていたとき、彼女は急に桜さくらと楽しそうに歌ったことがある。

 僕がどうしたのか聞くと彼女は郊外にある丘を指差して、あそこに大きな桜があるんだ、咲くと物凄く綺麗なんだ、と興奮したように両腕を広げて言った。


 植物が好きで花の名前に詳しい。普通に話しているだけで、やれ菖蒲が、やれカミツレが、やれ沈丁花が……。

 そんな女、他にはいない。

 僕が生まれて初めて興味を持った女性はそんな人だった。

 ふと気づけば彼女のことばかり考えている自分がいて、興味がいつのまにか恋心に変わってしまった。


 僕は自分の好意を隠さなかった。素直に、気持ちのままぶつかった。

 あのころは楽しくて、でも不安で、ほんの数週間まえの話なのに、今はもう違う世界にいるみたいだ。一体あの日々は何だったのだろうか。僕は夢を見ていたのか。

 ふらふらと丘へ向かう。


 時間はかかったものの、何とか辿り着いた。

 晴れた夜空に三日月が浮かび、星々に包まれるように桜が咲いていた。

 はちきれんばかりに伸びた枝葉にびっしりと花がついて、風に吹かれると枝葉が揺れ、花びらが散った。


「さらば、さらば」


 僕は悲しくなかった。

 何も思わなかった。

 涙も出ない。

 きっとあの花びらのように奪われてしまったのだろう。

 僕は桜に近寄り、根元に腰掛けた。

 土は少し湿り気があり、冷たかった。


 この高さからだと街は見下ろせない。宇宙に浮いているようだ。

 彼女がそばにいたらどんな気分だろうか、なんて話しただろうか、そういえば彼女はなぜ植物が好きだったんだろうか……。


 突然、僕は吐きそうになった。

 気分が悪くなり、膝を抱え背中を丸めた。体が震える。

 彼女が何と言うか考えれば考えるほど、気分が悪い。

 そうなんだ。

 もう彼女の声は聞けないんだ。


 働いて働いて馬車馬のように働いて、どんなにお金を稼いでも、もうどうにもならない。

 偉い人に頼んでも、同じくどうにもならない。

 これはすでに起こってしまったこと、僕は今、絶望の淵にいるのだと気づいた。


 僕は全てを、感情の全てを吐き出した。

 胸が震えた。

 今まで出したこともない、老人のような声が喉の奥から漏れた。

 夜の世界に無意味な声が響き渡る。


 あゝ僕はただの人間だったのだ。

 神よ、あなたに祈っても、もうどうにもならないのだね。

 奇跡とは祈るべく人間が祈るからこそ起こるのだね。

 この僕を、努力をすれば夢は叶うと信じていた幼稚な僕を、今すぐ殺してくれ。


 あゝ、いや……。

 死んでしまおう。彼女が死んだように。

 もうどうにもならないのだから。

 取り返しのつかないことをしてしまったのだから。


 やつれた彼女の家族、萎縮する僕の家族、僕はネクタイを外し、両手でぴんと張ってみた。

 桜の枝葉を見上げ、届かないことを知った。

 ロープ、死ぬためのロープがない。ナイフもない、薬もない。

 仕方ないので自分で自分の首を絞めるか、このネクタイを首に巻き、両手でぐいっと。


 ……桜が散った。

 風よ、今度は何を奪うのか。

 僕から死ぬための気力さえ奪うのか。

 いや、そもそも、死という現象は自分で決めるべき事柄なのか。


 ……もう、いい。疲れた。


 本来あるべき未来はただの夢想と成り果てた。彼女の未来もないのだから、現在の僕など捨ててしまえばいい。

 彼女への想いも、罪悪感も何もかも、どうせあの花びらのように奪われてしまうのだから。


 僕は腰を上げ、街を見下ろした。

 何も思いつかなかった。

 街の灯りを縫うように移動する、赤いテールランプを目で追った。

 夜の暗闇はあまりにも無力だった。

 何もかも覆い隠してしまう闇はどこにあるのか。


 僕は目を瞑った。

 目を瞑れば彼女の姿が浮かんだ。

 やはり逃げ場はどこにもなかった。


 僕はどうすればいい。

 もしかして、これが僕の宿命なのか。

 このまま生きて奪われ続けるか、死んで全てを終わらせ、己を完結するか。


 いや違う。


 彼女は不本意ながらも生命をまっとうした。まだ生きたかっただろうし、もっとやりたいこともあっただろう。

 だけど死んでしまった。

 不意に、何の用意もできずに。


 自分で命を断つのと、不意の死と、どちらがよりよく生きたと言えるだろうか。

 どちらがより美しいと言えるだろうか。


 それは後者だ。

 自分ではどうにもならないからこそ死は美しく鮮やかで永遠なのだ。


 だからこそ僕は生きている限り、醜悪で、薄汚く、無知で蒙昧で、愚かな限りを尽くさねばならない。

 さっさと彼女のことなど忘れ、さもなかったように酒を飲み、女を抱いて、誰もが幸せと呼ぶであろう人生を送ればいい。


 人に恨まれ憎まれ殺されれば僕の死は美しいものになるのだろうか。


「……ばか」


 僕は思わず口ずさんだ。

 生前、僕が落ち込んでいると、よくかけてくれた言葉だ。

 もう聞くこと叶わず。


 そう、これは宿命だ。

 もし自分の意志で自分を殺してしまえば、それは宿命ではない。宿命から逃げたに過ぎない。

 不自由の極み、自由にならぬからこそ宿命なのだ。

 桜が散っている。

 今、目の前ではらはらと。

 先ほどと比べて風は弱く、ほぼ無風に近いのに、一斉に散り始めた。

 そこに一際強い風が吹いて夜空が桜色に染まった。


 見事だ。

 涙が、零れた。

 鮮やかな桜の散り様に、僕は何もかも奪われた。

 涙がとめどなく溢るゝ、この涙は僕を救うために流れるのだ。


「本当に馬鹿だな、僕は……」


 彼女を失った悲しみをしみじみ味わう。

 僕は思い切り泣いた。

 涙が止まるまで泣いた。




 ――これは今から二十年前の話だ。

 僕は毎朝、鏡の前に立ち、顔の傷を見るたびに、この夜の桜を思い出す。

 悲しみが薄れ、痛みに慣れても、あの桜の散り様だけは今も記憶に残っている。


 夜の夢は覚めるためにある。真昼のうつつは夢を見るためにある。冬も春も僕の心の中にあるのだ。

 すでに僕は街から離れてしまったが、あの丘の桜はいまだに僕の心で咲いている。


 それでも散らぬ桜はない、咲かぬ桜はない。僕の苦しみや悲しみなど関係なく季節は巡り、桜は宿命のままに咲くのだ。

 そんな止め処ない生命の営みの中で僕は再び贖罪の仮面を被り、みぎりの世界に没頭する。


 その世界で僕はまた彼女に恋をするだろう。彼女が死んで悲しみにくれるだろう。

 それでいい、そうでなければ生きていけない。


『いつの夜も星の光はかつてあり今は無きもの君のようだね』


 また咲かねばならぬ、見事に散らねばならぬ、あの桜のように、彼女のように……。




(みぎり散る桜はらはら、了)

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みぎり散る桜はらはら 機杜賢治 @hatamorikenji

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