イーニの冒険譚

新月賽

異国の牙

「王よ。 明日の朝、隊は出発致します。 本当に宜しいのですか?」

ちらちらと揺れる光は部屋全体を照らすことなく、尋ね掛ける男の顔にも深い影を落としている。

ベッドに身を沈めた王は、静かな声音で一言だけ紡いだ。

「兵の数は?」

「はい。 三万ほどに」

返された男の言葉に、王は一拍の間を持って、低い声を出す。

「志願兵など戦力は半ばでも良い。 正しく兵の数を伝えよ」

王国に仕える兵は一万二千弱である。民間からも志願を募り数は倍以上になったが、戦力と数えるとそうはいかない。

男の表情の影が濃くなった。

「……一万ほど、ですね」

部屋に沈黙が落ちる。

蝋燭を撫ぜる風が炎を揺らし、王の手元を照らし出すが、それもすぐに見えなくなった。

王からの返答を諦めた男が、自らの言葉に説明を加えた。

「志願兵は元より、戦力と数えることはできないでしょう。 明日の行軍からおよそ一月、険しい道のりが待っています。 それで体力を削られれば、国兵ですら、真価を発揮することが難しい」

「……それだけが理由か?」

長旅を恐れるのはどの戦いでも同じだ。

僅かに躊躇った男は、苦い口調で、ゆっくりと言葉を洩らした。

「……皆、恐れているのです。 王よ」

口にこそ出さないが、皆が不安を抱えている。

隊長として皆を纏め、率いる役目を担った男は、それを肌でひしひしと感じていた。

ただの戦いではない。殆ど勝ち目の無い戦いでも、これほどに恐れることは無いだろう。

男と同じに苦い口調で、王が吐き捨てる。

「忌々しきは奴の幻影か。 ……畜生が、眠っていても我が歴戦の兵を威圧するのか」

「噂や伝説で片を付けるには、余りにも……王よ、奴の爪痕は深いのです」

「分かっている」

普通の戦争で有ったら、志願兵はここまでの数にならず、また兵達も実際の数と同等か、或いはそれ以上か、悪くとも八割を下回らない実力を発揮しただろう。恨みを伴った志願兵の数が、傷の深さをそのままに映し出していた。

「……志願兵を国の護衛に回せば、兵の戦力は幾らと?」

そこまでに酷いなら、もう数に拘る必要もない。

男ははっとした顔になり、一つ呼吸を置いて答えた。

「……はい、一万ほどに」

「そうか」

先より明るい男の顔に、王は迷いなく命を下した。

「なればこそ、隊は身軽に置け。 志願兵は、旅路の支援に一部隊を設け、それ以外は皆国の守りとせよ。 臨時の国兵に雇えば、砂漠の奴らも下手なことは考えまい」

「はっ」

鋭く答えた男は、突然のこの命を、どうやって皆に納得させようかを必死に考えていた。

しかしまた、国を守り、命を遂行する身として、王の命に感謝してもいた。

「失礼しました」

「待たれ」

下がり際、王が男を呼び止める。

「皆に伝えよ。 奴の首を持ち帰れば勲章をくれてやる。 だが、生きて帰れば昇給を約束しよう、と」

「……はい」

静かにも、力強い答えを返す男。

夜明けを前に、兵達を起こし、伝令を走らせに向かった。


 *


「ほらほら、売り切れちまうよ! 買った買った!! 今朝は特別良い豆が手に入ったんだ、袋一杯持って帰りな!!」

朝方の市場に、幼い声が響き渡る。いつも通り素通りする人々に負けず、明るい笑顔を振りまく少年。

目の前に置かれた豆は別段昨日と変わりはしないが、反対に言えば悪いわけでもない。

やがて客が足を止め、少年は笑顔で豆を袋に詰めた。

砂漠の際に位置するこの国では、外国との貿易が重要になってくる。砂漠向こうのあの国はもっと大変な筈だが、そちらに益を流すのも、少年や、また少年が仕入先とするような商人の仕事だ。

母を幼い頃に亡くし、父は商人として年中旅をしていて、少年は叔母の家でこうして日銭を稼いでいる。もう五年も続けたこの生活のお蔭で、少年の懐は潤う一方だった。何しろ仕事も好きであり、また人好きのする少年である。多くは無くとも、得意先も有ったし、同じ豆を買うなら渋い顔の老人よりも彼から買うという人も多かった。

まだ人の少ない市場で、さて明日の仕入れはどうしようかと、早くも先の算段を立て始めた少年の出店に、見慣れた顔が足を止める。

少年と年の頃は同じなようだ。にやにやとした笑みを張りつけた彼に、少年は傍目には笑顔のまま、冷えた声を出した。

「冷やかしなら帰れ」

「冷やかされんのも仕事のうちだろ?」

「帰れ」

商売上あまりに険しい顔をするわけにもいかず、通り掛ける人々には仲の良い友人同士の会話にしか見えないだろう。客の足が僅かにでも遠ざかるなら、こんな男の相手をするのは無駄だ。

すげない少年の態度に男は深いため息を吐き、大袈裟に首を振った。

「あぁあぁつれない坊やだこと。 せっかく楽しい話持って来たってのによぉ」

「店を邪魔するなって言ってるんだよ。 話がしたいんだったら午後くれば良いだろ」

「邪魔したいんだよ、愛しのイーニちゃん」

にやっ、と投げられた笑みに殺意を覚えた少年――イーニは、その気持ちをぐっと堪え、ただ黙って袋に豆を詰めた。

突然に店で一番大きな袋を豆で一杯にし始めたイーニに、客の男の笑みが止まる。

そうして、ぐいっ、と差し出された、ぎっしり詰まった豆。

「出血大サービス! 愛情料金上乗せで30ペールになります」

にっこりと綺麗な笑みで、市価の倍近い値を告げたイーニ。客の男はしばらくの沈黙の後、恐る恐る尋ね掛けた。

「……冗談だよな?」

「接客料だよ、愛しのルナちゃん」

「…………また午後に」


 *


「それで、何だって?」

豆を捌き切り、市場も周り、明日買い付ける商人に媚を売り終わったところで、イーニは叔母の家に戻った。

いつもの如く我が家のように寛いでいたルナに、先とは違う穏やかな声音で尋ね掛ける。

「お、お帰り。 話の前に飯にしようぜ、何も食べてねぇだろ?」

「いや、買い付けの時にもう済ませた」

干し魚を扱っている商人に、上手い昼飯を出す店を教えてやったのだ。礼に明日の買い付けは多少融通してくれることになった。

「まぁ仕事熱心だこと。 じゃあ俺は一人で食うってわけですかい」

「話しながら食えば良いだろ。 聞いてやるよ」

仕事用の服をベッドに畳み置きながら、イーニは叔母へルナの昼飯を頼んだ。

これまたいつもの如く勝手に食べなと返ってきて、ルナと共にテーブルにつく。

「いや、よぉ、……砂漠向こうの国が有るじゃんか」

話しながらも目線を食事から逸らさないルナは、イーニの返事を待たずに続ける。

「あれが、化け物を退治するんだとかで、こないだ隊を組んだって言ったろ?」

「……こないだって、もう三ヵ月も前だろ。 お前から聞いた後に、結構その話は聞いたけど………あの話、本当だったんだな」

ルナは耳が早い。酒場にも出入りし、また人の領域にずけずけと踏み込むルナは、苛立たれながらも憎まれずに、小さな情報屋として親しまれていた。その話の信憑性には少しの難がある筈だったが、どうにもこの間の嘘みたいな話は本当だったようだ。

ルナは、スープの染み込んだ豆を噛み締めながら、誇らしげに頷く。

そしてスープを飲み干してから、こともなげに続けた。

「んで、その隊が負けたらしい」

「……は?」

思わず問い返したイーニだったが、ルナの興味は干し魚に移ってしまったようだ。

「だってお前、兵が三万って」

「あれは間違い。 削って一万ぽっちになったってさ」

「……いや、…………それでも」

一万の軍勢が、化け物一匹に負ける?

そんなことが有るのだろうか。千を超える兵を一つの相手にぶつけただけでも信じられないのに、それが負けるだなんて、イーニにはとても想像が付かなかった。

今度こそ嘘じゃないかとルナを見るが、当の彼は干し魚に頬を緩めている。

「おい、もうちょっと詳しく話せよ」

「待てって。 おいイーニ、これ明日は繁盛するぞ。 旨い」

珍しく褒めたルナは、焦らされて顔を険しくされるイーニを余所に、食べ終わって満足気に口を拭くまで話を続けようとはしなかった。

「……生き残ったのは三百。残りは皆化け物にやられたか、帰りで力尽きたってさ」

「……三百?」

「奇襲されたんだと」

漸くイーニへ目を向けたルナの瞳は、けれど朝のようににやついてはいなかった。

「何でも元から五分の戦いだったらしい。 勝てるかどうかだってとこを、渓谷で予定より早く化け物に遭って、隊はばらばらに、ってワケだ」

「…………」

一万で五分。恐ろしい化け物が、狭苦しい渓谷で突然襲い掛かって来るのを想像して、イーニはぶるりと身を震わせた。

「噂じゃ、王が邪魔な国兵を切り捨てたってのも出てる。 三万だった兵が直前に削られて一万とちょっとになって、残りが新しく国兵になったんだそうだ。 それも、新しく集めた兵はどいつも身寄りが無い者ばかりで、安い賃金で動かしてるんだってさ」

「……切り捨てたって、…………そんな」

姿の見えない王に怒りが沸き、同時に渓谷で散った兵達を思ってイーニは言葉を詰まらせた。

ルナは「噂だよ」と肩を竦めて、それからしばらく黙り込む。

どこかしんみりした沈黙の後、やがてルナが言葉を紡いだ。

「……その、戦いの時に、化け物が、……牙を落とした、らしい」

「………………そうか」

全く太刀打ちできなかったわけじゃないのか。けれどイーニは、ルナのしおらしさに違和感を抱いていた。

「…………化け物の牙ってのは、………その、物凄く金になるらしい」

「断る」

「おい」

何を言い出すかと思えば。

ばっさりと切ったイーニに、ルナは慌てて言葉を続けた。

「何も二人っきりで行こうってわけじゃねぇから! 誘われてんの!」

話を聴けば、夢見る馬鹿共から噂を聞いたらしく、それに誘われたらしい。

それでも全く首を動かさないイーニに、ルナは必死に説得を始めた。

「大丈夫だって、場数を踏んでる奴らだから、引き時も危険も分かってるし、俺達みたいなガキにも分け前はくれるって言ってる! それに化け物は一か所に留まってるわけじゃないんだって! 化け物が渓谷にいない時を狙って取るんだ、他の奴らに先を越される前に!!」

「何月開ける予定だよ。 遠足じゃないんだ、ダメだダメだ」

そんなに期間を使って収穫が期待できない、どころか命を落とす危険すら在るなんて、挑戦するわけがない。イーニは賭博師ではなく商人なのだ。

こう言えば諦めざるを得ないだろうと思っていたのに、ルナの方は諦める気など微塵もない様だった。

どころか、にやりと笑って腕を組む。

「そういうと思って、もうおばさんには許可を取ってあるんだな」

「…………あのな」

途端言葉に詰まったイーニに、勢いづいたルナが身を乗り出した。

「気になるだろ! 牙とか異国とか、冒険だぜ!! 化け物がどんなのだか知らねぇが、なぁに、ただ落ちてる牙をちょろまかすだけなんだから、危険はねぇって!」

イーニの叔母は豪放な人だった。甥を置いて飛び回る兄を許す胆力もそうだが、イーニに多少の無理をさせるのも自分の仕事だと考えている節があった。

だが、今回ばかりは軽率である。ルナも、叔母も。何しろ一万の軍勢が一匹の化け物に負けたのだ。三ヵ月も掛かってようやく敗走の報が届くくらいだから、その渓谷へ行くこと自体も大変に違いない。

「危険しかない、行かない」

「頼む!」

「仕事がある」

「叔母さんが任せろって言ってた!」

「そもそも山を歩いたことがない」

「だろ!? だから将来の為にもいい経験になるって!」

「別に牙なんか欲しくない」

「金だよ金! 月一で盛大に賭博でスる奴が何言ってんだ!」

イーニが強情ならルナも強情だ。

何を返しても縋り付かれ、イーニもいい加減にうんざりしてきた。実際、心惹かれないわけではないのだ。

冒険、その言葉に、胸が躍る年頃ではあった。ただ単に、リスクの高い賭けに理性がブレーキを掛けるだけで。

そして勿論ルナの方は、根が賭博師のイーニが最終的に乗るだろうと踏んでいたから、話を持ちかけたわけだった。

結局、二日後にはイーニも長旅の準備をするはめになった。


 *


砂漠を十日で越え、山際の王国へと辿り着いた頃にはイーニも、渓谷の牙に夢を馳せるようになっていた。

何しろ、周り中夢を見る馬鹿共なのだ。

床に就く頃にわけも無く胸を高鳴らせては、冷える空気で体の火照りを覚ます日々だった。

しかし、それも王都へ足を踏み入れるまでだった。

「……酷いな」

王都の宿、そこの一番大きな部屋。

雨の打つ窓から暗い外を眺める男が、沈鬱な声を洩らした。

それを聞く男達も、イーニもルナも、皆、一様に暗い顔である。

国兵が敗北した。

生き残りが僅かであるとはつまり、それだけの数の人間が死んだということだ。

王国の端では、明るいとは言わないまでも、新しく配備されたらしい兵達が、緊張した面持ちで関所の護衛をしているのを見れたし、人々も仕方ないと割り切っているようだった。

しかし、王都に近付くにつれ、人々の表情、聞こえてくる噂は、暗い物ばかりになっていた。

中には苦しそうに王への恨み言を洩らす者もいた。殆どの場合は、化け物が奇襲してきことを惜しみ、悔やみ、化け物への怨嗟の声を上げていたが。

市場では、皆が楽しそうというわけにはいかないが、少なくとも毎日活気に溢れていた。

こんなにも静かで元気のない街並みを、イーニは初めて見た。

「……俺達、続けて良いんですかね?」

誰かが、弱音を漏らす。

化け物に殺されるかもしれない。そもそも道理に反しているんじゃないか。

明るく夢に向かっていた男達も、現実に立ち返らざるを得なかった。

しかし、ここまで歩いてきて、これから歩こうとしているのも事実だ。

「…………俺は行くぜ」

頬に傷の有る、油断できない目付きの男が、静かに言った。

イーニが見たところ、他の皆に比べ、あまり応えていないようだった。感情を表に出さないだけなのかもしれないが。

男の言葉に、窓から外を眺めていた男……皆を統べるリーダーも、小さく頷きを返した。

「あぁ。 ……俺達は墓荒らしに来たわけじゃない。 夢を追って来たんだ」

イーニは、ちらとルナの方を見た。

目が合った。

彼はいつもの軽薄な笑みではなく、申し訳無さそうな目をしていた。

「おい、イーニ、ルナ」

抱いた居心地の悪さに眉を顰めたところで、大柄な男から声が掛かった。

二人を大人扱いしてくれ、意見を尊重してくれる男だった。二人が参加できたのも、彼のお蔭である。

暗い顔をした少年二人に、男はゆっくりと尋ね掛けた。

「……どうする?」

ちらと確認する。

ルナは、唇を噛んでいた。すぐには答えられないようだった。

イーニは一つ息を呑み、ルナの手を掴む。

「行きます」

男の目を真っ直ぐに見て、はっきりと応えた。

一拍置いて、イーニの手が柔らかに握り返され、隣からも声が上がった。

「……俺も。 行かせてください」

「……よし」

男が頷き、彼等は、それぞれの思いを抱えながら、旅を続けることになった。


 *


「……もうそろそろだ」

リーダーの言葉に、揺れる火に照らされた皆の顔が明るくなった。

木の陰に隠れてカンテラを点したリーダーは、地図をもう一度線でなぞりながら、これまで歩いた道を反芻する。

荒れた海を眼下に見る山道を抜け、そこから大陸の中に広がる平原を、星を頼りに突っ切り、沼を迂回する。 平原の先の山脈へ入り、山を二つ越える。

気候が崩れ始め、また大地も起伏が激しくなり、悪路ばかりだった。

皆疲弊していたが、けれど歩みは速度を落とすことなく、着実に距離を稼いでいた。

「間違いない。この山の反対側が牙の有る渓谷だ。 後二日ってところだ」

「……ようやくか」

誰かがぽつりと漏らす。

長い道程だった。

砂漠と違うじめじめした暑さは体力を奪い、男達を着実に疲弊させていた。夜になっても暑くて寝苦しいのだ。

幸いにして、化け物がいるからか、危険な生き物との遭遇は無かった。しかし、気を張っていたのは確かで、それだけでも消耗に繋がった。

荷物を運搬する為の蜥蜴も、旅の目的を悟られないよう日数を誤魔化した為、十分な数を借りれなかった。その為食料も抑え気味で、皆疲れが溜まっていた。

嫌なところを上げれば限が無い。イーニはこのところずっと不機嫌だったし、ルナはずっと申し訳無さそうにしていた。

そんなルナの態度もまた、イーニの不機嫌の原因だった。

しかし、そんな長旅もようやく終わるのだ。

「……遂に、ここまで来たんだな」

リーダーが、期待を含んだ溜め息を洩らす。

想像よりも苦しい旅だったが、ここまで来れば、それももう気にならない。

この山の向こうに、一財産を築ける宝が落ちているのだ。

例え、旅の途中で力尽きた兵達の死体を見掛けていても、……いや、それらを通り過ぎてここまで来たからこそ、今更後に引けはしなかった。

異様な期待に黙した男達は、そのまま翌日に備えて床に就いた。

カンテラが消えて幾ばくか。

寝床を誰かが抜け出した。

いつものそれにイーニは気付いたが、けれどいつもと違い、その後を追い駆けた。

「ルナ」

「……あぁ」

星を見上げている彼の横に、イーニも腰掛ける。

ようやく冷えてきた風が汗を撫ぜて、ぞく、と寒気を感じる。

「…………ようやく、ここまで」

「おい」

疲れた調子のルナの言葉を、イーニは乱暴に遮った。

「お前がそんなだと、分け前全部奪うぞ」

「…………」

「責任感じるのも今更だろ」

ただ宝の地図を追うのとは違う、実際に宝も有るが、同時にリスクも、悲劇も有る旅だ。

それにイーニを誘ったのはルナだが、乗ったのはイーニ自身の意思だ。

「夢を買ったのは俺だ。 盛大にスろうが、そんなの、お前も言った通り月一でやってたことだ」

「けど、俺…………殺された人達のこと、何も考えてなかった」

その言葉に、イーニも言葉を止めた。

王都へ入ったあの時から、ルナはずっと落ち込んでいた。イーニもあの惨状にはショックを受けたが、それはルナも同じだったようだ。

けれど、ここまで来て、それを割り切らないわけにはいかない。

「……お前は知らないかも知れないけどな。 商人は、他人の利益を奪って自分の利益を得るんだよ」

「…………そんぐらい知ってる」

「楽して稼げるチャンスが有るなら、それを逃さないのが良い商人だ」

ルナは答えず、イーニは続けた。

「誰かに奪われる前に落ちてる牙を取る。 化け物から抜く手間が省けるから落ちてる牙を取る。 それが俺の出した答えだ。 死者に申し訳ないから牙を捨てる? そんなこと言ってたら、商売やってけない」

「……俺達は夢を買う側じゃねぇか」

「俺は商品を仕入れてるんだ」

きっぱり言い切ったイーニに、隣から苦笑が聞こえてくる。

「……言ってることが滅茶苦茶だぞ」

吹っ切れたわけではないだろう。それでも、ルナの声は始めほど沈んではいなかった。


 *


早朝の霧の中を歩いていると、幾度も死体を見かけるようになった。

散らばった骨の主の表情は見えないが、穏やかな最期では無かっただろう。

同時に、剣や鎧も幾つも見掛けるようになった。

壊れている鎧ばかりだった。ひしゃげたもの、千切れたものが殆どで、まともな形の物は少なかった。

霧は朝のうちに晴れ、山の向こうから太陽が照りつけてくる頃に、一人の男が静かに言葉を洩らした。

「…………死体が少ない」

「……少ない?」

男の言葉に、ルナだけでなく、男達も疑問の声を上げ、彼を振り返る。

頬に傷の有るその男は、それらの言葉に頷きを返す。

「あぁ、少ない。 一万もの軍勢が、皆して奇襲から逃げ出さない忠誠心溢れる兵だったなら別だが」

「……そうか、なるほど」

リーダーが納得の声を上げて、皆の視線はそちらへ移る。

「……この先で化け物に奇襲されたんだとしたら、逃げ出した兵達の死体がここにもっとある筈だ、とそう言いたいんだろ?」

「あぁ」

二人のやりとりに、ルナが疑問の声を上げた。

「何でだよ。 この先で襲われたんなら、この先に死体が有る筈じゃねぇか」

「馬鹿野郎、お前は勝てない戦いで、みすみす死ぬのを待つってのか」

「……だから、奇襲だったから、なんじゃねぇの?」

納得していない様子の他の面々を余所に、事情を察したらしい数名の男達は、深刻な顔を見合わせた。

「……ひょっとすると」

「あぁ」

代表するように、初めに声を上げた男が、口の端を引き攣らせた。

「背後からサクッとやられたんだろうよ」

「………………」

皆の足が止まった。

自分達は、化け物の棲み処へと向かっている。その考えしかなかった。

そんなところを、後ろから襲われたとしたら……。

イーニはぶるりと身を震わせた。

逃げるべき場所から死が迫ってくる想像は、男達の足取りを重くさせた。


 *


「……明日の朝には着く」

リーダーの言葉は、興奮で僅かに震えていた。

「ここを下ったら、だ」

「……この先に!」

「遂にか!」

皆が歓声を上げる中、ルナとイーニも互いに顔を合わせていた。

期待が不安を覆い隠し、互いに今にも叫び出しそうである。

「やっと、ここまで」

「ぜってぇ今夜は寝れねぇ」

二人で震える声を交わし、笑い合った。

その晩、カンテラも点さず、男達は月明かりの中で明日の動きを決めた。

「何を今更と思うかもしれないが、ここまで来たんだ、慎重に動こう」

「あぁ、異論はない。 実際兵達も油断しててここで襲われたんだしな」

口々に同意を示す。

勇気と無謀は違う。逸る心を持ってはいるが、目標と目と鼻の先だからこそ、慎重に動くことが大事になる。

「見つけたら、すぐに運び出す。長居する必要は無いからな」

牙の大きさは曖昧にしか分かっていないが、荷の減った蜥蜴達全員に引かせ、男達も支えていけば、運ぶことは可能だろうと考えていた。

「すぐ見つかるかも知れないが、もしかすると骨の下に埋まってたり、岩肌に刺さっているかもしれない。どういう状況かは分からないから、簡単に取れなさそうなら、また明日話そう」

牙を落としたと聞いただけで、大きさ同様、詳細は分かっていない。

それにも男達は同意を示した。

しかし、そこでリーダーの言葉が止まる。

ここへ来て、話さなくては、考えなくてはいけないことがあるのだった。

「……化け物が出た時に、どうするか、だな」

大柄な男の声が、静かにリーダーの心を代弁する。

皆の間に沈黙が広がった。

夢を追う以上、考えないようにしていたこと。

リスクを恐れては、結果を手に入れられない。

しかし、牙は目の前で、夢物語ではなくなった。

もちろん、ここまで来て引くことはできない。

これは、現実を見据えた、考えなくてはいけないことだった。

「普通に逃げるんじゃ駄目か?」

「……まぁ、それが最優先だな」

一人の言葉にリーダーが頷き、皆の張り詰めた緊張が緩み掛けた時、鋭い声で別の声が上がった。

「止めとけ」

予想もしない否定の言葉に、皆が顔を強張らせる。

「この少ない人数じゃ皆死ぬのがオチだ」

「………………」

イーニはその声を覚えていた。

頬に傷の有る、あの男だ。

「一万もいたから三百も逃げ出せたんだ。 この人数じゃ誰も逃げ切れない」

「……じゃあ、どうしろと? 諦めろというのか?」

リーダーが、あくまで落ち着いて尋ね返す。

「いいや」

何でもないような口調で、男は続けた。

「倒せば良い」

その言葉を聞いて、すぐに意味を理解できる者は誰もいなかった。

長い沈黙の後、ルナが、思わずといったように疑問符を洩らす。

「は? ……倒す?」

「あぁ」

疑ってしきりなルナの声にも、動揺のない男の声が返る。

リーダーが、今度は硬い声で続けた。

「だが、俺達は碌な武器だって――」

「兵の仕事を引き継ぐんだ」

「――……何だと?」

遮った男は、ゆっくりと、言葉を紡いでいく。

「化け物、化け物って、相手が何かも碌に分かっちゃいないだろ? デカい蜥蜴だ、デカい、デカい、な」

「………………」

「討伐隊だって馬鹿じゃない。 何も直接当たって倒そうなんざ考えてなかったさ」

「……お前は、……誰だ?」

顰めたリーダーの尋ね掛けに、男は一息間を置いて、答えた。

「王国の、元隊長だ」


 *


霧の深い早朝の渓谷は、暑い季節でも酷く冷え込んだ。

冷たい霧の中を歩くのは爽快というよりもいっそ不快で、けれど緊張と興奮で息の上がった男達には、かえって心地良かった。

「……踏んでしまうのは仕方が無い、後で彼等の為に祈ろう」

鎧、剣、錆びたそれらが重なり合う隙に、白い骨がぱらぱらと覗く。

酷く潰れた物ばかりで、砕けた骨はどれがどこの骨なのか判別が付かなかった。

「…………見つけたら合図してくれ。 それと、異常が有ったら叫べ」

リーダーの言葉に頷き合った彼等は、それぞれが渓谷の中に散っていく。

イーニとルナも、渓谷の奥へ向かって歩き始めた。

白い骨を、足で踏みつけている。

金属の鎧を、剣を踏み、危うく足を斬りそうになる。

底冷えのする霧で何度も全身を震わせ、今にも歯の根がなりそうだった。

けれど、けれど。

ここまで来たのだから、立ち止まるわけにはいかない。

霧を歩いていると、やがて、遠くから声が聞こえてきた。

「おおい、見つけたぞ! ここだ!」

早速見つかったらしい。戻ろうと振り返ったところで、ルナがイーニの裾を掴んだ。

振り返ると、薄くなってきた霧の向こうを指差している。

「……おい、あれ」

白く霞む向こうに、何かの影が見えている。

「………………」

息を呑み、イーニはルナと共にそれへ近付いた。

そうして、姿を現したのは。

「……すげぇ」

掠れた声をルナが洩らしたのが聞こえた。

けれど。

イーニの耳に入ってきたのは、別の音だった。

本能を逆撫でする、低い、低い、持続する音。

まるで、重たい何かを引き摺っているような。

そしてず、ず、と一定のリズムで鳴る音。

段々と、大きくなってくる、音だった。

心臓を恐怖で鷲掴みにされ、目の前のそれからも意識が離れる。

「……っ」

息を呑んでる間に、初めの悲鳴が聞こえた。

「えっ?」

悲鳴に耳を奪われたルナも、その不吉な音に気付いた。

鈍重なように聞こえて、想像以上に早く距離を詰めてくる。

「まさかっ……」

蒼白なルナとイーニは顔を見合わせ、同時に頷いた。

本当に現れるとは。

けれど、怯えている暇はない。

「「っ武器を見つけた!!」」

ここまで持ってくることすら大変だったろう、それ。

途中まで準備がなされているようで、大きな杭が掛かったままになっている。

けれど。

背後からの二度目の悲鳴。

前を向いたままでは、これは化け物を狩れないのだ。

「誰かっ、僕達だけじゃ返せない、手伝ってくれ!!」

化け物の動きに風が動き、渓谷から霧が流れていく。

ルナとイーニに、そして事態に気付いた幾人もが駆け付けるが、武器はあまりに大きく、また化け物もあまりに大きかった。

凶悪な牙が並ぶ口は霞み、遠く見えるが、その速度は絶望的だ。

「っせーの!!」

それでも、今更逃げることもできない。

「っせーの!!」

掛け声を掛けて、逸る心を必死に抑えて、恐怖のあまり声を上ずらせながらも、必死に武器を押す。

ゆっくりと回転する武器に、駆け付けた男達がどんどんと取り付く。

すぐに掛け声は意味を成さない悲鳴に変わった。

「ぁあああああ!!!!」

すぐそこまで敵が迫っている。我武者羅に押して、ようやく武器が前を向いた。

けれど。

「ッ…………」

武器は準備されていた。

途中までは。

取り残されていた、最後の男が蛇に飲み込まれた。

すぐにちろちろと動く舌先がこちらを向き、ごつごつとした大きな体が距離を詰める。

「っ……畜生ッ!!!!」

元隊長だという男の凄絶な叫び声が上がった。

武器の装填の仕方を知っているのは彼だけだ。必死にリーダーと動き回っているが、その声から、間に合わないということは明白だった。

「…………っ」

死を覚悟して、イーニは息を止める。

目の前に迫る大きな牙。凶悪なシルエットが、足元の鎧を踏み潰し、白骨を砕き、ここへ駆けて来る。

「……っ、うわあぁああぁぁああああ!!」

胸を掴まれるような悲鳴を上げて、一人の男が渓谷の奥へと走り出した。それにつられ、幾人も駆け出す。

逃げ切れるはずがない。

それを分かっていたイーニだった。

そしてまた、元隊長は、何度も悪態を突きながら、リーダーに半ば怒鳴りつけるようにして、二人で装填を行っていた。

だがもう遅い。

勢いの止まらない蜥蜴が目の前に迫り、ルナもイーニも来るだろう衝撃に目を瞑り、気付かぬうちに互いの手を取っていた。

ぎゅっ、と体を一杯に縮こまらせる。

息が詰まるような、息ができないような、そんな苦しさが、一瞬に凝縮される。

恐怖に全身に怖気が走る。

そんな、一瞬が過ぎて。

「ッぁああああああああああああああああ!!!!」

響いた怒声に、目を開けた。

大きな体が、それでも尚小さく見える蜥蜴の前に、飛び出す。

手にしているのは、剣と共に転がっていた、柄の折れた槍。

目の前に現れた獲物に大きく口を開けた蜥蜴、その喉に、男は自ら飛びかかっていく。

グゲェエエエエエッ

口を大きく閉じた途端に、弾かれたように口を開いた蜥蜴は、耳を塞ぎたくなるような声を上げた。

鋭い牙に背を大きく抉られた男が、空を掴む手をそのままに、地面に倒れ込んだ。

「…………っ」

凄絶な一瞬。

そして、その一瞬が、蜥蜴の命取りとなった。

「っ畜生が!!!!」

涙混じりの叫びと共に放たれた大きな杭が、蜥蜴の眉間に吸い込まれていった。



「…………それにしても、すごい冒険だったな」

後一晩で砂漠の国へ戻れるという頃、ルナがぽつりと呟いた。

彼の言葉に、イーニは苦笑を返す。

「何度目の台詞だよ。 報酬もでかいぞ」

分け前どころか、丸々一本の蜥蜴の牙……とは言えまぁ小さい牙……をそれぞれにくれたのだ。

国王からも褒賞を貰った。彼等は、もちろんそんなことは無いにしても、砂漠の国から山際の国の危機を救う為派遣されたということになり、砂漠の国へ帰っても褒賞を貰うことになっている。

これは叔母も父親も驚くだろうと、イーニは頬を緩ませた。

凄惨な旅でも有ったが、……しかし、無駄な物ではなかった。

「……俺は、生きて帰れて良かったよ」

「自分から誘ったクセに」

そう、何より、生きて帰れたのだから。

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イーニの冒険譚 新月賽 @toshokan_suimin

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