時面

 時を遡ることができるという。

 厳密に言えば、時を遡ることのできる場所が発見されたのだという。

 私の住む町の中心部にある市役所、角砂糖を思わせる白亜の直方体の庁舎の傍、駐車場の前に大きな花時計が設えてある。その円形に組まれた花壇に囲まれた大きな針が一巡り、二巡りして頂点で重なり合うその時、その針の軸に居ると、自分が望んだ時まで時を遡ることができるのだ、そういう噂話が人口に膾炙するようになっている。誰が名付けたのか、その歪みが生じる花壇は時面と呼ぶのだという。

 子供時代に溯り自分を愚弄した教師へ反撃したという噂が流れれば、別の者はいやそんな小さな理由で遡る者は本質を分かっていない、自らの犯罪歴を消すことに成功した奴がいるのだと、何故か得意げに話す者さえ現れた。実際のところ、時を遡る事にそれに成功した者がどれほど居るのか、時を遡ったとして、どうやって現在に戻って来たのか、そうした詳細は噂を口にする者の誰もが言葉を濁した。

 欠けた月が沈んだ頃、私は花時計の中心に立っていた。

 遡りたい時はただ1つしかない。

 あの日、雲は低く垂れこめ大地は地下深くから割れ、海は死人の血のように黒ずみ世界の果てから陸地に流れ込み、山や川を覆い尽くした。波間から現れた毛だらけの獣が吐き出した息は炎となり、水を被らずに残った町を焼き尽くした――

 世界から3分の1の人と獣が失われたあの大破壊。神の存在を目の当たりにしたあの夜。世界を覆っていた汚物たちが全て排除され浄化された今、世界は神の栄光が覆い尽くす千年王国時代にある。

 その王国を、神以外の誰が望んだのか。

 神の栄光に見放され喪われた者達は誰が顧みるのか。

 時を遡る理由はただ一つ。あの日よりも前に戻り、同居人を連れて破壊の衝撃が及ばない、もしくは被害がより少ない所まで逃げおおせる。

 そもそもその日、同居人がどのように最期の時を迎えたのかさえ、私は知らないのだ。自分の目で確かめる。私が代わりに海にのまれようとも構わない。あの時、足首まで浸かった黒い海に。

 視線を足元に落とすと、花時計の針は徐々に重なり、緩やかに影が1つになろうとしていた。目を閉じ、同居人の笑顔を思い浮かべ名を呼ぶ。

 瞬間、足元の底が抜けたような、落下するような感覚に襲われた。

 慌てて目を開ける。途端、落ちていく感覚は消えた。目の前には先程と変わらない、静まりかえった町があった。

 いや。足元に咲く花が消えている。

 顔を上げればあるはずの建物がなく、大破壊の際に破壊され、無くなったはずの大電波塔が遠くに聳えているのが見えた。目を凝らせば凝らすほど、今とは全く異なる街並みが広がっている。

 恐る恐る花時計から足を踏み出し、市庁舎の前で倒れ込むように寝ている老人に声を掛けた。「きょうは何月何日ですか」

 老人は長いあごひげをかきむしりながら体を起こした。鋭く光る眼差しがこちらを見据える。やがて無言のまま、身体の下に敷いていた新聞を取りこちらに放り投げてきた。その端にはあの日より1日前の日付が書かれている。

 「大破壊って聞いたことがありますか」

 「何だそれは」老人は鼻で笑った。

 間違いない。足先、指先から震えが体の中心に向かうのを抑えきれず、老人への礼もそこそこに記憶にある私の家に足を向けた。

 その時、微かに甲高い音がしたのを私は聞き逃さなかった。

 あの日の前夜、月が厚い雲に覆われた空の彼方から私は確かに聞いたのだ。まるで同じ音が風に乗り、うねるように聞こえてくる。それは獣の鳴き声のようでもあり、角笛のようでもあった。それが何なのか、あの日の私は気に留めることはなかった。気に留めず、だから家に帰ろうとはしなかったのだ。

 ここにあの日が来る。

 もつれる足を辛うじて前に運び、記憶に違わずかつての自宅に辿り着き、扉に手をかける。いつものように、灯りは消えているが鍵は開いていた。0時を過ぎているのだ、同居人はこの時間には既に寝室で休んでいるはずだ。音を立てないように寝室に入る。暗がりの中、寝具の盛り上がった影が見えた。

 「逃げよう」

 横たわった身体に近づき、耳元で囁くように呼びかける。声にしてから、その呼びかけが効果的ではない事に気付いた。これから起きるあの日の災厄をどう説明するべきか。

 「おかえりなさい」

 だが考え付くよりも前に同居人は目を覚ました。「空中都市への出張は来月までじゃなかったの?」幾分間延びした、だが聴き慣れた声が聞こえた。

 君を助けたくて未来から来た。迫り来る災厄から逃げよう。そう言えば良いはずなのに、喉に何かが挟まったように声が出せなくなった。代わりに目頭が熱を帯び頬が火照っていく。

 「――なんだ、仮想現実のデータが送られてきただけね」

 嗚咽を堪えるあまり一言も話せない私を、同居人は月から転送されてきた3次元映像データの塊だと誤解したらしい。同居人の小さな笑い声が響き、それから言が零れた。「あなたはさみしいのね」

 言い当てられて、自我を抑えられなくなった。「逃げよう、今夜世界が消える、だから頼む、一緒に来てくれ」半ば叫び、寝具を払いのけて手を伸ばす。

 固い感触が指に伝わった。ひんやりと冷たいそれが何かはすぐに察しがついた。「ごめんなさい、あなたを悲しませたくなくて身代わりアンドロイドを置いておいたの、」それが弁明する。「しばらく家に帰れなくなったから、……というよりも、もう家に帰れないみたいなの、でも連絡を入れてあなたに心配かけたくなかったから」

 窓の外から甲高い角笛が聞こえる。

 「君は今どこに居る」

 だがアンドロイドはそれには答えなかった。「でも大丈夫、あなたは助かるわ、そのように過去を変えたから、……知ってた?時面を使って過去に行けば未来を変えられるというのよ、あなたが大破壊に巻き込まれず生き延びられるようにしたわ、――ここに来てくれて、私の事を心配してくれてありがとう、今までありがとう、それをあなたに伝えたかった、本当は直接会って言いたかったけど」

 それきりアンドロイドは口を開かなく――正確には音声を発しなくなった。

 何故同居人は家に居ないのか。何故アンドロイドが過去を改変したと告げるのか。同居人は――厳密にはそのアンドロイドは、既に過去を変えたのだと言った。私よりも先に大破壊の災厄を知り、それから私を回避させようとしたのか。

 私が今こうして生きているのは、同居人の不在を嘆くことができるのは、同居人がそのように過去を仕向けたからなのか。足がもつれるように頭の中の思考が跳ね回った。私が今いるここはどの過去なのか。誰もが自由に時面を使って過去を変えているのだとしたら、一体誰が世界を作っているのか。

 潮の香りが鼻をくすぐる。すぐそこまで怒りの海が迫っていることが察せられた。どこをどう走ったか暗闇を駆け抜け、花時計に戻る。時刻は2時少し前を示していた。長針と短針が重なり合う時、というなら何も真夜中だけでなくとも良いはずだ。花壇に残る枯れかけた花を蹴散らし、針の間に直立しようとして、先程の老人が傍らに立っているのに気付いた。

 「逃げるのか?」老人が問いかける。

 「違う、追いかける」

 答えながら老人の顔を見返した。老人の鋭い目つきは先程と同じだった。その目の上、額にびっしりと文字が刻まれていることに気付いた。その示す意味に、目を奪われる。

 「時は常に去りゆくもの、今は既に過去」

 老人はそう言い、足元に跪いた。花時計の長針を両腕で押し動かし、短針の上に重ねる。その膝元は押し寄せてくる海水に浸かっている。「時に逆らい未来へ」

 耳をつんざく大音響。

 思わず目を閉じ耳を手で塞いだ。耳元で角笛の隊列が一斉に奏楽を始めたような音の破裂で、老人の言葉を最後まで聴き遂げることはできなかった。音は次第に遠ざかり、微かになっていく。引き潮のような変化に胸騒ぎがして、慌てて目を開いた。

 薄暗がりのなか、足元に咲き誇る一面の花。

 老人の姿はない。時計の長針と短針は12時の位置で重なったままだ。直感で、私が元居た時に戻ってきたのだと理解した。――何もできないまま、戻ってきた。

 知らず溢れ出た涙を拭おうとして、手に新聞を握りしめたままだったことに気付く。老人から渡された新聞。視線を落とした先、紙の中央あたりに夥しい数の名前が書かれていることに気付いた。

 手に取りなおして凝視する。世界中のあらゆる言語で書かれた名前の一覧、その中に私自身の名前も発見した。遡って紙の最上部、文章の先頭には「生命の書」と外国語で書かれている。

 時に逆らい、時面を未来に向かって通過することができるのは、ここに名前を記されている者だけだ。

 老人が言おうとしていた事を想像すると、不思議と心の中に石が落ちたように思えた。人間には神の視座にたどりつくことはできない。過去に遡り、過去を書き換えたとしても、なお神の書いた千年王国のプログラムを破ることはできない。人間に出来るのは、神の威光が及ぶ名前のリストをせいぜい眺めるだけ。千年王国に入場してしまった人間が出来るのはそれだけだ。

 紙から視線を外し、天を仰ぎ見た。

 足元の花々も、漆黒の夜も、全ては神の栄光のなせる業。

 疑ったところで、何も変えられないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

靄がかりの風景 緋砂かやえ @hisakayae

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ