輝きの先
道半駒子
輝きの先
眼下には初秋の夜景が広がっている。
とっておきの場所。俺とトモで見つけた、雑居ビルの屋上。非常階段の入り口の鍵が壊れて開けっ放しになっており、誰にも見つからずに一番上まで上がることができる。設けられた柵は低く簡素で、金網越しじゃなく、まっすぐにこのきらきらした景色を味わえるのだ。何度も二人でここへ来て、この景色を眺めた。
もう夜の十一時を過ぎていたが、屋上の真横にある大きなネオンの看板のお陰で屋上一面は薄明るい。手元だってよくよく見えた。
それはどこにでも売っているような白い封筒だった。表に「二○××年九月二日」と小さく書かれている。手が震えて、うまく封を開けることができない。一度深呼吸をすると、ようやく端を掴むことができた。ゆっくりと開けて、中の便箋を取り出す。
文字を認識する前に、左横からトモの声が聞こえた。
『ハルと付き合い始めて、もうすぐ一年だ』
「いや、うん。今日でちょうど一年になるな。一周年だ」
『あっという間だったよ、本当に』
「そうだな。あまりにも…あっという間だった」
『びっくりするのは、それでも全然変わらない俺の気持ち。今でもハルのこと、めちゃくちゃ好きだ。大の男がキモいけどさ』
「それを言うなら俺だって。今もお前のことが好きでたまらないよ」
『ハルと出会ったのは学部のゼミでだった』
「お前あんまし授業には来ないくせに、ゼミだけは出席してたからなぁ。顔合わせたのって、本当に偶然だった」
───『恥ずかしい話、俺はハルを追いかけてあのゼミに入ったんだ』
「え」
『一目惚れってほどでもないけど…。ゼミの募集が掲示板に貼られた当日、暇潰しに見に行ってみたんだ。そしたら好みの男が隣で見てて、その場で申込書を書いてたから。俺は出来心で、同じ講師の名前を書いた』
「は……何だよそれ」
『ゼミの初日、ウキウキして行ったもんな。思惑通り、ハルと同じゼミ、しかも隣の席をゲットした』
「おいおい、初めて聞いたよそんなこと」
『なかなかできねーよな、こんなこと』
「マジかよ……」
『そこからはもう、坂道を転がってくみたいな感じでハルのこと好きになった。だって仲良くなればなるほど、ハルって俺の好みだったし。討論会の時すっげえいやらしい反論を考えてるときの顔とか、講師の話を眠そうに聞いてるときのボケッとした顔とか、話し合いの時見せる大人っぽい仕草とか』
「…見た目かよ」
『やばかったよ。ちょっとでも気を抜いたら抱きついちゃいそうでさ。特にゼミの飲み会のときは大変だったな』
「…そうかよ」
───『ハルは俺のどこがよくて付き合ってるのかなっていつも思う。こんなバカでわがままで何もできない俺を』
「何もできなくなんかない。お前は俺に色んな楽しいことも苦しいことも教えてくれた。バカでわがままなお前が大好きだよ」
『俺はハルのどこまでも優しいところが特に好きだ。甘やかすって意味じゃなくて、ハルは本当に他人のことを考えてる。ダメだって思ったら意見するし。普段はものすごく紳士って感じで。もう俺はハルじゃないとダメだね』
「…………」
『一年間色んなとこ行ったなあ。俺が思いつきで言い出したことをハルはいつも形にしてくれたし、連れてってくれた』
「お前が言うから。お前がやりたいことなら俺だってしたくなるんだよ」
『最初はクリスマスに県内の夜景スポット全部回ったもんな。そうとう手間取って帰ったら行くはずの店が閉まってた』
「しょうがないから、コンビニ行って」
『しょうがないから、コンビニで売れ残りのショートケーキを買った。本当は鉄板焼き思いっきり食ってガトーショコラでシメる予定が…夕食はおでんとショートケーキだ』
「次の日、店に謝りの電話を入れたのはお前だった」
『絶対全部回るってごねたのは俺だったから、俺が店に謝った。ハルは時間ないからやめようって言ったのに』
「軽く喧嘩したな。まあ全部回れて結果的には楽しかったよ。おでんも美味かったし」
『それにしてもコンビニの店員にはさぞ淋しいやつらに見えただろうなあ。クリスマスの夜に、ケーキとおでん買ってく男二人なんてさ』
「すっげえいいムードの恋人同士なのにな」
───『年が明けてからは温泉旅行に行った』
「ああ……」
『ハルがエロかった。温泉旅行の思い出っていうのはそれだけ』
「うっ」
『いくら温泉旅館っていうエロいシチュエーションでもさ、あれはやりすぎだよ。露天、誰も他にいないからって、キスくらいなら別に構わないって言ったら、どんどんエスカレートしてくし。あのとき人が来なかったら、絶対最後までやってた』
「………悪かったよ。しょうがねえじゃん」
『エロいハルももちろん大好きなんだけど、時と場所を考えてもらわないとさ。大変なことになる』
「……すいませんでした」
『まあ二週間ぶりだったから? 俺も人の事言えなかったけど』
「そうだよ。お前も言うほど抵抗しなかったのは悪い」
『…一応、謝っとこう』
「春休み、ゴールデンウィーク、夏休み、ハロウィン…色々遊んだな」
『花見、ドライブ、山、海、花火大会……ビール工場見学とかも』
「ああ、行ったな。そういえば」
『ハルがビール党だから。誕生日に俺が全部計画して、連れて行ったんだ』
「珍しいこともあるもんだって思ったら……誕生日のことなんて忘れてたよ」
『ハルがすっげー笑ってるの見て、俺だってハルを喜ばせるくらいのことはできるんだって自信がついたな』
「ぷっ。何だよそんな事考えてたのかよ」
『ハルが喜んでいるかどうかで、恋人としての俺の実力が問われているんだ』
「…何だそりゃ」
『だって俺、ハルといるといっつもうれしいんだもん。これってハルがそうとうな実力者ってことだろ?』
「はあ? 意味わからん」
『そんなハルが俺の誕生日に何をしてくれるかなって思ってたら…風邪ひくし』
「……すいませんでした」
『予約してたっていうケーキ屋さんから電話がかかってきて、俺が取りに行ったし。部屋のクローゼットに隠してたプレゼント、俺が探し当てたし。なんで誕生日迎えた張本人がケーキとプレゼント持って来てんだか』
「…あれは、本当に俺がヘタレだった」
『でも、普段飄々としてるハルが弱ってんのはかわいかったな。喉もやられて声が低かったし、ムラッとした』
「あー…だから」
『だから嫌がるのを無理矢理キスしてやったんだ。ちょっとあれは面白かったな』
「だってお前、そんなことしてうつったら大変じゃねぇかよ」
『何か色々うだうだ言ってたのを黙らせて、』
「病人は大人しく健康人の言うことを聞け!」
『病人は大人しく健康人の言うことを聞け!』
『むちゃくちゃな理屈だ』
「本当だよ。看病してる最中に言うならわかるけど、キスするときに言うことじゃねえっての」
───『色々あったけど、どれも結局ハルへの想いを強くする方向へつながっていくだけだ。ハルはもう、俺の運命の人だ』
「………ああ」
『卒業して、就職して、お金をたくさん貯めたら、ヨーロッパに行きたい。男同士の結婚が認められてるとこ。そこで結婚して、一生二人でそこに住む。俺はハルと一緒になりたい。ハルの名字が欲しいよ』
「………ああ」
『明日は一年記念の日だからちょうどいい。この計画をハルに打ち明けようと思う。とりあえず英語は俺が勉強してるから、頭の良いハルにはその何とかって国の言語を勉強してもらう。向こうに行ってお互いに教え合えばオールオッケーだ』
「……………」
『この手紙を読んでる俺は、二十五歳になるか。そもそも俺、就職ちゃんとできるかな。ハルは全然問題ないだろうなあ。うまくいってれば少しくらいお金も貯まっているはずで。ちょっとでも計画が進んでればいいなあ。何にしても万事早めの方がいいから』
『そういうわけでこれはおしまい。明日ハルと会うのが楽しみだ。なんたって記念日だし。今回は珍しくノープラン。店だけは予約してるけど。今年から就活で二人とも忙しい上に、精神的にもちょっとまいってる。けど、その先の将来のためだから俺は喜んで飛び込むよ』
――『もし今、二十五歳の俺が何か悩んでることがあるとしたら(きっとたくさんあるだろう)、それはすぐハルに相談するべきだ。たぶん言われるまでもなくそうしてると思うけど、一応。例えどれだけひどい大喧嘩をした後だとしてもだ。
ハルのことを大嫌いだと思うのは、俺が誰よりもハルが大好きだからだってことを、今の俺はちゃんとわかってるからね』
視界が滲んで、歪んで、指はかじかんで、固まって、やがて便箋はコンクリートの地面へぱさりと落ちた。
「トモ………」
声は、聞こえなくなった。
滲んだ視界には、輝くネオンと星空が一緒くたになって、真っ黒な空に広がっている。
「今日で、トモと付き合って一年だよ」
こぼれ落ちた。涙だった。こぼれてもこぼれても涙は溢れてきて止まらない。
トモの最期の表情は、何も映していなかった。顔だけは、無事だった。後は乗っていた自転車と一緒にぺしゃんこになっていた。トレーラーのタイヤの後がくっきり残っているのを見た。
トモは今日、この世からいなくなった。
俺と、この一年間だけが残った。
眼下には初秋の夜景と満天の星空が広がっている。
月さえ、きらきら輝いて見える。
この輝きの先にはトモがいる。このきらきらした光の道をたどれば、トモに会える。
簡素な柵を越えてそこへ近づくと、涼しい風が髪や服を舞い上げる。ああ、いつかトモと山登りに挑戦して、山頂から景色を拝んだときにも、こんな風を感じた。
トモ。
今日は記念日だ。
予定通り、お前に会いに行くよ。
嫌だよ、俺は。これからだってお前を感じたいよ。
俺はきらきらと輝く光の道へ、一歩踏み出した。
輝きの先 道半駒子 @comma05
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